ガウディ 建築の常識に挑んだ異才|ザ・プロファイラー

ガウディ 自然を見つめる少年

1852年、スペインのカタルーニャ地方にある小さな町レウスでガウディは生まれました。5人兄弟の末っ子でした。しかし、長くは生きられないと言われたほど病弱。さらにリューマチを患い関節の痛みで歩くことも困難に。ロバで移動しなければならないこともしばしばでした。

 

他の子供たちと一緒に遊ぶこともできず、いつも一人で過ごしていました。次第にガウディは周囲の動植物や風景を注意深く観察するようになりました。

 

ガウディは花や葉の形態、動物の動き方などを観察し、なぜ丘は垂直でなく緩やかに傾斜しているのか考え続けました。こうした子供時代の観察が後の作品に反映されることになったのです。

(ガウディ研究家アナ・マリア・フェリン)

 

そんなガウディは、次第にカタルーニャ地方の美しく変化に富んだ自然に心を惹かれていきました。

 

ここ地中海に面した地域では、強すぎも弱すぎもしない光が物体をありのままに見せてくれる。この光景の中に真の芸術が眠っている。

(アントニ・ガウディ)

 

銅細工師の子として

ガウディは家に帰ると父親の仕事場に足を運びました。父・フランシスコは何代にもわたる銅細工師。ガウディは薄い銅の板が立体的な製品に変わっていくのが不思議でなりませんでした。

 

その後、父の仕事を手伝うようになったガウディ。この体験が建築にもいかされることになりました。

 

私には空間をとらえる資質がある。なぜなら、銅細工師の子であるからだ。

(アントニ・ガウディ)

 

ガウディは父の跡を継ぎたいと思っていましたが、父は反対しました。産業革命によって機械化が進む中でいずれ職人の仕事はなくなるとみていたからです。

 

建築に魅せられて

そんな父の強い希望で、義務教育を終えたガウディは中等教育を受ける学校に進学。ここでガウディは2人の友人と出会いました。

 

15歳の夏、2人の友人と共にカタルーニャ地方が独立していた時代の修道院の跡を訪ねました。その遺跡の天井を見上げた時、ガウディは圧倒されました。

 

「今日から僕の夢は建築家だ!」

 

建築家を目指し専門の学校に行きたいと考えるようになったガウディ。しかし、父の仕事が減っていたことに加え、医科大学に通う兄の学費の負担で家計は厳しい状態でした。

 

それでも父はガウディの夢を実現させようと、残っていた最後の土地を売り払い学費を工面。こうしてガウディは、バルセロナにある建築学校の予科に通うことに。そして、医科大学に通う兄との同居が始まりました。

 

しかし、その日々は悲惨でした。夏は耐えられないほどの蒸し暑さ、そして冬はコップの水が凍る程の寒さ。それでもガウディは兄と共に連日深夜まで勉強を続けました。

 

6年に及ぶ苦難の日々を耐え抜いたガウディは、22歳の時にバルセロナ高等建築学校へ入学しました。

 

ところが、待っていたのは失望でした。決まり切ったことしか教えない授業に興味が持てなかったのです。それでもガウディは徐々に独自の世界を築き上げていきました。

 

苦難続きの学生時代

ある時、共同墓地の門の設計図という課題がでました。ガウディは実際の墓地に何度も足を運びました。そして、ここを訪れる人々の気持ちに寄り添うにはどんな門がふさわしいか考え続けました。

 

結局、提出したのは設計図ではなく風景画でした。担当の教授は激怒。しかし、ガウディは…

 

私が出来の悪い学生だったのではなく、悪かったのは私に合った教授がいなかったことだ。

(アントニ・ガウディ)

 

そんなガウディに衝撃を受ける出来事が。念願の医師になったばかりの兄が死去。その死を嘆き悲しむも後を追うように亡くなってしまったのです。ガウディは神に怒りを向けました。

 

