イギリス屈指の政治家として知られるウィンストン・チャーチル。実は政治意外にも様々な顔を持っていました。画家の顔、ノーベル賞文学賞を受賞した作家の顔、自宅の壁を自ら作ったレンガ職人の顔。
こうした知られざる顔は失敗と挫折を繰り返し、それでも首相を目指したチャーチルの歩みから生み出されたものでした。
おちこぼれ少年
チャーチル家は約150年に渡って続いた貴族の家柄。1874年、チャーチルはブレナム宮殿で生まれました。
父ランドルフは後に財務大臣をつとめた政界の貴公子。母ジャネット・ジェロームは、ロンドンの社交界でも有名な美女でした。
チャーチルは7歳で名門貴族の通う寄宿学校に入れられました。当時の通信簿には…
(遅刻)20回 恥ずべきこと
トラブルの元凶 ケンカが絶えない
息子の通信簿を見たランドルフはこう言ったそうです。
「お前は負け犬の一人となりみすぼらしく不幸で不毛な存在に堕落するだろう。」
しかし、チャーチルはどんなに冷たくされても父を尊敬し憧れていました。演説原稿を読んだり父が載っている新聞記事を集めて、どうしたら父のようになれるのか考えました。
優しく抱きしめてくれるはずの母親もチャーチルには冷淡でした。チャーチルが寄宿舎から母に書いた手紙が残っています。
どうぞ ぜったいぜったいぜったいぼくに会いに来てください。ぜったいです。
そんなチャーチルの孤独を癒したのがおもちゃの兵隊。チャーチルは人間の兵士を指揮している時だけは夢中になれました。その姿を見た父は政治家よりも向いているのではと、チャーチルに軍人の道を進めました。
士官学校に入学したチャーチルは19歳になったある日、父が演説の最中に言葉につまったという知らせが届きました。原因は重い病でした。そして父ランドルフは45歳で亡くなりました。
チャーチルの前から目標とすべき偉大な父が突然消え去ったのです。
私はいまや己自身が運命の主人となった
(ウィンストン・チャーチル)
大英帝国の軍人
士官学校を卒業したチャーチルが初めて自らの意志で選んだ場所は戦場でした。
イギリスは世界中に植民地を持つ大英帝国として栄華を極めていました。ところが、19世紀の末から各地で植民地の独立運動が勃発。武力反乱もしばしば起きていました。
チャーチルはそうした反乱を抑えるべく、インド、スーダンなど戦地を転々としました。最前線に立ち敵の弾丸を避けない命知らずの活躍で頭角を現していきました。
そんな生活の中、常に持ち歩き夢中で読んだのが「ローマ帝国衰亡史」です。大英帝国の行く末に危機感を持つチャーチルにとって、本に記されたローマ帝国衰退の歴史は他人事とは思えませんでした。
我が人種の力と活気は衰えることなく先祖から引き継いだ帝国を保持していくことを我々は決意している。
(インドから帰国後に行った演説)
政治家の道へ
戦場から戻ったチャーチルは、軍人を辞め父と同じ政治家の道を志しました。24歳で下院議員に立候補。しかし、実績も知名度もないチャーチルは落選。
「とにかく知名度を上げなければ選挙には勝てない。」
再び戦場へ
その時チャーチルが目を付けたのは、南アフリカで起きていたボーア戦争でした。イギリスが新たな植民市を獲得しようとオランダ系のボーア人に対して起こしたものです。
チャーチルは新聞社と契約を結び従軍記者として戦地へ。ところが、チャーチルは現地で敵に捕らえられ捕虜に…
危機一髪の大脱走
3週間が過ぎた頃、チャーチルは仲間と脱獄を試みました。しかし、監視の目を盗んで脱獄できたのはチャーチルだけ。敵地の中でたった一人の逃亡が始まりました。
チャーチルは列車に乗り込み500km先のポルトガル領モザンビークを目指しました。脱走してすぐチャーチルには追手がかかり懸賞金もかけられました。
チャーチルは思い切って列車から飛び降りました。脱走から2日、一か八か一軒の家のドアを叩きました。家の男は現地に帰化した元イギリス人。この地で数少ない味方でした。
捕虜の身から脱獄し単身イギリスに生還したチャーチル。マスコミはこぞって英雄として取り上げました。はからずも抜群に知名度を上げたチャーチルは、選挙に立候補し初当選を果たしました。25歳でした。
妻と家庭
33歳の時、クレメンティーンと結婚。9歳年下の妻は生涯に渡りチャーチルに安らぎを与えてくれました。二人は5人の子供にも恵まれました。
