マリア・テレジア 愛と戦いに生きた女帝|ザ・プロファイラー

NHK総合テレビの「ザ・プロファイラー」で愛と戦いに生きた女帝マリア・テレジアについて放送されました。

 

ハプスブルク家の美しき女帝

中世の13世紀から20世紀初頭に至るまでヨーロッパで権勢を誇った名門がハプスブルク家は、双頭の鷲の紋章で知られています。マリア・テレジアが生まれた頃にはオーストリアやハンガリーなど中央ヨーロッパを支配するハプスブルク帝国を築いていました。その帝国を引き継いだ時、マリア・テレジアはただ美しく淑やかというだけの女性にすぎませんでした。

 

美しい王女が戦う君主に

1717年、マリア・テレジアはハプスブルク家の長女として生まれました。王女としての教養を身に着けるため、幼い頃からピアノやダンスをたしなみ外国語や宗教などを学びました。6歳の時、小国ロートリンゲンの王子フランツ・シュテファンと出会いました。9歳年上のこの少年にマリア・テレジアは恋心を抱きました。そして19歳の時に二人は結婚しました。この結婚に大きな期待を寄せたのが父親のカール6世でした。早く跡継ぎとなる男の子が欲しかったのです。

ハプスブルク帝国の君主は代々男性でしたが、カール6世には息子がいませんでした。そこで、マリア・テレジアの子に期待したのです。すぐに2人の間に子供ができましたが、生まれてきたのは娘でした。そして2人目も3人目も娘でした。カール6世は失望し、ゆりかごを覗き込むことさえしなかったと言います。そしてマリア・テレジアが4人目を身ごもっていた時にカール6世は死去しました。

突然の父の死により長女だったマリア・テレジアはハプスブルク帝国の君主になりました。23歳の時でした。しかし、周辺諸国は女性の君主を認めようとしませんでした。新聞の風刺画にはマリア・テレジアを隅に追いやり、ハプスブルク帝国の領土を奪おうとする諸国の君主の姿が描かれました。

「鷲が死んだので羽をいただこう」

マリア・テレジアは王女としての教養しか学んでいませんでした。そしてプロイセンがハプスブルク帝国北部のシュレージェン地方に侵攻してきました。シュレージェンは帝国内で最も資源の豊かな工業地帯です。プロイセン軍を率いていたのは国王フリードリヒ2世。強大な軍事力を背景にあっと言う間にシュレージェン地方を占領してしまいました。マリア・テレジアは父の時代からの側近たちを集め会議を開きました。しかし、誰も口を開こうとしませんでした。

「どうしてそのような顔をしているのです。今は語らなくてはいけない時なのに。哀れな女王を失望させないでください。私に助言して下さい」(マリア・テレジア)

それでも、沈黙が続きました。みな戦争をしても勝ち目がないと考えていたのです。

「父から譲り受けた領地を割譲することはなりません。シュレージェンを失うくらいならペチコートを脱いだほうがましだわ」(マリア・テレジア)

さらにプロイセンだけでなく周辺諸国が次々と攻め寄せてきました。そんな中、マリア・テレジアは乗馬の練習を始めました。そして彼女は馬に跨り領内のハンガリーへ。長年の対立の末に支配下に置かれていたハンガリーでは未だにハプスブルク家への反発が強いものでした。それでも事態を切り抜けるにはハンガリーの軍事力に頼るしかないとマリア・テレジアは考えたのです。ハンガリーには「国王の騎行」という騎馬民族国家ならではの儀式があります。ハンガリー各地から持ち寄った土で作った丘を国王が剣を持って駆け上がり「どこから敵が来ようとも国を守る」と宣誓するのです。この儀式に臨むためマリア・テレジアは必死に乗馬の訓練をしました。そして盛大な喝采を得たのです。ハンガリーを味方につけたマリア・テレジアは攻め寄せる周辺諸国に立ち向かいました。このオーストリア継承戦争は8年に渡って続きました。結局、プロイセンに奪われたシュレージェンを取り返すまでにはいたらなかったものの、マリア・テレジアはハプスブルク帝国の後継者として周辺国からも認められました。

 

国の近代化への挑戦

マリア・テレジアは8年に渡る戦争の経験をふまえ、ハプスブルク帝国がいかに時代に遅れているか痛感しました。そして徹底した近代化へのりだしました。最初に手をつけたのが人材の登用です。従来のように身分を気にすることなく自ら優秀な人材を探し出し抜擢していきました。こうして抜擢した人材と共にマリア・テレジアはあらゆる分野の改革を進めていきました。

