「ピーターラビット」の作者ビアトリクス・ポター|ザ・プロファイラー

うさぎのピーターラビットを生み出したビアトリクス・ポター。実はポターは絵本のイメージとは裏腹にかなり変わった女性でした。子供の頃はうさぎにヘビやとかげまで部屋で飼い、死んだペットは大鍋で煮て骨格標本に。大人になるとキノコの研究と精密なスケッチに明け暮れました。

そして、ピーターラビットをよく読むと…

マグレガーさんとこのはたけにだけはいっちゃいけませんよ。おまえたちのおとうさんは、あそこでじこにあって、マグレガーさんのおくさんににくのパイにされてしまったんです。

「ピーターラビットのおはなし」

お父さんは人間に食べられていました。可愛いだけでない本当は少し怖いお話です。

今や世界中で愛読されている「ピーターラビット」の絵本。この本が世界で初めて翻訳されたのが日本です。イギリスで初版が出てから4年後、「悪戯な子兎」という名で日本農業雑誌に載りました。

ピーターはペター、マグレガーさんは杢平爺と訳され、経緯は不明ですがピーターは昔から日本人の心をとらえていたようです。

上昇志向の家庭

ビアトリクス・ポターは1866年にロンドンで生まれました。当時のイギリスは世界中に植民地を持つ大帝国。富も文化も絶頂期をむかえていました。父ルパートは弁護士で巨万の富を築いた商人の家に生まれました。

新興の富裕層であるポター家は、貴族や名家の仲間入りをしようと人脈作りに忙しくしていました。特に母親のヘレンは上昇志向が強く、ポター家のルーツである商人さえ見下したと言います。

当時の金持ちの常として娘ベアトリクスの世話は乳母任せ。学校には通わせず家庭教師をつけて勉強させました。母は娘を上流階級の一員にしようと徹底的にしつけました。

ベアトリクスと母ヘレン

ポターの母の写真を見ると決して笑うことがなく、常に不機嫌で険しい表情をしていました。母親はポターに常に付き添いをつけ、何かしたい場合事前に言わなくてはなりませんでした。日記や手紙から母親とポターがうまくいっていなかったことは明らかです。

(ポターの研究者リビー・ジョイ)

動物が友達

そんなポターの楽しみは夏のバカンスでした。ロンドンを離れポター家の故郷スコットランドの田舎で3か月を過ごしました。

スコットランドには古くから妖精伝説があり、ポターは乳母から神秘的な話を聞いて育ちました。周りの森や草原に妖精を探しに行ったと言います。

ポターが書いた日記は、誰にも読まれないように自分だけの暗号でつづられています。

森には妖精たちが住んでいた。丘の向こうから大きな月が昇ってくる。すると、妖精たちが現れてなめらかな芝草の上で踊り始める。

(ビアトリクス・ポターの日記)

ポターはいつしか絵筆をとり、虫や野の花を描くようになりました。

さらに、田舎で捕まえたネズミやトカゲをロンドンに連れ帰り、ロンドンで飼うようになりました。それはいわば自分だけの動物園。愛し方も一風変わっていました。飼っていた動物が死ぬと大鍋で煮て骨格を取り出してスケッチ。それぞれの骨に番号をつけて保管しました。

そんなポターにとって親の期待は苦痛以外の何ものでもありませんでした。上流階級の男性と結婚してポター家の地位が上がることを夢見ていた両親。年頃になると父親は社交界のパーティーにポターを連れていきました。

ハイヒールを履いてレストランで食事をし、不自然なぐらいウエストを絞っている女の人たちはなぜずっと大騒ぎしていられるのだろう?お茶会も晩餐会も嫌い。この先もずっとこうなのかしら。

しかし19歳の時、ポターの運命は大きく変わることになりました。現在ではリウマチ熱と推定されている重い病にかかり、自慢だった髪の毛が抜けてしまったのです。髪の毛を失ったショックは大きいものでした。

私は赤い鼻と短く刈った頭で満足すべきなのだ。孤独かもしれないが不幸な結婚よりはまし。

病気のため結婚には不向きとされたポター。成長した彼女が情熱を注いだ相手はキノコでした。

キノコ学者への道

16歳の頃からバカンスで訪れていた湖水地方で、キノコのスケッチをするようになったのです。イギリス北西部に広がる湖水地方ではローマ時代から羊の牧畜が行われてきました。人と自然が理想的な形で共存する湖水地方はロンドンの富裕層に人気の保養地でした。

ポターは野山でキノコを採り、細かいヒダの一つ一つを正確にスケッチ。キノコの不思議な形や生態を観察しました。

そして、素人ながら栽培の難しい胞子を育てることに成功。誰もなしえなかったこの研究を発表したいと、キュー王立植物園を訪ねました。ところが、見知らぬ素人の女性の研究などまともに話も聞いてくれませんでした。

それならばと、ポターは研究を論文にして、博物学の権威リンネ協会が発表したいと願い出ました。ところが当時、女性は学会の出席すら許されていませんでした。そればかりか、ポターの論文は研究に全く関わらなかった男性から発表され、学者への夢を絶たれてしまいました。

なぜピーターラビットを描いた?

