ショパン 「ピアノの詩人」の意外な素顔|ザ・プロファイラー

140年、ポーランド・ワルシャワの聖十字架教会におさめられたショパンの心臓。近年、死因を特定するため最新技術による分析が行われるなど、ショパンは今も注目を集め続けています。

 

ショパンの音楽は多くの人に親しまれていますが、その人となりは親しみやすいものではなかったと言います。極度の内気で人前に出ることが苦手。音楽家にとって大切な演奏会を断るほどでした。また、優柔不断で決断力はなし。さらに、プライドが高く神経質。そんなショパンは若い女性との恋愛にことごとく失敗。裕福な年上の女性に甘えました。

 

ショパンはピアノという楽器にこだわり、他の作曲家とは一味違う独自の音楽世界を築き上げました。なぜ独自の音楽世界を築くことができたのでしょうか?

 

陽気な少年時代

1810年、フレデリック・ショパンはポーランドの小さな村ジェラゾバ・ボラで生まれました。父ミコワイはフランス出身で、村の領主の家で家庭教師をしていました。母ユスティナは、その領主の遠縁にあたる貴族の末裔でした。

ショパンの母親は家でよくピアノを弾いていました。歌も得意でした。一方、父親はフルートを吹くことができました。この家にはいつも音楽があふれていました。

(ショパンの生家 館長マリオラ・ボイトキエビチさん)

 

ショパンが生まれて間もなく、父親がワルシャワの高等学校で教師の職を得ました。一家はワルシャワに移住しました。

 

4歳の時、ショパンは母の影響でピアノを弾き始めました。6歳の時には音楽の家庭教師をしていたジブニーからレッスンを受けるようになりました。しかし、ジブニーの専門はバイオリン。ピアノはそれほど得意ではありませんでした。

 

そこで、ジブニーは基礎的な演奏は行わずバッハやモーツァルトの作品を自由に弾かせました。

ショパンは、ほとんど1人で学んでいるようなものでした。しかし、ジブニーがバッハやモーツァルトに触れさせたことはショパンに大きな影響を与えました。作曲に興味を持つようになったのです。

(ショパン研究所 音楽学教授ゾフィア・ヘフリンスカさん)

 

ショパンは7歳で最初の作品を発表。「ポロネーズ ト短調」です。ポロネーズとは、ポーランドの伝統的な舞曲です。ショパンは、神童として一躍その名を知られることになりました。

 

高等中学に入った頃にはすでに有名人となっていましたが、それを鼻にかけることはなく友達と気さくに付き合いました。モノマネが得意で道化役を演じることもしばしば。授業中は先生の似顔絵を描いてばかりいました。

 

ショパンは音楽以外にも絵画や演劇など色々な才能を持っていました。しかし、自分が優れているとか、周りの人とは違うという意識は全く持っていませんでした。そのため、多くの友人に囲まれて育ちました。

(ショパン研究所 音楽学教授ゾフィア・ヘフリンスカさん)

 

14歳の夏休み、ショパンは友人の実家がある田園地帯に滞在しました。ここで、農民たちが奏でる音楽と出会いました。ポーランドの舞曲マズルカです。これを機に、ショパンはマズルカの作曲に積極的に取り組むようになりました。

 

ポーランドの上流階級が好んだポロネーズ、そして農民たちに愛されたマズルカ。ポーランドを代表するこの2つの音楽をショパンは生涯愛し、数多くの作品を残すことになりました。

 

16歳の時にワルシャワ音楽院に入学。3年後、学校を首席で卒業し音楽の都ウィーンへ演奏旅行に出かけ、熱狂的に迎えられました。

 

彼らは僕にびっくりしている。僕の方も彼らが僕にびっくりすることにびっくりしている。

(フレデリック・ショパン)

 

旅立ちへの戸惑い

この成功をうけ、父はショパンを世界で勝負させることにしました。しかし、本人はポーランドを離れることが不安で仕方ありませんでした。

 