軍隊はそれまで戦いがある時には各地から傭兵や農民をかりだした寄せ集めの集団で戦にのぞんでいました。マリア・テレジアは正式な軍を作ることにし、養成機関となる士官学校を設立。そして貴族も農民も平等に扱いました。その結果、農民出身の兵たちがやる気を出し焦った貴族も必死になるという好循環が生まれました。また、兵たちの食堂をもうけ栄養価の高い食事を提供したり、傷病兵たちの病院を作ったりしました。しかし、軍を維持していくには多額の費用が必要となります。そこでマリア・テレジアは税制改革にも着手しました。

他民族国家であるハプスブルク帝国では、各地域が勝手に税率を決め宮廷に納める額も自分たちで決めていました。そのため、国の財政は不安定でした。そこで、税率を一本化した上、中央から役人を派遣し税の徴収にあたらせました。これにより、国の財政が安定すると共に地域ごとの不公平感もなくなりました。

さらにマリア・テレジアは生産性の向上にも取り組みました。当時、労働者は「寝ているとき以外働いている」と言われるほど長時間仕事場にいました。しかし、実態はしょっちゅう仕事を中断し遊びに興じたり酒を飲んだりしていました。そこでマリア・テレジアは休憩時間をもうけることにしました。労働時間と休憩時間が明確になったことで人々の集中力が高まり生産性の向上につながったのです。

一方で、マリア・テレジアは家族との時間も大切にしていました。子供は息子5人、娘11人の合わせて16人。宮殿の一室「磁器の間」には子供たちの描いた絵が壁一面に飾られています。さらに、宮殿内に劇場ももうけました。ここで、子供たちが披露する声楽やバレエを見るのがマリア・テレジアにとって一番の楽しみだったと言います。マリア・テレジアは子供たちの家庭教師も自ら選びました。息子には帝王学を、娘には様々な教養を身につけさせました。しかし、結婚に関しては自分のような恋愛結婚は認めませんでした。政略結婚によって周辺国の関係を強化する必要があると考えたからです。

 

宿敵を追い詰めた秘策

マリア・テレジアはシュレージェン奪還を目指しフリードリヒ2世を取り囲む包囲網を形成することを考えました。ロシアの女帝エリザベータとフランス国王ルイ15世の公妾ポンパドゥール夫人を味方につけることに成功。世に言う「ペチコート同盟」を成立させたのです。しかし、この同盟を成立させるのは容易ではありませんでした。

ハプスブルク帝国とフランスは300年以上にわたって敵対してきました。しかも、フランスはプロイセンと協調関係にありました。フランス国王ルイ15世がやすやすと同盟の申し出に応じるはずはありませんでした。この困難な交渉を実現させるためフランスにスパイとして送り込んだのが側近のカウニッツ伯爵でした。マリア・テレジアは他の人間には一切情報を漏らさずカウニッツと2人で秘密裏に動き始めました。

フランスのヴェルサイユに赴いたカウニッツは頻繁に舞踏会を催し、諜報活動に励みました。そして6年後、ルイ15世の公妾で国政をとりしきっていたポンパドゥール夫人を味方につけることに成功しました。彼女は女性を蔑視するフリードリヒ2世に反感を抱いていたのです。ポンパドゥール夫人はルイ15世を説得。ついにハプスブルク帝国とフランスの同盟が成立したのです。この大転換は歴史上「外交革命」と呼ばれています。

その一方で、マリア・テレジアはロシアの女帝エリザベータに同盟を呼びかける手紙を送りました。エリザベータは快諾してくれました。彼女も女性を蔑むフリードリヒ2世を苦々しく思っていたからです。こうして3人の女性によるペチコート同盟が成立。マリア・テレジアの思惑通りプロイセン包囲網が完成したのです。

そして1756年、七年戦争が始まりました。ハプスブルク帝国の軍を率いたのはダウン将軍。マリア・テレジアが抜擢した人材の一人でした。ダウン将軍はプロイセン軍を次々に撃破しました。そしてハプスブルク帝国とロシア軍を前にフリードリヒ2世は惨敗。彼自身、胸部に弾丸を受け、タバコ缶のおかげで九死に一生をえたほどでした。祖国の大臣には「もうこれで永遠におさらばだ。この手紙を受け取る頃には私はもはや生きてはいないだろう」と書き送りました。マリア・テレジアは勝利を確信しました。

 

