明智光秀 ”天下の謀反人”の真実|ザ・プロファイラー

お家再興への格闘

明智光秀は1528年、美濃国の明智城の城主の子として生まれました。その後、美濃国は下剋上でのし上がった斎藤道三の支配するところとなり、土岐明智家も道三に仕えることになりました。

明智光秀

ところが、明智光秀が29歳の時、信じられないことが起きました。斎藤道三の息子・義龍が兵をあげ父・道三を討ったのです。そして、道三の家臣であった明智家も攻撃を受けることに。明智城は落城。明智光秀は城から逃れました。以来、再び城を持ち明智家を再興することが明智光秀の使命となりました。

明智光秀は、新たに使える主君を探し何年もの間諸国を渡り歩きました。しかし、生活は厳しく朝夕の食事さえ満足にとれない有様。

そんなある日、客人をもてなさねばならなくなり明智光秀は困り果てました。妻・煕子(ひろこ)は客人の料理のために長く美しかった髪を売りました。明智光秀は生涯側室を持つことはなく煕子だけを大切にしたと言います。子宝にも恵まれました。明智光秀の三女は後の細川ガラシャです。

放浪生活の末、明智光秀は越前の朝倉義景に仕えることになりました。ある日、朝倉家に足利義昭がやってきました。当時の室町幕府は有力大名に牛耳られていて足利家には何の実権もありませんでした。義昭には、自らが京にのぼり将軍となることでこうした状況を打破したいという思いがありました。そこで、昔から将軍家と親交が深い朝倉家に支援を求めてきたのです。

この時、明智光秀は義昭の家臣・細川藤孝と出会いました。二人は意気投合し強い信頼関係で結ばれました。

義昭の意向を知りながら、朝倉義景はなかなか動こうとしませんでした。ついに明智光秀は細川藤孝にこう切り出しました。

残念ながら朝倉家にいは義昭公を京に上らせ奉るほどの武力も気力もござりませぬ。もっと強い力と果敢な意気に燃えた大名を求めねばなりませぬ。尾張の織田信長さまがおよろしかろう。

堺屋太一「鬼と人と(上巻)」より

明智光秀は仲介役として織田信長のもとへ。二人が対面したのは明智光秀41歳、織田信長35歳の時でした。信長は明智光秀の申し入れを承諾。足利義昭を将軍の座につかせ、その権威を利用しようと考えたのです。こうして信長は義昭をようし京へと上り、義昭は室町幕府第15代将軍となりました。

明智光秀は朝倉義景の元を去り、足利義昭と織田信長両方に仕えることになりました。そして明智光秀は、織田家臣団のトップにのぼりつめました。信長は明智光秀をこう評しました。

明智光秀の働きは天下に誇れるものである

信長の右腕として台頭

信長に仕えることになった明智光秀は、京都奉行に抜擢されました。都の治安維持に加え、朝廷や公家と交渉をになう要職です。明智光秀は歌会や茶会を度々開いては公家を招き、その要望を聞き出していきました。

貴族は各地に荘園を持っていたが応仁の乱以降武士に侵略されています。侵略された公家や朝廷の荘園を取り戻す仕事もやってますね。そういった関係もありまして、公家と光秀は親密になっていった。

(静岡大学名誉教授 小和田哲男さん)

明智光秀が信長のもとにきて2年、信長は朝倉義景の討伐に乗り出しました。しかし、同盟関係にあった浅井長政に裏切られ挟み撃ちに。撤退することさえ難しい信長最大のピンチ。この時、明智光秀は羽柴秀吉と一緒に「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる武功を上げました。追撃してくる相手を命がけで食い止める役割を担い、見事撤退を成功させたのです。

続いて織田信長がとりかかったのが比叡山の焼き討ち。当時、武装していた比叡山は戦国大名さながらの一大勢力で信長と対立していました。しかし、寺院や仏像を焼き僧侶を殺すことに家臣の多くは二の足を踏みました。そんな中、明智光秀は信長の命に忠実に従いました。

敵対する者たちは皆殺しにしていただきたい

(明智光秀書状)

