1929年、ジャクリーンはアメリカで生まれました。父のジョン・ブービエ3世は株式仲買人。プレイボーイとして有名でした。母のジャネットは堅実な資産家の娘でした。
特別な存在になれ。ユニークな人間になれ。おまえは女王になるんだ。
(ジョン・ブービエ3世)
しかし11歳の時、遊び人の父に母が愛想を尽かし離婚しました。その2年後の13歳の時、母は大富豪と再婚。待っていたのは豪華で夢のような暮らしでした。
高校に通う頃にはわがまま放題の生意気なお嬢様に育っていました。頭は良いものの先生には反抗的。制服が嫌いで学校でタバコも吸っていました。
一方、異性には興味がありませんでした。言い寄ってくる男は多かったものの相手にしなかったと言います。
男の子って不器用で退屈。私は一生恋もせず結婚しない気がするの。
高校の卒業アルバムにはこんなことを書いています。
Ambition:Not to be a house-wife
(将来の夢:主婦にならないこと)
パリで見た夢
ジャクリーンは20歳になると、フランスのソルボンヌ大学に留学。パリでフランス文学や美術を学び、ボードレールの詩を暗唱するほど熱心だったと言います。勉強の合間にはオペラやバレエを見に出かけました。美術館を巡りカフェで読書に没頭しました。
パリでの一年間は生涯で最も幸せな時期でした。
アメリカに戻ったジャクリーンは、キャリアウーマンとして活躍の道を探していました。そんな時、雑誌「VOGUE」が未来の編集者を発掘するコンテストを行いました。優勝者にはパリとニューヨークで半年間見習いとして働く特典が与えられました。
ジャクリーンの論文やエッセイは高く評価され、1280人の応募者の中から1位に選ばれました。
ところが、大富豪の義父と母に大反対され、ジャクリーンは雑誌社で働けませんでした。良家の子女は優秀な伴侶をアメリカで探すことが第一だったのです。
欲求不満の塊でした。将来は敷かれたレールを進むだけ。そして、有利な結婚をするだけですから。
(ジャクリーン)
運命の出会い
義父はジャクリーンを知り合いのコネを使って地方紙の記者に採用させました。受け入れ先の新聞社では誰もが「お嬢様が結婚までの腰掛け仕事に来た」と思っていました。しかし、ジャクリーンにはそんなつもりはありませんでした。初めは雑用係でしたが、街頭インタビューの仕事に志願したのです。
1951年、22歳のジャクリーンはジョン・F・ケネディと出会いました。
この人は自分の一生に深い影響を与え、心を悩ませる存在になる。
(ジャクリーン)
12歳年上のケネディは、大富豪ケネディ家の次男で青年政治家として将来を期待されていました。
ケネディに興味を抱いたジャクリーンは、手作りのランチを持って事務所を訪ねるようになりました。時にはケネディが議会で使うフランス語の資料を翻訳して手伝うなど、親密さを増していきました。
ケネディ家へ
知り合ってから1年後、ジャクリーンに惚れ込んだケネディは父ジョセフに紹介しました。
ジョセフ・P・ケネディは一大で莫大な財産を築いた大富豪です。手段を選ばず金と権力でのしあがったジョセフは、息子ジョンを大統領にする野望に燃えていました。
ジョセフはすぐにジャクリーンを気に入りました。聡明さ、美貌、学歴、家柄、彼女は大統領夫人の条件をすべて満たしていました。
1952年5月、ケネディはジャクリーンにプロポーズしました。
結婚の相手は君の他にいないことが分かった。結婚してほしい。
(ジョン・F・ケネディ)
ジャクリーンはこの申し出を受けました。
1953年9月、ジャクリーンはケネディと結婚。この時、24歳でした。
大統領への道
1958年、ジョン・F・ケネディは大統領選挙への出馬を表明。結婚して5年間、子育てを優先してきたジャクリーンでしたが、ケネディ家の家族会議で協力を求められ、こう答えました。
ジョンが大統領になるためなら何でもするわ。
(ジャクリーン・ケネディ)
父親のジョセフはこの選挙戦に莫大な資金を投じました。フランク・シナトラをはじめ、ハリウッドのスターたちがケネディを応援。空前絶後のキャンペーンでした。
ジャクリーンは夫の良き相談相手でした。服装、演説の原稿、身振り手振りにもアドバイスを与えました。すると、それまでイマイチと評判だったケネディの演説は大きくイメージアップしました。
さらに、ジャクリーン自らも演壇に立ち、他の候補者には絶対に真似できない演説をやってみせました。フランス語、スペイン語、イタリア語などアメリカに暮らす移民たちの言葉で語りかけたのです。
このスピーチは英語を話せず多くが貧しい暮らしをしていたマイノリティの人々の心を掴みました。
ジャクリーンの人気は沸騰。ジャクリーンが来ると知らされると演説会場の聴衆は倍に膨れ上がったほどでした。
そして、ケネディは大統領に就任。ジャクリーンは31歳の若さでファーストレディとなりました。
華麗なファッション
ジャクリーンの華やかな衣装は、それまでの大統領夫人が着ていたものとは全く違いました。そのため「ジャクリーン・ルック」と呼ばれ一世を風靡。自分専属のデザイナーをおきました。
私が着るものは常にオリジナルで他の人が同じものを絶対に着ないように配慮してください。太った背の低いご婦人に同じドレスで歩き回られるのは嫌なのです。
しかし、人々はジャクリーンのファッションに夢中になりました。特に帽子はへこんだままかぶったことが話題になり、へこみがついた帽子が売られるほどでした。
ホワイトハウス改革
ジャクリーンは初めてホワイトハウスに入った時に叫びました。
こんなところには住めない!