出発の日を決める勇気が僕にはない。ただ死ぬために出発するような気がする。

(フレデリック・ショパン)

 

ショパンが出発をためらうのはもう一つ理由がありました。同じ学校に通っていた声楽科の生徒コンスタンツィアの存在です。

不幸なことに、理想の人に出会ってしまった。

(フレデリック・ショパン)

しかし、内気なショパンは…

この半年、一言も口をきかぬままに忠誠をささげ夢に見てきた。

(フレデリック・ショパン)

ある日、教会で偶然コンスタンツィアと目があいました。

しびれを感じ建物から走り出た。15分ばかりぼーっとしたままで何か起こったのか分からなかった。

(フレデリック・ショパン)

 

20歳の時、ショパンは様々な思いに引きずられながらポーランドを後にしました。

 

音楽に加わった激しさ

ポーランドを離れたショパンは、それまでとは全く違う激しい曲を生み出しました。「革命のエチュード」です。ポーランドの伝統的な音楽を愛していたショパンが、なぜ激しい曲を書くようになったのでしょうか?

 

祖国ポーランドへの愛

ポーランドを旅立ったショパンが向かったのはウィーンでした。しかし、到着して1週間思わぬ事態が生じました。1830年、祖国ポーランドで革命が起きたのです。

 

当時、ポーランドはロシアの支配下。その圧政に苦しむ人々が反乱を起こしたものでした。帰国して革命に加わるべきかショパンは悩みました。しかし、親友にこう説得されました。

君は戦場では役に立たない。自分の芸術に専念し、ポーランドの名を広めることが銃をとるよりはるかに多くのことを祖国のために成しうる。(親友)

結局、ショパンはウィーンにとどまり音楽活動を続けることにしました。

 

この頃、ウィーンではワルツが大流行。ショパンのピアノに興味を示す人はほとんどいなくなっていました。

ショパンは友人への手紙の中で「ウィーンではワルツを芸術と呼ぶ」と皮肉を込めて書いています。「男女が躍る目的で作られたワルツは趣味が悪い」「ウィーンの人々は音楽を知らない」と見下しています。

(ショパン研究所 音楽学教授ゾフィア・ヘフリンスカさん)

さらにショパンを苦しめたのが、ポーランド人に対するウィーンの人々の厳しい視線でした。革命の影響が自国に及ぶことを恐れたオーストリアは、ポーランドの動きを快く思っていなかったのです。ショパン自身こんな言葉を耳にしました。

ポーランド人を創造したのは神様の失敗だ。(ウィーンの市民)

 

ショパンは無気力と苛立ちにさいなまれるようになり、作曲をすることもなく毎晩夜会に出かけては時間を潰しました。

国を出てしまったことが呪わしい。サロンでは平静をよそおっているが部屋に戻ると鍵盤を叩きのめしている。

(フレデリック・ショパン)

 

翌年、ポーランドの革命は失敗に終わりました。犠牲者は数万人にのぼりました。

父よ、母よ、私の大切な人たちよ。みんなどこにいるのだ?死んでしまったのだろうか?自分はどうして1人のロシア人さえ殺せなかったのか。

(フレデリック・ショパン)

 

革命の失敗はショパンの音楽に大きな変化をもたらしました。激しさが加わったのです。そして生まれたのが「革命のエチュード」です。

 

ウィーンで成功するのは難しいとみたショパンはパリへと向かいました。当時、パリにはヨーロッパの名だたるピアニストが集結し、演奏会でその腕を競い合っていました。

 

半年後、ショパンもようやく演奏会の機会を得ました。しかし、しばらくすると演奏会を断るようになりました。

僕は公演には向いていない。聴衆に気後れさせられ息ができないほどだ。好奇の目が僕をもまひさせ居並ぶ他人の顔が言葉を奪う。

(フレデリック・ショパン)

 