明智光秀は、比叡山を壊滅させました。こうした明智光秀の働きを信長は高く評価。そして近江・坂本5万石の領地を与えました。明智光秀はここに坂本城を築城。念願の自分の城を手に入れました。信長の家臣の中で一国一城の主となったのは明智光秀が最初でした。ついに明智光秀は明智家再興という悲願を達成したのです。

信長に仕える一方、足利義昭にも仕えていた明智光秀。厳しい選択を迫られることになりました。将軍・義昭を飾りとしか考えない信長に対し、不満を募らせた義昭が挙兵したのです。明智光秀が選んだのは信長でした。戦いに敗れた義昭は京都から追放され、室町幕府は事実上滅亡しました。

信長は天下統一への動きを加速させ、明智光秀にも丹波攻略という新たな命が下りました。丹波には堅固な山城が点在していました。そのため、信長をはじめ多くの戦国大名が攻めきれずにいました。その丹波の攻略を命じられた明智光秀ですが、他の武将たちの援軍も命じられ大坂・尾張・越前・紀州などへ転戦を強いられました。

明智光秀は過労により一時は生死をさまようほどの状態に。それでも復帰を果たした明智光秀は、5年がかりで丹波攻略を成し遂げました。信長は明智光秀を絶賛しました。

明智光秀の働きは天下に誇れるものである

明智光秀は攻略した丹波29万石を与えられ、元々の近江・坂本の5万石を合わせ34万石の大名に。数々の功績を積み重ねた明智光秀は「信長の右腕」と言われるほどになりました。

本能寺の変の真相とは?

天正10年、織田信長は最大のライバルだった武田氏を滅ぼし、天下統一に大きく近づきました。しかし、そのわずか数か月後、本能寺の変で討たれることになりました。なぜ明智光秀は信長に反旗をひるがえしたのでしょうか?様々な説がとなえられています。

朝廷黒幕説

天下統一を目前にした織田信長は、朝廷に対しても不遜な態度をとるようになっていました。そこで朝廷が長年パイプ役をつとめてきた明智光秀をそそのかし信長を討つよう仕向けたというのです。

幕府黒幕説

信長に追われ毛利家に身を寄せていた足利義昭が裏で糸を引いていたというものです。その可能性を示唆するのが、本能寺の変の直後に義昭が書いた手紙です。信長と敵対していた武将に向け、信長を討ったのは自分だと宣言。京にのぼる準備をし忠義を尽くすのなら恩賞を与えると呼びかけているのです。

秀吉黒幕説

豊臣秀吉

本能寺の変の後の素早い行動は事前に明智光秀の動きを知っていたからだというのです。

一方、黒幕などおらず明智光秀自身の決断だったという見方もあります。

四国説

四国統一を目前にしていた長宗我部元親は、信長と同盟関係にあり、その間を取り持ってきたのが明智光秀でした。ところが、信長は突然同盟を破棄。これまで獲得した領地を差し出すように命じました。明智光秀は面目丸つぶれでした。

この時、明智光秀が取った行動を裏付ける文書が2014年に見つかりました。石谷家文書です。信長の要求通り領地の一部を差し出し和睦をはかるよう元親にうながしています。しかし、明智光秀の根回しはうまくいかず信長は四国討伐を決意。本能寺の変が起きたまさにその日、討伐軍が出陣することになっていました。明智光秀はこれを阻止しようとしたというのです。

怨恨説

ポルトガルの宣教師が人々から聞いた話としてこう伝えています。

口答えをした光秀は信長から足蹴にされた。

この理不尽な仕打ちに恨みを抱いたと言います。

前途悲観説

この頃、信長は自分の息子たちなど身内を重用するようになっていました。一方で、織田家に長年仕えてきた2人の家老を最近目立った働きがないとして突然追放。そして、光秀にも信長の命令が。現在の領地・近江と丹波を手放し、出雲と石見に移れというのです。しかも、出雲と石見は毛利の領地。それを実力で奪い取れということでした。この時、明智光秀は55歳。将来への不安が心を占めました。

人を道具としてしか見ておらぬ。

(司馬遼太郎「国盗り物語」より)