死を与えるのは神なのか。神など信じるものか。

(アントニ・ガウディ)

 

兄が亡くなったことでガウディは年老いた父や姪たちを養わねばならなくなりました。ガウディは授業もそこそこに建築や工芸のアルバイトを掛け持ちするように。図面を書くだけでなく、現場で職人と一緒に石積みをすることもしばしば。

 

人は境遇に従って生きていくしかない。都合の良い境遇であればそれに逆らわず、不都合な境遇であればそれと戦いながら生きなければならない。

(アントニ・ガウディ)

 

26歳の時、ガウディは建築学校を卒業。校長はガウディを見送りながらこう呟いたと言います。

「いま私が建築家にしようとしているのは一人の天才だろうか。それとも、とんでもない愚か者だろうか。」

 

運命の出会い

建築家になったとはいえ裕福な知り合いのいないガウディに仕事の依頼などありませんでした。学生時代のアルバイトの延長で食いつなぐ日々が続きました。

 

そんなある日、思わぬ依頼が舞い込みました。依頼主は皮手袋の店の主人。パリで開かれる万国博覧会で展示するためのショーケースを作って欲しいと言うのです。

 

ガウディは父親から学んだ技術をいかし、見事なショーケースを作り上げました。

 

このショーケースに匹敵するものは万博会場のどこにも見当たらない

(当時の新聞記事)

 

このショーケースに魅了されたのが、当時32歳の青年実業家グエルでした。父から受け継いだ繊維工場などいくつもの会社を経営。バルセロナで有数の大富豪でした。

 

グエルはガウディを自分のサロンに招きました。2人はワーグナーの話題で意気投合。ワーグナーはそれまで歌が中心だったオペラを改革。楽劇という音楽・文学・舞踊などを融合させた総合芸術を生み出した人物です。

 

ワーグナーは総合芸術を作りました。私は建築で総合芸術を作りたいのです。

(アントニ・ガウディ)

 

この出会いをきっかけにガウディは、裕福な人たちから仕事を依頼されるようになりました。

 

そして挑んだカサ・ビセンス。ヤシの木や美しい花々と調和させるため、アラビア風の色彩豊かな建物にすることに。依頼主がタイル工場の社長だったことからタイルを多用し、そこに花の絵を描きました。

 

さらに、ガウディは工芸の腕前をいかし室内の装飾や家具のデザインも手掛けました。建物の中と外は一体と考えていたのです。

 

ガウディは日当たりや換気についても深く考えていました。建物の中の生活環境をとても大切にする人だったのです。

(ガウディ研究科アナ・マリア・フェリン)

 

その後、ガウディはグエルの自宅「グエル邸」を手掛けました。建設するにあたりガウディは20枚以上ものデザイン画を描き、グエルと協議を重ねました。そして完成した建物は当時の常識を打ち破るものでした。

 

放物線上の構造を利用することで、柱を使うことなく丸天井を実現したのです。そして天上からは自然の光が差し込みました。

 

芸術作品の本質は調和である。調和は光から生まれる。光は際立たせ装飾する。

(アントニ・ガウディ)

 

俗人の人生

学生時代、貧しい暮らしを続けていたガウディ。ところが、社会人になり収入が増えると特注のスーツに身を包み豪華な食事をするようになりました。そして、若いインテリ層の集まりに顔を出しては宗教批判を繰り返しました。まさに俗人的な青春時代を過ごしていたガウディ。

 

ところが、いつしか自らの建築を神に捧げるようになりました。

 

宗教への目覚め

31歳の時、大きな仕事が飛び込んできました。サグラダ・ファミリアの建築です。

 

サグラダ・ファミリアはもともと、発足して間もないカトリックの民間団体が会員たちの祈りの場にしようとしたもの。建築費は数十万人いた会員からの献金でまかなうことになっていましたが、貧しい人が多く資金は不足していました。

 

そんな中、もともと担当していた建築家が辞めてしまったため、まだ無名だったガウディに白羽の矢が立ったのです。

 

宗教を批判していたガウディですが、聖堂の建築という仕事は魅力的でした。

 

建築家にとって大聖堂の建築以上に望みうる仕事があるだろうか!

