ウガンダ共和国で「ウガンダの父」と呼ばれる日本人|ありえへん世界

ウガンダ共和国で「ウガンダの父」と呼ばれる日本人が柏田雄一(かしわだゆういち)さん。柏田さんは「フェニックス社」というシャツメーカーの社長です。国内でウガンダ人に向けたシャツなどを製造・販売しています。

 

なぜ柏田さんはウガンダ共和国に行くことになったのでしょうか?

 

柏田さんは1958年に大阪の衣料会社ヤマトシャツに就職。当時、品質の良いヤマトのワイシャツがウガンダ共和国で大人気に。現地にシャツ工場を作ることになりました。

 

そこで白羽の矢が立ったのが柏田さん。その理由は彼が外語大出身だったからでした。

 

ウガンダ共和国へ

こうして柏田さんは家族を連れ未知なる秘境ウガンダへ。そこで雇用したのは現地のウガンダ人125名。工場が出来たことで従業員の生活は飛躍的に向上しました。

 

なぜなら当時のウガンダは農業がメインで、自分たちだけのぶんを生産していたので生活は貧困そのものでした。柏田さんの工場で賃金を得たウガンダ人は、家族を貧しさから救う事ができました。

 

クーデター勃発

仕事にもやりがいを感じ何不自由ない生活を送っていた柏田さんでしたが、ウガンダに来てから2年後クーデターが勃発。それは初代大統領ムテサ2世を打倒すべく起こった反乱でした。

 

標的となったのはムテサ2世の出身である国内最大部族ガンダ族。反乱軍は彼らの排斥運動を始めたのです。ムテサ2世と同じ部族の出身という理由だけで、何の罪もない人々が次々と命を落としていきました。

 

その被害は柏田さんの工場にも。柏田さんはガンダ族の従業員人たちをかくまいました。

 

そこへ反乱軍の兵士がやってきて、ガンダ族の従業員を差し出さなければ撃つと言われました。それでも柏田さんは自分の命よりも従業員の生活を守ることを選択。ウガンダ人のために自らの命を差し出す外国人の姿を目の当たりにし、兵士は「妹をここで雇ってくれないか?」と言い出しました。彼の妹は多くのウガンダ人と同じように安定した職に就けず貧困に喘いでいたのです。

 

彼は貧しい人々を救う柏田さんの姿に心打たれ、銃を下ろしそのまま立ち去って行きました。

 

この行動がウガンダ人の心を打ち、従業員との間に深い絆が生まれました。そして柏田さんは「もっと多くのウガンダの貧しい人々を救いたい」と思うように。

 

そしてヤマトシャツは政府からウガンダで初となる学校制服の製作を受注し、工場は大きくなり従業員は1000人になりました。

 

ウガンダ・タンザニア戦争勃発

こうして職に就けず貧しい生活を送っていた多くのウガンダ人を救っていった柏田さんですが、1978年にウガンダ・タンザニア戦争が起こってしまいました。

 

当時、大統領だったイディ・アミンは隣国タンザニアに侵攻を開始。しかし、逆にタンザニア軍に攻め込まれウガンダの首都は壊滅状態に。もはや警察は機能せず市民が暴徒と化し日々激しい略奪が起こる危険な状況。

 

身の危険を感じた柏田さんは家族を日本に帰国させ、本人も隣国のケニアに避難させられました。暴動によりヤマトシャツの工場は破壊されました。

 

再びウガンダ共和国へ

そんな中、柏田さんは自力でウガンダへ。工場は略奪の限りをつくされ無残な姿になっていました。しかし、従業員たちが柏田さんのもとに駆けつけ土下座をして謝ってきたと言います。

 

工場を失って悲しいのは自分だけではないと気づいた柏田さん。また柏田さんの自宅は近所の住民たちによって暴徒から守られていました。住民たちは柏田さんがウガンダ人のために雇用を生み出し、貧しい生活から救ってくれたことに感謝していたのです。

 

柏田さんはウガンダに留まり、彼らに恩返ししていくことを決意。そして2年かけて工場を再建。気持ちを新たにウガンダ人と共に仕事を再開することになりました。

 

ところが、政府の要人にシャツを届けに行くと「金がないからお前が金を出せ」と理不尽な要求をしてきました。柏田さんが断ると後日、国会で「柏田はウガンダ政府に反抗した。奴は殺すべきだ」と糾弾してきたのです。

 

帰国

この事態を知ったヤマトシャツはウガンダからの撤退を決意。柏田さんは1984年、志半ばでやむなく日本へ帰国することになりました。

 

日本に帰国した柏田さんは、ウガンダでの功績が認められヤマトシャツの副社長に就任。それから15年の月日が流れ、もう二度とウガンダに行くことはないと思っていました。

 

大統領からの要請

ところが1999年、ウガンダ大統領ムセベニによって再びウガンダに呼び戻されました。それはウガンダのシャツ工場を再建して欲しいという要請でした。

 

実は柏田さんがウガンダを去った後、ヤマトの工場は国有化されたのですが怠慢な経営により経営が悪化。工場は閉鎖されていたのです。

 

地下資源の乏しいウガンダにとって繊維業は国の大切な産業です。ムセベニ大統領はウガンダの経済を立て直すため柏田さんに直訴したのです。

 

しかし、今や柏田さんはヤマトシャツの副社長。身勝手にウガンダへ行くことなどできません。いくら大統領の要請とはいえ簡単に応じることは出来ませんでした。するとムセベニ大統領は「I beg you」と言って頭を下げてきたのです。

 

再びウガンダへ

再びウガンダの未来のため働く決意をした柏田さん。何と副社長の座を捨てヤマトシャツを退職。そして69歳の時、再びウガンダへと渡り独立してフェニックス社を設立したのです。

 

ウガンダの発展のために人生を捧げ今も働き続ける彼の姿に、現地の人々は柏田さんのことを「ウガンダの父」と呼んでいます。

 

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「ウガンダの父」と呼ばれる日本人

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