そんな時、子どもの頃に勉強を教えてくれた元家庭教師のアニー・ムーアがアドバイスをしました。

私の子どもたちに書いた絵手紙を元に本を作ったらどう?

ポターは親しいアニーの子どもたちに多くの絵手紙を書いていました。中でも息子のノエルが病気で長く臥せっていた時に送った物語の手紙を思い出しました。

主人公はポターが実際に飼っていたうさぎピーター・パイパーです。

親愛なるノエル君へ
あなたにどんな手紙を書いてよいのかわからないので4匹の小ウサギのお話をしましょう。名前はフロピシーとモプシーとカトンテールと、それからピーターです。

ピーターラビットは3匹の妹のお兄ちゃん。お母さんにとめられていたにも関わらず悪戯っ子のピーターはお父さんが肉のパイにされてしまったマグレガーさんの畑へ出かけました。野菜を食べていると案の定アグレガーさんに見つかってしまいます。必死に逃げるピーター。走る途中で靴は脱げ、ジャケットも網に引っかかり脱げてしまいました。何とか逃げ帰ったピーター。畑に置き去りにした靴とジャケットはマグレガーさんの畑のかかしとして吊るされることになりました。

自分を食べる人間から必死に逃げる怖いお話です。

大ヒットの秘密

絵本作家の夢を追い始めたポターにとって、最大の障害は母ヘレンでした。上流階級らしいふるまいを求める母は、どこに行くにも使用人を同行させ、ポターの生活を厳しく監視しました。

この頃のイギリスでは、絵本も富の象徴といわんばかりに大型で豪華な高い絵本が流行していました。ところが、ポターが出版社に持ち込んだ見本は子供が自分で読むための手のひらサイズ。「こんな本は売れない」と取り合ってくれませんでした。

本の挿絵やクリスマスカードの絵などの仕事でつくった貯金をはたき、250部を自費出版。予算がないので、絵本は白黒でした。

「ピーターラビットのおはなし」

すると、これが目の肥えた文化人にうけたのです。絵本を買った一人にはコナン・ドイルもいたと言います。その人気に目をつけたフレデリック・ウォーン社がポターの絵本を出したいと申し出ました。担当の編集者はノーマン・ウォーンでした。

ところが、出版に関しては意見が対立。ノーマンは白黒の絵本は地味で売れない、全ての絵をカラーにしようと主張。しかし、ポターは…

良質のカラー印刷にはお金がかかります。それに絵の大部分はウサギの茶色と緑色です。だからカラーにしても面白みはありません。

しかし、ノーマンは引き下がりませんでした。「ベストセラーにするにはカラーでなければなりません。挿絵を減らせばコストは下げられます。」

結局、ポターは3つの条件と引き換えにノーマンの意見に従うことにしました。

  • 子どもが読みやすいように本は手のひらサイズ
  • 子どもの小遣いで買える値段
  • 挿絵の色彩には妥協しない

ノーマンはポターの条件を忠実に守りました。挿絵の色を細かく指定しても、一つ一つ誠実に対応しました。ポターは自分の意見を尊重してくれる男性に初めて出会いました。

絵本が完成に近づくにつれて、ポターとノーマンの間にも信頼の絆が結ばれるようになりました。ポターは使用人の同行つきではありましたが、ノーマンの家を度々訪れています。

ポターは色々な機会にノーマンの家に招かれていました。ノーマンの家族はポターの家族と違い、兄弟も甥や姪も沢山いました。沢山の人がいて賑やかでパーティーがあって、ノーマンは甥や姪たちから好かれていました。二人がしばしばそうした家族の輪の中にいたことは確かだと思います。

(ポターの研究者リビー・ジョイ)

