シェイクスピア 天才劇作家の舞台裏|ザ・プロファイラー

シェイクスピアは生涯で40もの戯曲を書きました。しかし、直筆の原稿は全て消失しています。シェイクスピア自身が書いた文字は、署名をふくめ14語しか残っていません。プライベートの手紙もなく残された記録は、洗礼や婚姻届、土地の取引や遺言書など公的な書類だけです。実は、これシェイクスピア自身が意図したものかもしれないと考えられています。

 

普通、手紙は誰かに渡されるから誰かが保管していたら残る。それが残っていないってことは、そもそも手紙も書かないように気をつけていたんではないかと。できるだけ痕跡を消そうとしていた形跡がある。謎に包まれた人。

(東京大学大学院教授 河合祥一郎)

 

シェイクスピアが生まれたのは1564年。場所はストラットフォード=アポン・エイヴォン。緑豊かな地で幼少期を過ごしました。

 

父ジョンの仕事は皮手袋の製造。ジョンは不動産の売買や高利貸しも行って財をきずきました。シェイクスピアが4歳の時、ジョンが町長に就任。治安判事も兼任する父は町の名士でした。

 

7歳になると、ラテン語の学校に入学。当時、ラテン語は必須の教養とされ朝6時から夕方6時までみっちり教育を受けました。

 

シェイクスピア 少年が見た夢

11歳の時、近くの城を女王エリザベス1世が訪れ、盛大な歓迎の式典が催されました。父に連れられてきたシェイクスピアは、そこで初めて本格的な演劇を目にしたと言います。花火がうちあがり、神話の人物に扮した役者たちが演劇やダンスを披露。城の前の湖からは機械仕掛けのイルカが飛び出し、音楽家が背にまたがって女王に歌を歌いました。

 

この体験を色濃く反映している作品が「夏の夜の夢」です。そそっかしい妖精が間違った相手に惚れ薬を使ってしまい二組の恋人の関係がこじれてしまいます。そこにはこんなセリフが。

 

覚えているだろう。かつて俺が岬に腰をおろしてイルカにまたがる人魚がうっとりするような美しい声で歌うのを聞いていたのを。

 

少年シェイクスピアの脳に刻み付けられたのは、どんな世界も見せてくれる演劇の魔法でした。

 

厳しい家庭事情

しかし、夢のような時代は長く続きませんでした。2年後に父親が事業に失敗。かつての権力も失ってしまいました。シェイクスピア家の裕福な暮らしは一転、苦しい貧乏生活へと変わりました。父は妻の親戚から借金をし、一部の土地も手放しました。

 

シェイクスピアは「ハムレット」の中でこんなセリフを言わせています。

 

金の貸し借り不和の基と
貸せば金と友達を同時に失う
借りれば倹約がバカらしくなる

 

15歳でシェイクスピアはラテン語の学校を卒業。その後、家業を手伝っていたとも家庭教師などで家計を助けていたとも言われています。

 

ところが18歳の時、ろくな稼ぎもないまま結婚。相手は8歳年上のアン・ハサウェイ。すでに子を宿していました。今でいうで「きちゃった婚」です。

 

アン・ハサウェイは知り合いの農家の娘。この結婚をシェイクスピアはどう思っていたのでしょうか?

 

妻をめとれば口答えも一緒についてくる
若くして結婚 待っているのは悔恨

『お気に召すまま』より

 

アンは長女を出産し、その2年後に男女の双子を授かりました。3児の父となったシェイクスピア。さらに家には失業した父や幼い弟や妹たちが。20歳の若さで養わなければならない家族はあまりに多くいました。

 

ある日、シェイクスピアは故郷から忽然と姿を消しました。それから数年間、彼の消息は分かっていません。

 

なぜ気鋭の劇作家に?

次にシェイクスピアが記録にあらわれるのはロンドン。当時の女王エリザベス1世の芝居好きも追い風となりロンドンでは演劇人気が空前の高まりをみせていました。

 

シェイクスピアは役者として舞台に立っていたと言われています。

 

20代の後半からシェイクスピアは劇作家になりました。最初の作品は「ヘンリー六世」でした。王でありながら政治力のないヘンリー6世。王位継承をめぐり貴族たちの陰謀が渦巻く歴史劇です。この王位継承の争いは、シェイクスピアが最も得意としたテーマの一つで全作品の4分の1に出てくると言います。

 

当時、イギリスでは実際に30年以上君臨していたエリザベス1世の王位継承問題が人々の関心の的でした。政治情勢から王室のゴシップまでもが話題となる演劇は、いわば新しいメディアだったのです。

 

観客が大好きな最新のゴシップをうっとりするほど教養あふれる台詞で包み込んだシェイクスピアの劇は人気をはくしました。どうやって情報や知識を得ていたのでしょうか?