(ジャクリーン・ケネディ)
当時、ホワイトハウスは大統領の住まいとは思えないほどひどい状態でした。歴代の大統領がそれぞれ勝手に改築を重ねた結果、水の流れないトイレや壊れたシャワーが放置されていました。
ジャクリーンはホワイトハウスの大改修工事に着手。まず、修復の会議を作りメンバーには全米有数の富豪たちを入れました。莫大な予算を税金でまかなえば非難を浴びます。そのため、金持ちから寄付金や調度品をもらって節約しようと考えたのです。
さらに、ホワイトハウスのガイドブックを制作。見学に訪れた人に売ろうと考えました。このガイドブックは発売から10か月で50万部を売り上げる大ヒットを記録。改修費用を大いに助けました。
さらに、生まれ変わったホワイトハウスを紹介するテレビ番組に自ら出演。自慢の語学力でスペイン語版とイタリア語版も制作し、世界160カ国に配信しました。
外交の切り札
ジャクリーンは、大統領夫人として政治的にも大きな力を発揮しました。
フランスでシャルル・ゴール大統領と会談した時、フランスに到着するとケネディはこんなジョークを言いました。
私はジャクリーン・ケネディをパリまでエスコートしてきた男です。
(ジョン・F・ケネディ)
夫の通訳をつとめたジャクリーンは、フランス語を自在に操り、文学や美術の話にも華を咲かせ、ゴール大統領の心をつかんでしまいました。
冷戦で緊張関係が続いていたソ連との会談にも同行。ジャクリーンはニキータ・フルシチョフ書記長をたちまち魅了しました。
ジャクリーンを待ち受ける各国のマスコミは過熱し、まるで王族のような扱いでした。
ダラスへ
1963年、大統領再選を目指すケネディはテキサス州で遊説することにしました。11月22日、ダラスの空港に到着したケネディ夫妻。
ケネディはオープンカーのパレードを計画していました。前回の選挙ではこの地域で票がとれなかったため、今回はジャクリーンと共にしっかり姿を見せようとしたのです。さらに、観衆が見やすいよう事前にパレードのルートも発表しました。
12時55分、パレード開始。ジャクリーンは夫の隣に座りました。13時30分、車がテキサス教科書ビルの前にさしかかった時、ケネディは銃弾を頭に受けました。ジャクリーンは座席を這い上ってトランクにのろうとしました。
私は彼の頭を抱えてこれ以上脳がこぼれ出ないようにしたの。
(ジャクリーン・ケネディ)
ジャクリーンは夫に付き添って病院へ。しかし、すぐにケネディの死亡が告げられました。
アメリカが憎い
ショックと悲しみに包まれましたが、大統領の不在は許されません。すぐに大統領専用機の中で副大統領のリンドン・ジョンソンが宣誓式を行い、ジャクリーンも立ち合いました。
この日、ジャクリーンはケネディの血を浴びたスーツを着たままでした。着替えるようにすすめられましたが…
犯人に自分がしたことを見せるの。世界中の人たちに見せるの。
(ジャクリーン・ケネディ)
夫の死を人々の記憶に深く刻みつけたい。ジャクリーンは葬儀の全てを自ら取りしきることにしました。
1963年11月25日、ジョン・F・ケネディの国葬が行われました。
私の人生は終わったと思っています。
(親しい友人への手紙より)
しかし、失意のジャクリーンを世間は放っておいてはくれませんでした。ワシントンの新居の前には常に報道陣が待ちかまえ、観光バスも停まりました。
夫の死から5年、ケネディ家の悲劇は続きました。1968年、ケネディの弟ロバートが大統領に立候補。しかし、選挙運動中に暗殺されてしまいました。
ジャクリーンは子供たちにも身の危険が迫っていると肌で感じていました。しかし、ケネディ家はロバートの選挙に財産の大半をつぎ込んでしまっていました。ジャクリーンが警備のために使える資金はほとんどありませんでした。