ショパンの演奏はとても繊細で音が小さかったと言われいます。大きなホールでは音がよく聴こえず批判的な記事を書かれてしまいました。また、知らない人の前では演奏したくないとも思っていました。

(ショパン研究所 音楽学教授ゾフィア・ヘフリンスカさん)

 

24歳の時、ショパンは大きな決断を迫られました。ロシア政府が亡命しているポーランド人に対して、大使館に出頭するよう要請したのです。応じなければ二度とポーランドに戻れなくなります。両親からは素直に応じるよう説得されました。それでもショパンはこの要請を拒否。その後、ロシア政府からロシア皇帝付きピアニストという名誉ある地位を提示されましたが、ショパンはこれも断りました。

 

革命には参加しなかったものの、私の心は戦う仲間と共にありました。したがって私は自分を亡命者とみなし、それ以外の身分は有しないと考えています。

(フレデリック・ショパン)

 

男装の貴婦人との出会い

26歳の時、ショパンは一人の女性と出会いました。ジョルジュ・サンドです。ジョジュルという男性の名で活躍する人気作家で、男装の貴婦人と呼ばれた人物です。18歳で結婚し、2人の子供をもうけたものの夫を捨ててパリへ。そして、社交界に出入りし詩人のミュッセや作曲家のリストなど多くの有名人と浮名を流していました。当初、ショパンは自由奔放に生きるサンドに嫌悪感を抱きました。

何て感じの悪い人だ。あれでも女なのか。

(フレデリック・ショパン)

ところが、その後ショパンは年上のサンドに甘えるようになりました。

 

年下の女性との恋

当時、ショパンは別の女性と婚約していました。9歳年下のマリアです。ポーランド貴族の娘で、かつての教え子でした。しかし、マリアの母親から条件を突きつけられていました。

健康的な生活をしてください。全てはこのことにかかっています。

この頃、ショパンは結核にかかっており大量の血を吐くこともありました。それでも、マリアの母の忠告を無視し毎晩のように夜会に出かけました。

 

ごきげんよう。私たちのことをどうぞお忘れなく。(マリア)

ショパンはマリアから貰った手紙の数々を一つにくくり、「わが悲しみ」と記しました。

 

男装の貴婦人との日々

そんな矢先、ショパンはサンドと再会しました。サンドは、ショパンに言い寄りました。

あなたは熱愛されている(ジョルジュ)

そして、傷心のショパンも

ピアノに寄りかかって抱くような瞳が私を包んだ。私の心はとらわれてしまった。

(フレデリック・ショパン)

 

有名人同士の2人の恋はパリ中の話題となりました。そこで2人は喧噪を逃れるため、サンドの2人の子供たちを連れてスペインのマヨルカ島へ。そこは楽園でした。

トルコ石色の空、瑠璃色の海、エメラルド色の山、天国のような空気。すべてがアフリカの方を向いている。まさに極上の生活だ。

(フレデリック・ショパン)

 

しかし、連日の豪雨と耐え切れないほどの湿気でショパンは体調を崩してしまいました。

ここは小さな島なので、ショパンが結核だという噂はすぐに島中に知れ渡りました。そして、借りていた家から追い出されてしまったのです。

(カルトゥハ修道院ショパンコレクション管理人ロサ・カップリョンク・フェラさん)

ようやく見つけた引っ越し先は山奥にある寂れた修道院でした。

 

ある日、サンドと子供たちが買い物に出かけました。そこに突然の嵐が。夜になってもサンドたちは帰ってきませんでした。一人取り残されたショパンは寂しさに耐え切れず指先で鍵盤をならし続けました。そしてできたのが「プレリュード 第15番 変二長調 (雨だれ)」です。

 

彼は静かな絶望に陥り、涙を流しながらすばらしい曲を弾いていました。あの日、屋根に音を立てて落ちた雨のしずくは、彼の音楽の中で天から落ちる涙に変わったのです。

(ジョルジュ・サンド)

 