(アントニ・ガウディ)

 

聖堂を建設するとなるとキリスト教に関する知識が欠かせません。ガウディはその知識を習得するため、毎晩ミサに通うようになりました。聖書は暗唱できるほどに読み込み、聖職者用の典礼の専門書も勉強。こうしてガウディにとってキリスト教は徐々に身近なものとなっていきました。

 

恋の行く末は…

この頃、ガウディは一人の女性に心を奪われていました。小学校教師のペピータ。当時、離婚調停中でした。

 

ガウディは毎週日曜日にペピータの元へ通うように。通い続けること5年、この間ガウディが愛を告白することはありませんでした。

 

ついに離婚が成立した時、ガウディは想いを告げました。ところが、ペピータの指には婚約指輪が。すでに別の男性との結婚が決まっていたのです。

 

ガウディはとても傷つきました。何年も通っていたのだからペピータはガウディの気持ちを当然気づいていたはずです。彼女はガウディを建築家としては尊敬していましたが、性格や態度は嫌いでした。彼は無口で親しみやすい人間ではなかったのです。

(ガウディ研究家アナ・マリア・フェリン)

 

その後、ガウディは2度目の恋をしました。相手は信心深い女性。しかし、女性はガウディの想いを受けとめきれず、悩んだ末に修道院に入ってしまいました。

 

3度目の恋は友人の家で出会った外国人の女性でした。しかし、彼女はすでに婚約していました。それでもガウディは3年の間、彼女を想い続けました。

 

40歳を迎える頃にはガウディは結婚を諦めていました。

 

自分には結婚する資質がなかった。

(アントニ・ガウディ)

 

無謀な試み

ガウディはひたすら仕事に打ち込むようになりました。サグラダ・ファミリアを始め、4つの仕事を同時に抱え込む程。しかし、あまりの忙しさに肉体的にも精神的にも追い込まれていきました。

 

42歳の時、イエス・キリストが行ったという40日間の断食に挑むことに。

 

この修行で命を落としたならそれも天命だ。生かされたなら建築家の使命を全うしよう。

(アントニ・ガウディ)

 

2週間が過ぎる頃には意識が朦朧とし、生死の境をさまよい始めました。助手たちが次々と訪れ説得しましたが、聞き入れようとしませんでした。

 

そこに一人の神父が現れ、こう諭しました。

「人が命を絶つのは自分の意志でなく神の意志によらねばならない。あなたには神が望む聖堂を完成させるという使命がある。」

 

ガウディはゆっくりうなずきました。かつて俗人の建築家だったガウディは、神の建築家となったのです。

 

依頼主に寄り添って

46歳の時に取り組み始めたのがカサ・カルベットです。依頼主は亡くなった織物会社社長の妻。夫の思い出を大切にしたいという願いを叶えるためガウディは全力を注ぎました。

 

まず、夫がどんな人だったのか近所の人に聞いてまわりました。すると、キノコが大好きで「キノコ博士」と呼ばれていたことが判明。ガウディはバルコニーにキノコのデザインを取り入れました。

 

また、織物会社を経営していたことから柱には糸巻きの形を、夫人を励ますため幸運を招くという豊穣の角の彫刻も。ガウディは人の心を癒し、幸せにすることをそれまで以上に大切にしました。

 

想像力の爆発

その後もカサ・バトリョ、カサ・ミラなど独創的な建築を生み出し続けました。しかし、他の建築家からは批判の声が。

「骨の家みたいで気持ちが悪い」

「建物がゆがんでいて石切り場みたいだ」

こうした批判にガウディが反論することはありませんでした。

 