 

本は当時、貴重品なので現代で言えば車1台買えるくらいの値段。友達が地元からロンドンに出てきて本屋を開いていた。シェイクスピアはその店から本を借りたり、あるいは店で読ませてもらったりしたんではないかな。いろんな人たちからいろんな話を聞くことで情報を収集していたんではないかと思われていて、場所として想定できるのはパブ。パブ(酒場)こそがシェイクスピアにとっての学びの場、大学だったのではないか。

(東京大学大学院教授 河合祥一郎)

 

31歳の頃には不朽の名作「ロミオとジュリエット」を発表。中世のイタリアを舞台に互いに敵対するモンタギュー家の一人息子ロミオとキャピュレット家の一人娘ジュリエットを描いた切なくも美しい恋愛劇。しかし、これはシェイクスピアのオリジナルではありません

 

元になったのは30年程前に出版されていたアーサー・ブルック作の「ロミウスとジュリエットの悲劇の物語」です。著作権という考えがなかった当時、既存の作品をコピーすることはよく行われていました。シェイクスピアも度々、古典をもとにして戯曲を書いています。しかし、ただのコピーで終わらないのがシェイクスピアのすごさ。

 

元の作品では9か月に渡る物語を6日間に圧縮して緊迫感を出しています。ジュリエットの年齢は16歳から13歳に変更。さらに「年長者の意見に従わないと不幸を招く」という教訓的な内容だったのを、恋愛悲劇に書き換えました。若い二人の純粋さ大人たちの醜さを対称的に描いたのです。

 

「ロミオとジュリエット」は空前の大ヒット。その後もシェイクスピアは次々にヒット作を書きました。友人だった劇作家のベン・ジョンソンはシェイクスピアについてこんな風に描写しています。

 

すばらしい想像力と立派な考えをもちジェントルな表現があまりにもすらすらと流れるから、時には止めてやらねばならないほどだった。

 

ロンドンの演劇界に衝撃を与えたシェイクスピアは、30代で人気劇作家の仲間入りを果たしました。

 

シェイクスピアは売れても驕ることなく、故郷の家族に仕送りをするなど周りの評判も良かったと言います。

 

本当に正直な男で裏表のないざっくばらんな性格だった

(劇作家ベン・ジョンソン)

 

息子の死

しかし、32歳の時に故郷から思わぬ知らせが届きました。11歳になった息子が死んだというのです。

 

当時、イギリスではペストが何度も流行。10人に1人が亡くなるほど猛威をふるっていました。再会を心待ちにしていた息子の死。これを機にシェイクスピアの作風は変わっていきました。

 

死んだあの子がぽっかりあけた穴を悲しみが埋め
悲しみがあの子のベッドに寝て
私と歩きまわり
かわいい顔をして
あの子の言葉を繰り返すのです
あの子のかわいらしさを
あれこれ思い出させ
抜け殻となったあの子の服を着てみせるのです

『ジョン王』より

 

王家のゴシップや派手な恋愛物語より、人間の苦しみや悲しみをより深くみつめる作品が多くなりました。

 

翌年、シェイクスピアは故郷に果樹園と庭園つきの大きな屋敷を買い、家族を住まわせました。妻や娘たちの悲しみを癒そうとしたのかもしれません。

 

一方、本人の生活は質素でした。ロンドンで安い部屋を借り、家具もほとんど買いませんでした。ただし、お金を増やすことには積極的でした。投資用の不動産を買ったり、値上がりを期待して穀物を大量に仕入れたりしています。

 

穀物がうまくとれない時期がでてくるんですけど、そういう時に穀物を売ると儲かるわけですよ。せこいと言えるかもしれませんけれども、こまめで堅実とも言える。

(東京大学大学院教授 河合祥一郎)

 

実は、シェイクスピアが脚本で得る収入は微々たるものでした。当時、脚本は1本ごとの買取で著作権もなかったからです。主な収入は客の入りに応じて劇団員みんなに分配されるお金。興行成績に左右される不安定な生活でした。

 