手紙には2人の間だけに使われた親密な呼び名が書かれています。クレメンティーンがチャーチルへ送る時は「愛する子猫より」、チャーチルからクレメンティーンに送る時は「疾走するパグより」手紙には名門貴族や政治家から連想する堅苦しさは微塵もありません。
家庭を得て、ますます仕事に打ち込んだチャーチル。そのかいあって36歳の若さで海軍大臣に抜擢されました。
第1次世界大戦 チャーチルの大失敗
1914年、第一次世界大戦が勃発。チャーチルはドイツに大打撃を与えるべく「ガリポリ作戦」を立案。目標はイスタンブールの占領。黒海とエーゲ海を繋ぐ要所を抑えて、ドイツの補給路を断つ作戦でした。
ところが、ガリポリ半島に上陸を試みた英仏連合軍は6万もの犠牲者をだして敗退。この事態を受けて作戦の立案者であるチャーチルに非難が集中。チャーチルは戦争中にも関わらず海軍大臣を辞任しました。
黒い犬
この頃、チャーチルは妻への手紙に不可解な文章を書いています。
もし私の黒い犬が戻って来たら今のところはずいぶんと遠くに行っているようで、それにはほっとしている。
チャーチルは犬を飼っていませんでした。チャーチルは彼にしか見えない黒い犬に怯え、その後も落ち込むたびに悩まされました。
チャーチルは妻クレマンティーンの勧めもあり、田舎で静養することにしました。やがて、目に映る豊かな森や湖の風景を描き始めました。後にこの時の心境をこう言っています。
「絵の女神が私を救いに訪れた」
再び政治家の道へ
気力を取り戻しロンドンに戻ったチャーチル。この時40歳。大臣を辞任し、政治生命を絶たれたも同然でした。
チャーチルが選んだのは一兵士として戦場へ向かうことでした。大臣までつとめた人物が最前線に立つのは極めて異例でした。死と隣り合わせの塹壕の中で、チャーチルは不思議な高揚感に包まれていました。
防衛区域のただ中では土から死者の足やら服が飛び出していて、広範囲に墓が散らばっているようだし、どちらを見ても水や泥だらけだ。これに湿気、寒さ、あらゆるささいな不便が加わっているが、私はこの数か月感じたことのない幸せと充足を感じている。
(チャーチルから妻に送られた手紙より)
1918年11月、ドイツの降伏で戦争は終わりました。イギリスは勝利したものの90万もの戦死者を出し、膨れ上がった戦費が生活を圧迫しました。
4年後の選挙ではチャーチルの所属する自由党は大敗し、議席を失いました。それでもチャーチルは諦めませんでした。
1924年、恥も外聞もなくライバルの保守党に鞍替えして出馬。下院議員に当選。そして、父ランドルフと同じ財務大臣に就任したのです。49歳でした。
英国を救った決断
第一次世界大戦で敗れたドイツは壊滅的な打撃をうけ、国民の生活は困窮を極めました。そうした中、アドルフ・ヒトラー率いるナチ党が台頭。
1933年、ヒトラーはドイツの首相に就任。そして2年後、再軍備を宣言しました。この時、イギリスはいったんは抗議したもののドイツの再軍備を追認。ドイツを封じ込めるのではなく譲歩することでドイツを取り込もうという考えでした。
しかし、チャーチルは違いました。1932年にドイツを訪問し、ナチ党が独裁への道を着々と歩んでいるのを目の当たりにしていたからです。
私にはドイツ再軍備は冷酷で不気味さを帯びているように思われた。それはきらめき、そしてギラギラと光っていた。
(ウィンストン・チャーチル)
1939年9月、ナチスドイツがポーランドに侵攻。イギリス、フランスがドイツに宣戦布告し、チャーチルは海軍大臣として内閣に戻りました。
9か月後、ドイツ軍はオランダとベルギーに侵攻。チャーチルが指摘した脅威は現実のものになったのです。
1940年5月、ヒトラーの危険性をいち早くとなえたチャーチルが首相に任命されました。
ついに私は全局面にわたって指導していく権力を握ったのだ。私は運命とともに歩んでいるかのように感じた。そして過去の私の生涯はすべてただこの時この試練のための準備にすぎなかった。
(ウィンストン・チャーチル)
チャーチルは演説の準備を周到に行いました。まず、口述でタイピストに演説文章を打たせ、その文章を徹底的に推敲。次に、全てを完璧に覚えるまで練習。その場で思いついたかのような即興のセリフも全て原稿に書いてあったと言います。