自分の家庭とは違うあたたかな家庭。ポターはノーマンにますます惹かれていきました。

こうして世に出た「ピーターラビットのおはなし」はたちまち大人気を博しました。初版の8000部は予約で完売。1年後には5万部を突破しました。

当時の絵本はデフォルメして擬人化して描きました。ベアトリクスは、骨格などを意識して、この動物はこういう動きしかしないという描き方。表情などもデフォルメせず、仕草で悲しい、嬉しいなどを描きました。動物のリアリティがベアトリクスの描いた挿絵が子供たちに受けた原因だと思います。

(大東文化大学教授 河野芳英さん)

「ピーターラビットのおはなし」の大成功をうけてポターは次々と絵本を出しました。「りすのナトキンのおはなし」や「グロースターの仕たて屋」「ベンジャミンバニーのおはなし」どの本も大人気でした。

初めてのロマンス

世間知らずのポターをノーマンは公私にわたり支えました。ネズミが主人公の「2ひきのわるいねずみのおはなし」を描いている時のこと。ポターは自分の絵の参考にしようと、ノーマンが姪っ子のために作ったドールハウスを見に行こうとしました。

ところが、二人の関係を快く思わない母ヘレンはポターの外出を禁止。そこでノーマンはドールハウスの写真を撮ってポターに送り、絵本の完成を助けました。

ポターは意外にも商売のセンスも発揮しました。絵本に出てくる動物のぬいぐるみを自ら作り、特許を取っています。そこでもノーマンが力を尽くしたと言います。

さらに、ピーターラビットのボードゲームティーセットも販売。今でいうキャラクタービジネスです。

二人は毎日のように手紙のやり取りを続けました。初めはマダム、サーと書いていましたが、やがてミスポター、ミスターウォーンと親しみを込めた呼び名に変わっています。いつしかポターはノーマンと恋に落ちていました。

突然の結末

「ピーターラビット」の初出版から3年後の1905年、38歳のポターはついにノーマンから手紙で結婚を申し込まれました。ところが、両親はこの結婚に猛反対。上流階級の男性と結婚させたい二人にとって一介の編集者との結婚など許せるものではなかったのです。

それまで反発はしてもしぶしぶ親の言う事をきいていたポター。しかし、この時ばかりは断固結婚すると宣言しました。激しく抵抗する娘を見て、両親は一計を案じました。「婚約はお互いの家族だけの秘密」という条件で、二人の婚約を認めました。その上でポターをバカンスに連れ出し、ノーマンから引き離して頭を冷やさせようと考えたのです。

少し急ぎすぎたのかもしれません。でも、最後にはうまくいくと信じています。

ところが、婚約から1カ月後、ノーマンが急性白血病に。ポターが見舞いに訪れる間もなく突然この世を去ったのです。

ノーマンは亡くなりました。私は間に合いませんでした。でも、それでよかったのです。私はただ泣くばかりで、彼の心をかき乱すだけだったに違いないから。

ノーマンの形見となった婚約指輪をポターはずっと身に着けていました。

両親がノーマンとの婚約を公にすることを認めなかったのでポターには自分の不幸な状況を語れる相手がほとんどいませんでした。愛する人と結婚するという未来がなくなり、これからの人生がどうなるかわかりませんでした。

(ポターの研究者リビー・ジョイ)

しかし、ポターは亡き恋人を思い続けるだけの人生は送りたくありませんでした。

私は来年、新たなスタートに挑まなければなりません。

ポターの手紙(ノーマンの姉宛て)

湖水地方へ

1905年11月、ポターは絵本の印税とおばの遺産をつぎ込んで、湖水地方にあるヒルトップ農場を買い取り、主にそこで暮らそうと決心しました。両親は大反対。しかし、ロンドンから定期的に湖水地方に通うことを約束し、何とか計画を認めさせました。

ポターはヒルトップ農場を買ったことで、考えなければならないことができました。家を改築したり増築したり、庭を作り直したりと多くの時間をそこで過ごすことができたのです。

(ポターの研究者リビー・ジョイ)

ポターはここで新作も手掛けました。湖水地方の美しい風景がふんだんに描かれた絵本は、さらにファンを増やしていきました。絵本の印税が入るたびにポターは周囲の農場を買い取って敷地を増やしました。

新たな恋

そんな時に頼りにしたのが5歳年下の地元の弁護士ウィリアム・ヒーリス。二人は不動産の売買を通じて知り合い気の合う友人となりました。

ウィリアム・ヒーリスとの関係はノーマンとの関係によく似ていたと思います。最初は仕事上の繋がりからお互いの尊敬が生まれ、友情に変わり興味を分かち合うようになったのです。

(ポターの研究者リビー・ジョイ)