アメリカという国が憎い。アメリカという国を軽蔑するわ。ケネディだから殺されるなら子供たちは一番の標的じゃない。こんな国、私出て行く。
(ジャクリーン・ケネディ)
嵐の中の再婚
ジャクリーンが逃避先に選んだのは、ギリシャの大富豪アリストテレス・オナシス。
とんでもない悪党だけど、同時にとても理解があるの。
(ジャクリーン)
オナシスとは5年前、ケネディの存命中に一度会っていました。この頃、ジャクリーンは3人目の子供を身ごもりましたが生後3日で死亡。その傷を癒すために妹の知り合いだったオナシスと共に船旅を共にしたことがあったのです。
23歳年上のオナシスはプレイボーイではありましたが、女性を惹きつける気遣いに溢れていました。莫大な財力を使って船や飛行機もジャクリーンにプレゼントしました。何より魅力的だったのは地中海に島を持っていたこと。ジャクリーンのため、島に万全のセキュリティシステムを整備してくれたのです。
1968年10月、ジャクリーンはオナシスが所有する島の教会で結婚式を挙げました。この結婚はアメリカをはじめ世界中のメディアから「裏切り行為」と激しく叩かれました。
再婚相手と不仲に
しかし、浮気者のオナシスとは喧嘩が絶えませんでした。ジャクリーンは寂しさをまぎらわせようとショッピングにのめり込みました。気に入った靴はダース単位で購入。同じデザインのブラウスは全色そろえました。さらに、数々の有名ファッションショーの常連でコレクションを丸ごと買い上げるのが好きでした。
さすがの大富豪オナシスも制限をもうけたほどジャクリーンのショッピングにかける金額は凄まじいものだったと言います。
1975年、オナシスは病死。晩年、ジャクリーンに愛想を尽かしていたオナシスは遺言で財産のほとんどを娘クリスティナに譲るとしていました。
ところが、ジャクリーンはクリスティナを相手どり遺産相続の訴訟を起こしました。結果、2600万ドル(当時の約79億円)という莫大な遺産を手にすることになりました。
再びニューヨークへ
ジャクリーンはアメリカに戻り、子供たちとニューヨークで生活し始めました。莫大な遺産のおかげで子供の頃に味わった豪華で夢のようなニューヨーク暮らしを再び手に入れました。ところが…
今の生活は退屈でしかたがないの。(ジャクリーン)
1975年、46歳でジャクリーンは出版社に就職。学生時代から好きだった美術や文学の本を作り始めました。
もう自分のために生きる時がきたの。(ジャクリーン)
最後の恋人
50歳になったジャクリーンの相手は同い年のベルギー人モーリス・テンペルズマン。文学を愛し、時にはフランス語で話したり、二人そろってオペラを見たり、美術品を買ったりしました。
二人は一緒に暮らすようになりましたが、結婚することはありませんでした。モーリスの妻が離婚に応じなかったからです。それでもジャクリーンは満足でした。
私が有名であることで、私の人生から彼が遠ざかることがないよう心から願っているわ。
(ジャクリーン)
1994年5月19日、ジャクリーンはリンパ腺がんにより死去。子供たちとモーリスに看取られての最期でした。墓は本人の希望でアーリントン国立墓地のジョン・F・ケネディの隣に作られました。
人生にあまり多くを期待してはいけない。普遍的なものは何もない。だから、誰も頼ることはできない。頼れるのは自分だけ。これが、つらい思いをして私が学んだことです。
(ジャクリーン)
「ザ・プロファイラー 夢と野望の人生」
ジャクリーン・ケネディ
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