48歳の時、グエル公園に挑みました。グエル氏の依頼によるものでした。グエルは60戸の住宅が立ち並ぶ理想の田園都市を作りたいと考えていました。

 

ガウディは自然の景観をできるだけ生かすことにこだわりました。山肌に面した回廊には、その場で掘り起こした岩を使用。曲がりくねった地形もそのまま活用しました。そして壊れた瓶やガラスの破片を埋め込むことで、光の反射で輝く独特の空間を作り出しました。

 

複雑な地形にそくした対応をするため、ガウディはあえて設計図を書かず日々現場で指示を出しました。そして、職人たちと一緒に力仕事も行いました。

 

額に汗して働くのが私には合っている。職人の子だから。人は2つのタイプに分かれる。言葉の人と行動の人だ。私は後者に属する。

(アントニ・ガウディ)

 

ところが1914年、第一次世界大戦が勃発。グエルの事業が思わしくなくなったことで工事は中止となりました。当初予定していた住宅団地が完成することはありませんでした。

 

神にささげた晩年

その後、ガウディは他の仕事を全て断りサグラダ・ファミリアの建設に打ち込むことに。ガウディはこの聖堂に壮大な構想を持ち込んでいました。

 

イエス・キリストを象徴する塔を始め、聖母マリア、12使途、4人の福音書記者、合わせて18本もの塔を建設すること。さらに、イエスの人生を表す生誕・栄光・受難の3つの場面を描き出そうとしていました。

 

それぞれの場面をよりリアルに表現するため、ガウディは聖書に出て来る人物、動物、植物の彫刻にもこだわりました。

 

そこで実物から石膏で型をとることに。動物は麻酔で眠らせて、人物は鏡の前に骸骨の模型をおいてポーズを検討。イメージに合う人を探しては工房に連れてきて型を取りました。

 

しかし、建設を進める上で大きな問題がありました。資金難です。工事はたびたび中断していました。

 

ガウディは寄付を求めるため見知らぬ家を一軒一軒訪ね歩くことに。

 

自分のために乞うのではなく、ただ神の家のために乞うているのです。私は聖堂の小間使いにすぎません。

(アントニ・ガウディ)

 

この頃、ガウディは一切の贅沢を避けるようになっていました。着る物は古着、食事も肉や魚は口にしなくなっていました。

 

芸術は極めて高次のものである。だから苦痛や貧窮を伴うことで、平衡を保たなければならない。

(アントニ・ガウディ)

 

73歳の時、ガウディはサグラダ・ファミリアの地下で寝起きするようになりました。足腰が弱ってしまったからです。それでも、毎晩教会のミサに通うという習慣は変えようとしませんでした。

 

ある日、仕事の打ち合わせが長引き出かける時間が遅くなってしまいました。ミサへと急ぐガウディ。そこに路面電車が。あまりにみすぼらしい服装だったため、集まった人々は浮浪者だと思い込み、なかなか病院に運んでもらえませんでした。

 

3日後、ガウディは亡くなりました。73年の生涯でした。

 

ガウディの死後

ガウディは「葬儀はできるだけ質素に」と言い残していました。しかし、病院からサグラダ・ファミリアまでの通りは市民で埋め尽くされました。街中の家々で追悼の垂れ幕が下げられ、営業する店はありませんでした。

 

遺体はサグラダ・ファミリアの地下に埋葬されました。

 

ガウディの死後、完成まで300年かかると言われていたサグラダファミリア。しかし近年、最新技術を導入することで工期を大幅に短縮。ガウディの没後100年にあたる2026年の完成を目指しています。

 

建築家は総合的人間である。生涯を通じて長く苦しい研究と忍耐を繰り返し、犠牲の道を一歩一歩歩いていかなければならない。

(アントニ・ガウディ)

 

「ザ・プロファイラー 夢と野望の人生」
ガウディ
~建築の常識に挑んだ異才~

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