まさかの同盟崩壊

ところが、ロシアの女帝エリザベータが死去。かわって即位したピョートル3世はフリードリヒ2世の崇拝者で、マリア・テレジアとの同盟を破棄しプロイセン側についたのです。これによりプロイセンは崩壊寸前で踏みとどまりました。一方、ハプスブルク帝国も戦争を継続する余力は残っていませんでした。長引く戦争で国力は衰退。国民の暮らしは逼迫し、食糧不足が深刻化していたのです。マリア・テレジアはシュレージェン奪還を断念しました。多くの人が犠牲となった七年戦争は双方に何ももたらさぬまま終結しました。戦後、マリア・テレジアは「私は戦争の打撃をいやというほど体験しましたから、もう戦争などしたくはありません」と語りました。

 

母親としての葛藤

七年戦争終結から2年、夫フランツが死去しました。

「私の幸せな結婚生活は29年6ヶ月6日、335か月1540週。突然彼は私の手から奪い取られてしまった」(マリア・テレジア)

マリア・テレジアはその後死ぬまで喪服を脱ぐことはありませんでした。伴侶を失ったマリア・テレジアは一人で子供たちと向き合うことになりました。

24歳になった長男ヨーゼフ2世に、将来をみすえある程度国政を任せることにしました。幼い頃から帝王学を学んできたヨーゼフ2世は、戦争で悪化した国家財政を立て直そうと徹底した歳出削減に取り組みました。その一環として宮廷で飼っていた馬を1200頭から400頭に減らしました。この時、マリア・テレジアは「馬の世話をしていた飼育係たちはどうなったの?まさか彼らを路頭に迷わせるつもりではないでしょうね」と問いかけました。しかし、ヨーゼフ2世は聞く耳を持ちませんでした。それどころか儀式や祝祭など、自分が不要と思ったものは次々と廃止。歳出削減をおしすすめていきました。

マリア・テレジアとヨーゼフ2世の対立を決定的にしたのがポーランド分割でした。実はヨーゼフ2世はフリードリヒ2世を崇拝していました。そのフリードリヒ2世の呼びかけに応じ、プロイセン・ロシアと共にポーランドの領土を略奪したのです。そこには国力を回復するには新たな領土が必要というヨーゼフ2世の考えがありました。勢いにのったヨーゼフ2世はバイエルンの国王が死去したのに乗じ侵攻を開始。マリア・テレジアは必死に息子を諭しました。

しかし、ヨーロッパに再び戦火が。フリードリヒ2世がハプスブルク帝国を攻撃してきたのです。フリードリヒ2世は好戦的なヨーゼフ2世の行動はいずれプロイセンにも悪影響を及ぼすと見ていました。戦いは双方に決め手がなく膠着状態が続きました。兵士たちは疲弊するばかりでした。そんな中、マリア・テレジアはフリードリヒ2世に手紙を書きました。

「自分の子供を無理やり戦場に連れていかれた女性たちのことを私はいつも考えてきました。戦争とはなんと醜い営みなのでしょう。人間性に対しても幸せに対しても」

宿敵に対し和平を申し出たのです。フリードリヒ2世はこれを受け入れました。

テレジアを悩ませたのはヨーゼフ2世だけではありませんでした。中でもとりわけ手を焼いたのがフランス国王ルイ16世の妃となった末娘マリー・アントワネット。マリア・テレジアは浪費を重ねる噂しか聞こえてこない娘に苦言を呈していました。

「私は多くの新聞が何度も書き立てていることについて言わざるをえません。それはあなたの華美な祖装飾品についてです。髪が90cmもあり羽根やリボンで飾り立てているそうではないですか。もしあなたが改めなければ待っているのはただならぬ不幸だけ」(マリー・アントワネットへの手紙)

一人の母親としてはジレンマを抱え続けたマリア・テレジアでしたが、国の母として様々な改革を成し遂げました。

 

国母としての革新

当時、天然痘が流行していました。そこでマリア・テレジアは予防接種を広めようと自ら現場に足を運び、必要性を訴えました。また、他国に先駆け義務教育を導入。帝国の全域に小学校を設立しました。教育水準を高めることが国民生活の改善につながり、それが国力の増強に役立つという当時としては革新的な考えを持っていたのです。

 

母であり君主であり続けたマリア・テレジアは、夫の肖像画を見ながら人生をこう振り返りました。

「過ぎ去った幸せを思い浮かべているの。その幸せをあまりにも大切にしなかったと今さらながら後悔したりもしているけれど。今私が早く来ないかと待ち望んでいるのは棺と死に装束だけ」

ハプスブルク帝国の君主となって40年、1780年11月29日、マリア・テレジアは63歳で亡くなりました。




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