二人で湖水地方を飽きることなく散歩し、愛を育みました。時にはヒーリスに連れられ地元開催のレスリング大会に行くこともありました。

1912年、46歳の時にポターはヒーリスからプロポーズされました。

かつて私が婚約した人は死んでしまいました。だからこそ幸せになりたいのです。また不幸な目に合うとは信じたくありません。

ところが、またもや両親が大反対。80才の父と73才の母、ロンドンを離れたくない二人はポターの気持ちを理解しようとはしませんでした。

やっかいなことだらけでした。両親はくだらないことにこだわって長いことヒーリスさんが家に来るのを許しませんでした。両親の反対は私たちの絆を強くしただけなのに。

結局、両親の反対を押し切り二人は結婚。この頃描いた絵本がぶたのカップルを描いた「こぶたのピグリン・ブランドのおはなし」です。

結婚を機に本格的に湖水地方へ生活の拠点を移したポター。47歳にして新たな人生の始まりでした。

湖水地方での暮らし

結婚から一年後に父が亡くなると、母ヘレンはポターの農場の近くに移り住んできました。それにも関わらず、ロンドンを恋しがり農場の生活に馴染めなかった母。年を取るとますます意固地な性格になりました。ポターが母のために雇った使用人を1日でクビにしたこともありました。

母と違いロンドンに全く未練がなかったポターは52才の時に「まちねずみジョニーのおはなし」を書きました。

田舎育ちのねずみチミーは、街で都会のねずみジョニーと友達になりました。チミーは田舎では食べられないような御馳走でもてなされました。しかし、チミーは故郷が恋しくなり田舎へ戻ってしまいました。すると今度はジョニーがチミーを訪ねてやってきました。しかし、ジョニーは田舎暮らしに退屈して都会へ戻ってしまいました。物語の最後をポターはこうしめくくっています。

あるひとはあるばしょがすきで、またべつなひとはべつなばしょがすきです。わたしはどうかといいますと、チミーとおなじようにいなかにすむほうがすきです。

「まちねずみジョニーのおはなし」

この本を出して以降、ポターはあまり絵本を描かなくなっていきました。代わりに増えたのは土にまみれ、羊やがちょうたちと暮らす時間です。

私は今、消えた親羊と子羊を男の子と大騒ぎしながら2時間も探して帰ってきたところです。現実に生きている動物の世話をしていると、どうも本に描かれた動物がつまらないものに思えてきます。

(ベアトリクス・ポター)

ポターが特に力を入れたのが羊の飼育。湖水地方減産のハードウィック種。かつてこの地の羊毛産業を支えていました。しかし、化学繊維が主流となりハードウィック種の羊は激減。ポターはローマ時代から湖水地方の風土を作り上げてきたこの羊を絶やしてはならないと考えたのです。

実はこの頃、湖水地方全体に開発の危機が忍び寄っていました。

湖水地方が危機に直面していたことはすぐにわかったと思います。北部の工業都市に住む人々の休暇のために開発するにはうってつけの場所だったのです。(ポターの研究者リビー・ジョイ)

この地に飛行機工場をたてる計画が持ち上がりました。ポターは計画中止の嘆願書を作成。地元で大々的に署名活動を展開。そのかいあって工場の建設は中止されました。

ポターは農場や土地を買い足すために絵本の印税をどんどんつぎ込みました。

湖水地方が俗悪になるのを防ぐため私はよくやっていると思います。真の教育が進んでいけば手つがずの自然の美しさの価値が認められるようになるでしょう。でも、それが遅すぎれば取り返しのつかないことになります。

ポターが66才の時、彼女の人生を縛り続けた母ヘレンが亡くなりました。93才の最期まで彼女はポターと仲違いしていました。

母は頭の素晴らしく明晰な人だった。が、亡くなって私はほっとしている。

70才になる頃には体力が衰え、冬になるとひどい風邪をひくようになったポター。

私は年を取ることを少しも不快に思っていません。たとえ床にふせっていても目に浮かべることができます。老いた自分の足ではもう二度と行けない高原やデコボコ道。足元の花やぬかるみワタスゲなどを一歩一歩たどっていけるということです。

1943年、ビアトリクス・ポターは77歳で亡くなりました。遺骨は湖水地方に散骨されました。散骨を行った羊飼いが場所を明かさずに死んだため、その場所は今も謎のままです。

広大な土地と農場は、ポターの遺言によりナショナル・トラストに寄贈されました。湖水地方は今も昔のままの美しい自然を保っています。

「ザ・プロファイラー 夢と野望の人生」
絵本作家ポター
本当は怖いピーターラビットの世界

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