第二次世界大戦中に420人の敵国イギリス兵を救った工藤俊作|ありえへん世界

テレビ東京の「ありえへん世界」世界と日本の知られざる絆SPで第二次世界大戦中に命をかけ420人の敵国兵を救った日本人について放送されました。工藤俊作(くどうしゅんさく)さんは1901年、山形県高畑町に生まれました。19歳の時、猛勉強のすえ難関中の難関と言われ世界に通用するエリートを輩出し続けていた江田島の海軍兵学校に入学。工藤俊作さんは当時校長だった鈴木貫太郎さんから「惻隠の情」という言葉を受けました。惻隠の情とは戦った戦士たちが戦闘を終えたあと、互いの健闘を称え合い勝者が敗者を労うということ。またそれは、自分より弱い人間を理解し共感や思いやりが必要だという考え方です。若き日の工藤俊作さんは弱き者を助けるこの精神こそが日本の武士道だと教わったのです。彼は海軍兵学校を卒業後、海軍少佐に昇進。41歳の時、駆逐艦「雷(いかづち)」の艦長に就任。彼は武士道を実践すべく当時の日本軍では考えられない型破りな決まりをもうけました。それは「鉄挙制裁の禁止」です。そのため駆逐艦「雷」は結束力の強いチームとなりました。

 

太平洋戦争の真っ只中、日本は連合国と戦争状態に。インドネシアのジャワ島スラバヤ沖で日本と連合国海軍は激しい戦いを繰り広げていました。工藤俊作さんが艦長を務める駆逐艦「雷」もその海戦に参戦。当時の戦況は日本海軍が圧倒的に優勢。イギリスを始めとする連合国海軍は日本海軍から猛攻撃を受けフォール少尉が乗るエンカウンターも日本軍の戦闘艦に包囲されていました。エンカウンターは砲弾が命中しエンジンが停止。もはや脱出する以外に方法はありませんでした。こうしてイギリス兵全員が救命ボートで脱出。その直後エンカウンターは日本海軍の攻撃によって炎上し海に沈みました。救命ボートは8隻しかなく400人全員が乗るには不十分。ボートにしがみつくのがやっとの状況でした。それでもフォール少尉はオランダ軍がきっと助けてくれると思っていました。それは船から逃げる前に近くにいたオランダ軍の基地にSOS救助要請の無線を打っていたからです。ところが漂流から20時間経っても助けは来ませんでした。

 

そしてフォール少尉たちの前に駆逐艦「雷」があらわれ死を覚悟しました。しかし、日本軍は一向に攻撃をしかけてきませんでした。その時、工藤俊作さんは苦悩していました。目の前で必死に助けを求めるイギリス兵。必死に助けを求める敵兵を前に自分は何をするべきなのか?と。しかし日本軍戦闘艦の艦長という立場で、もし救助活動中に攻撃を受けたら処罰され職を失うことになります。それでも工藤俊作さんは敵兵を救助すると決断しました。彼は海軍兵学校で学んだ武士道の「惻隠の情」を貫いたのです。日本兵たちは自ら海に飛び込み体力の限界を迎えていたイギリス兵を救助しました。そして日本海軍にとっても貴重な食料や真水もイギリス兵たちに与えました。助けたイギリス兵の数は422人にもなったと言います。その後、422人のイギリス兵たちはボルネオ島の港で病院に引き渡されました。

 

しかし、この奇跡の物語は第二次世界大戦から半世紀もの間、一切世に出ることのない知られざる話でした。それは工藤俊作さんが敵兵を救助した1942年は第二次世界大戦の真っ只中だったからです。敵国兵を救ったという話を公表してしまえば、工藤俊作さんが非国民扱いされ非難の的になってしまう可能性があったのです。その後、工藤俊作さんは雷を降り、別の艦の艦長に就任したものの、直後に雷は敵の攻撃を受け沈没。可愛がっていた当時の部下全員が死んでしまったのです。そのショックからか工藤俊作さんは終戦後、戦友と連絡を取らずひっそりと余生を過ごしたと言います。そして1979年、77年の生涯を終えました。このままこの奇跡の物語は永遠に闇の中に埋もれるかと思われましたが明るみに出たのにはフォールさんが関係していました。

 

フォール少尉は終戦後、家族と愛する恋人のいるイギリスに帰国。外交官として日本の国民栄誉賞に値するサーの称号を与えられるほど活躍しました。1996年にフォールさんは自叙伝を出版。それにより54年もの時を経て奇跡の物語は世に知られることになったのです。本の1ページ目には工藤艦長に対する感謝の念がつづられています。その後、心臓病を患い自らの命が長くないとさとったフォールさんは工藤俊作さんにお礼を言いたいと思うように。そして2003年、フォールさんは来日し半世紀前の救助劇を語り初めて奇跡の物語は日本に伝えられました。しかし、そのとき工藤俊作さんの消息を知る者はおらず、再会を果たすことは叶いませんでした。その5年後、故郷である山形県の方々の協力により工藤俊作さんのお墓が判明。フォールさんは2008年に再び来日し66年を経て2人は奇跡の再会を果たしました。