劇団の危機

息子の死から2年後、今度は劇団に危機が訪れました。シェイクスピアが拠点とする「シアター座」のオーナーが亡くなったのです。これを機に地主に土地の使用料を1.7倍に値上げ。シアター座も明け渡せと言ってきました。

 

高い土地代を払って興行を続けるか、リスクをおって新天地を探すか。

 

ある夜、ひそかに劇団員たちが行ったのは劇場の解体。そして、解体した材木を運び別の場所に立て直したのです。「シェイクスピア劇の殿堂」と呼ばれ、後に数々の傑作がかけられる「グローブ座」の誕生でした。

 

これを機にシェイクスピアは「グローブ座」の共同経営者に就任。名実ともに自分の劇場を手に入れたのです。

 

創作の秘密

こけら落としは「ジュリアス・シーザー」でした。戦いに勝利し、市民に熱狂的にむかえられるローマの将軍シーザー。しかし、シーザーが皇帝になることを恐れた元老院の政治家たちは暗殺を企てました。シーザーの友人ブルータスも暗殺に加わるよう説得され、ブルータスは悩みます。

 

「ジュリアス・シーザー」はヒット作となりました。グローブ座での芝居興行は、それまで以上に観客の人気を集めていきました。安定した収入と念願の劇場を手に入れたシェイクスピアは、ますます創作に意欲を燃やしていきました。

 

「ハムレット」をはじめとする4大悲劇も、この頃生まれました。作品には自らの人生観をもうかがわせる台詞がちりばめられています。

 

二院減生まれたときに泣くのはな
この大いなる阿呆の舞台に
あがってしまったからなのだ

『リア王』より

 

雀一羽落ちるのにも神の摂理がある
無常の風はいずれ吹く
覚悟がすべてだ
なるようになればよい

『ハムレット』より

 

人生は歩く影法師
哀れな役者だ
出番のあいだは大見得切って騒ぎ立てるが
そのあとはぱったり沙汰止み音もない

『マクベス』より

 

時代の変化

1603年、エリザベス1世が死去。45年間の統治に終焉が訪れました。新たに国王となったジェームズ1世も大の演劇好きでした。

 

ジェームズ1世はシェイクスピアの劇団の後援者になりたいと言ってきました。劇団は国王一座という大変な名誉を授かったのです。

 

しかし、名誉とは裏腹に一座を取り巻く環境は厳しくなりました。イギリスの景気が悪化。さらに宗教対立がもとで新国王への反発が強まりました。

 

そんな時代を反映してか、シェイクスピアの作品にも微妙な変化があらわれました。以前は沢山書いていた喜劇を書かなくなり、重く暗い劇が多くなりました。

 

グローブ座が全焼

そんな中、49歳の時に決定的な事件が起こりました。グローブ座で火災が発生し全焼。生活の糧であり作品の発表の場でもあった劇場を失ってしまったのです。

 

晩年の作品「テンペスト」にはこんな台詞を書いています。

 

さてわが魔法は消えました
残ったのはこの身ばかりとなりました

『テンペスト』より

 

劇場を失ったシェイクスピアは筆を折り、故郷に帰りました。

 

引退後の私生活

シェイクスピアは大金を投じ、ストラットフォード・アポン・エイヴォンの「十分の一税徴収権」を購入しました。これは、特定地域における穀物や家畜の税金の10分の1がもらえるという権利です。老後の生活に安定した収入を求めたのです。以後、シェイクスピアは死ぬまで家族とともに過ごしました。

 

51歳の時に体を壊して療養。それを機に遺言書を書き始めました。不動産や宝石、家具など財産の大部分は娘夫婦に譲るとしました。さらに、妹やその息子へ残す財産も細かく記しました。

 

そして3カ月後、シェイクスピアは故郷でその生涯を閉じました。52歳でした。

 

亡骸はストラットフォード・アポン・エイヴォンの聖トリニティー教会に埋葬されました。生まれた時に洗礼を受け、故郷に帰ってからも通っていた教会でもありました。妻アンの隣でシェイクスピアは静かに眠っています。

 

「テンペスト」にはまるで自らの人生を振り返るようなこんな台詞があります。

 

余興はもうおしまいだ
この大地にあるものはすべて消え去るのだ
そして今の実体のない見世物が消えたように
あとには雲ひとつ残らない
私たちは夢を織りなす糸そのものだ
そのささやかな人生は
眠りによって締めくくられる

『テンペスト』より

 

「ザ・プロファイラー 夢と野望の人生」
シェイクスピア 天才劇作家の舞台裏



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