結局、ショパンの体調不良によりマヨルカ島での暮らしは3か月で終わりました。落ち着いた先はフランスのノアン。サンドが祖母から受け継いだ広大な領地と館がありました。

 

サンドはショパンが作曲に集中できるように気を配りました。ショパンの部屋の扉は、馬のたてがみが詰め込まれた防音扉になっています。ショパンはとても神経質でした。床のきしむ音や扉を開け閉めする音も嫌がるほどでした。

 

裕福なサンドに守られたショパンは、金を稼ぐ必要もなくひたすら自分の内面と向き合い続けました。そして、名曲の数々が生まれていきました。

 

思わぬ破局と孤独な死

付き合い始めて5年が過ぎた頃、病弱なショパンとサンドの関係は恋人から親子のようなものに変わっていました。サンドは自宅に男友達を招いては思わせぶりな態度を示すようになり、ショパンは嫉妬心を募らせていきました。

 

そんな中、サンドが小説の新作を発表しました。多くの恋人がいる女性と彼女を悩ませる気難しい年下の男の恋愛を描いたもの。そこには明らかにショパンに対する批判が込められていました。サンドはストレスがたまり、ついに嫌気がさしてしまったのです。

 

2人の関係をさらに悪化させたのは、サンドの子供たちでした。兄のモーリスは、自分から母親を奪ったショパンを子供の頃からよく思っていませんでした。一方、妹のソランジュは母と折り合いが悪く反抗心からショパンにいいよるように。いつしか、ショパン&ソランジュ対サンド&モーリスという対立の構図ができあがっていました。

 

ショパンが37歳の時、ソランジュはサンドに家を追い出されパリに滞在していたショパンを頼りました。ショパンはソランジュの言い分をうのみにし、サンドにこう書き送りました。

ソランジュに関しては僕も無関心ではいられません。いついかなる時でも子供を愛するのがあなたに与えられた宿命です。

(ショパンからサンドへの手紙)

この手紙を見たサンドは激怒。

母親を嫌い中傷する娘に今さら母の愛が必要という資格はありません。彼女の方を信じるということでしたら、どうぞ尽くしてやってください。9年にわたる友情の日々に奇妙な終止符が打たれることを神に感謝したいと思います。

(サンドからショパンへの手紙)

その後、2人が連絡を取ることは二度とありませんでした。

 

サンドと別れて半年後、パリで二月革命が勃発。王政が崩壊し、音楽家たちの仕事は激減しました。そんな中、ショパンはピアノを教えていたスコットランド出身の姉妹からイギリス行きを勧められました。

 

しかし、待ち受けていたのはイギリス国内を転々とする過酷な演奏旅行。ショパンは心身ともに疲弊していきました。

作曲しようとしても何もできない。意欲がないからではなく肉体的な無理が原因だ。スコットランド人姉妹は休む暇も与えてくれない。彼女たちは人の好さで僕を窒息させる。

(フレデリック・ショパン)

 

7カ月後、パリに戻ったショパンは起き上がることもできなくなっていました。ある日、大量の血を吐きポーランドにいる姉に手紙を書きました。

 

どうか僕のところへ来て欲しい。お金がなければ借金してでも来てほしい。

(ショパンから姉への手紙)

 

1849年10月、ショパンは姉に看取られながら39年の生涯を終えました。

 

 

晩年ショパンが持ち歩いていた手帳には、ジョルジュ・サンドの髪がはさまれていました。ショパンは別れてからもサンドを思い続けていたのです。一方、サンドはショパンの葬儀にさえ出向きませんでした。

 

ショパンの遺体はパリの墓地に埋葬されました。しかし、心臓だけは遺言により姉がポーランドに持ち帰りました。心臓が安置された教会の柱にはこう刻まれています。

 

あなたの大切なものがあるところにあなたの心もある

 

「ザ・プロファイラー 夢と野望の人生」
フレデリック・ショパン ❝ピアノの詩人❞の意外な素顔




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