野望説

本能寺の変の4日前、明智光秀は神社に足を運び戦勝祈願をしました。毛利を攻めている秀吉の援軍を申しつけられたからです。翌日、この神社で連歌会が開かれました。その時に明智光秀が詠んだ歌が…

時はいま あめが下しる五月かな

こんな意味があるとも言われています。「時」は土岐明智、「あめが下」は天下、「しる」は治める。つまり、今こそ自分が天下を治める時だというのです。

そして迎えた運命の時

この時、信長の主だった家臣たちは京都から遠く離れた所で戦いにのぞんでいました。一方、信長はわずか100人ほどの手勢と共に京都の本能寺に滞在していました。

明智光秀は毛利攻めをしている秀吉の援護に向かうため、夜8時過ぎに丹波・亀山を出発しました。明智光秀の決意を知るのは数人の家臣のみ。

わが敵は本能寺にあり

1万を超える軍勢が本能寺に攻め入りました。信長は謀反が起きたと知らせを受けました。相手が明智光秀だと知った信長は…

是非の及ばず
(仕方がない、ただ戦うのみ)

信長は自害。そして亡骸は炎に包まれました。

11日で終わった天下

信長を討った明智光秀は天下をとろうと動き始めました。しかし、明智光秀の天下はわずか11日。後に三日天下という言葉が生まれるほど呆気ないものでした。

明智光秀は何を読み違えたのか?

織田信長と長男・信忠を討った明智光秀は、安土城へと向かいました。信長を討った自分こそが天下人という立場を示すためでした。ところが、信長の家臣の一人によって途中の橋が落とされてしまいました。やむなく明智光秀は自らの居城・坂本城に戻りました。

橋の復旧には3日を要しました。その間、明智光秀は各地の武将たちに書状を書き続けました。

信長父子の悪逆は天下の妨げ 討ち果たし候

信長を討ったことを知らせると共に、自分への協力を要請したのです。

3日後、橋が復旧し明智光秀は安土城に入りました。そして、朝廷からの使者を待つことにしました。天下人として朝廷のお墨付きを得ようとしたのです。勅使が来るまで明智光秀は3日間待たされました。

朝廷は明智光秀を次の天下人と認め、京の守りを依頼。一安心した明智光秀でしたが、気がかりなことがありました。書状を受け取り駆け付けてくるはずの武将たちがなかなか集まってこなかったのです。原因は秀吉の策略でした。

本能寺の変が起きた時、秀吉は備中高松城で毛利勢とにらみ合っていました。しかし、信長が討たれたことを知ると迅速に行動を起こしました。毛利勢に信長の死が伝わらないようにした上で、その日のうちに停戦に持ち込んだのです。そして、各地の武将に書状を送り「信長さまは無事に切り抜けられた」と情報を流し続けました。遺体が見つかっていないことに目を付け、信長は生きているという偽情報を流すことで武将たちが明智光秀に合流しないよう仕向けたのです。

さらに、秀吉は猛スピードで京都へ。稀に見る強行軍で1日に70km以上を走りぬいた日もあったと言います。

一方、明智光秀は完全に秀吉に出遅れ、他の武将の協力が得られずにいました。かつて一緒に足利義昭を助けた盟友・細川藤孝にも協力を断られてしまいました。

明智光秀は後にガラシャと呼ばれる娘を細川藤孝の息子・忠興にも嫁がせてもいました。それでも、藤孝は協力を拒み、信長の死を弔うと称して出家してしまいました。

明智光秀はさらなる書状を送りました。

私に協力してくれれば摂津の他、但馬、若狭も譲ろうと思う。今回の謀反は思いがけず起こしたもの。あなたの息子の忠興殿を取り立てたかったためだ。

細川藤孝がこの手紙に反応を示すことはありませんでした。

6月13日、山崎の戦いが始まりました。光秀の軍は約1万、対する秀吉軍は3万6000以上。圧倒的な兵力の差に勝負は短時間でつきました。そして、明智光秀は落ち武者狩りをしていた農民に竹やりで刺され命を落としました。

「ザ・プロファイラー 夢と野望の人生」
明智光秀 ”天下の謀反人”の真実

この記事のコメント