1940年6月4日、チャーチルは与野党の議員を前に演説を始めました。
我々はいかなる犠牲を払っても英国を守り抜く。海岸で、上陸地点で戦い、野原や市街で丘で戦う。断じて降伏はしない。
(チャーチルの演説より)
議場は感動に包まれたと言います。チャーチルの就任後、それまでは入閣を拒否していた有能な議員たちが政権に参加しました。
一方、パリを占領したドイツはついにイギリス本土に本格的な攻撃を開始。爆撃機によるロンドンの無差別空襲により、多くの市民が犠牲になりました。
チャーチルはドイツ軍への具体的な対抗策を実行。最新鋭のレーダーを配備し、ドイツの爆撃機を迎え撃つ体制を作ったのです。1ヶ月以上続いた戦闘でイギリス軍は約1400機もの敵機を撃墜。ロンドンの空からドイツ軍を追い出すことに成功しました。
しかし、大陸ではナチスドイツが圧倒的な優勢を保っていました。そこでチャーチルは、アメリカのルーズベルト大統領と会談。アメリカの参戦を要請しました。
1941年12月、アメリカが参戦しドイツに宣戦布告。米英両国はノルマンディー上陸作戦を立案。そして1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦が決行されました。ドイツ軍との激しい戦闘の末、連合軍は上陸に成功。ここから反撃が始まりました。
1945年5月、バルリンが陥落しドイツは無条件降伏。チャーチルの戦争は終わりました。
大英帝国の幻
チャーチルはイギリスが勝利することで、戦争が始まる前の大英帝国が世界に君臨する時代に戻ることを期待していました。ところが、戦勝国の会議で主導権を握ったのはアメリカのルーズベルトとソ連のスターリンでした。
私の左側には手足を思い切り伸ばしたロシアの大熊、右側にはアメリカの大きな象がいた。2頭に挟まれ哀れな英国の小さなロバは、ただ1人正しい道を知っていた。
(ウィンストン・チャーチル)
イギリスの領土要求は不調に終わったばかりか、インドなどかつての大英帝国の植民地も独立の道を歩み始めました。チャーチルが目指した帝国の栄光は幻となってしまいました。
最後の挑戦
さらに、1945年7月の選挙でもチャーチルの保守党は大敗。首相の座を追われた時、70歳になっていました。引退を考えてもおかしくない年齢ですが、チャーチルはなお野党の党首として活動を続けました。
第二次世界大戦後の世界は、ソ連の社会主義陣営とアメリカ中心の資本主義陣営の対立構造でした。
チャーチルは東西の分断を「鉄のカーテン」と表現し、西側にいる我々は団結するべきだと呼びかけました。現在のEU構想をいち早く世界にとなえたと言われています。
活動を続けること6年、政権与党へ不満が爆発し、保守党が選挙で勝利。チャーチルは76歳で首相に返り咲きました。しかし、議会では「老害」「引退すべき」という声も少なくありませんでした。
新聞記者に「いつ引退するのか?」と聞かれたチャーチルはこう答えました。
私の健康が本当に衰えて、大英帝国が本当に元気を取り戻したらね。
(ウィンストン・チャーチル)
そんな中、ノーベル文学賞を受賞。自らの著書「第2次世界大戦」が戦争当事者の貴重な証言として高く評価されたのです。チャーチルは序文にこう書いています。
過去に深い考慮を払うことがきたるべき日の手引きとなり、未来の恐るべき光景を抑制できることを私は心から願っている。
ノーベル賞の受賞でまだまだ元気そうに見えたチャーチルも衰えは隠せませんでした。耳がすっかり遠くなり、閣議の答弁もしばしば失敗。1955年、80歳になったチャーチルは周りから引退をせまられ、ついに受け入れました。
首相官邸を去る前日、妻クレメンティーンと共にエリザベス女王から直々に労いを受けました。
それから10年が過ぎた1965年、チャーチルは90歳で激動の生涯にピリオドをうちました。くしくも父親が死んだ日と同じ日でした。
国葬にはチャーチルを慕う30万の国民が参列。チャーチルは人生を振り返ってこうつぶやいています。
「いい旅だった。旅に出た価値はあった。…1度だけなら。」
「ザ・プロファイラー 夢と野望の人生」
チャーチル 不屈の勝負師
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