1990年代初頭、ソ連から独立したばかりのタジキスタンは政府側と反政府勢力により内戦が繰り広げられていました。1994年に停戦合意がなされるものの各地で内戦は続き、幼い子供までもが銃を持ち戦地に駆り出されていました。
その頃、40代だった秋野豊(あきのゆたか)さんは筑波大学で教鞭をとっていました。専門は旧ソ連圏に関する歴史。そして彼は崩壊間もない旧ソ連圏を自分の足で見て回る現場主義の人でもありました。そんな秋野豊さんが当時最も関心を寄せ心を痛めていたのがタジキスタンで激化する内戦でした。
1998年、日本の外務省がタジキスタンの内戦を止めるための国連の日本代表職員として旧ソ連に詳しい専門家をつのりました。秋野さんのもとにも外務省からの誘いがきました。
しかし、秋野さんには愛する妻と二人の娘がいました。紛争解決の力になりたかったものの家族のことを考えると決断することが出来ませんでした。
それでも遠い異国の平和のためタジキスタンへ渡ることを決意しました。
タジキスタンへ
現地に着いた秋野豊さんは、内戦のすさまじさを肌で感じることに。国連職員として政府側であった彼は死をも覚悟して反政府軍のリーダー達のもとへ自ら足を運び対話を試みました。
リーダー達は野戦司令官と呼ばれ、大小さまざまな規模のグループが存在していました。
危険を顧みず平和をのぞむ秋野さんの姿勢に、反政府軍のリーダーたちは次第に心を許し始めました。こうした秋野さんの活動は90日間に渡り、彼が直接会って話した反政府軍のリーダーたちは10人以上にも及びました。
ラストサムライ
それまで和平交渉に一切応じることのなかった反政府軍グループの中に、武装解除し降伏する者たちが現れ始めました。それは遠く離れた異国からやってきた一人の日本人男性が起こした奇跡でした。
そんな彼をタジキスタンの人々は尊敬の意をこめて「ラストサムライ」と呼ぶようになりました。
志半ばで…
しかし、さらなる和平に向けて超えなければならない大きな壁がありました。ミルゾ・ジヨーエフという反政府軍のリーダーは一筋縄でいかない大物。そんな最後の大物との交渉も成功し、平和まであと一歩という帰り道、秋野さんは殺されました。
20発以上の銃弾を受けた状態で、翌日谷底から発見されました。それは秋野さんたちの存在に脅威を感じ、和平を望まないゲリラ組織の若者たちによる犯行でした。
1998年7月20日、秋野豊さんは大きな夢を実現させるその直前、志半ばで帰らぬ人になってしまいました。
タジキスタン国内では秋野さんの死が大きく報じられ、彼と関わった人間は敵味方関係なく悲しみにくれたと言います。
内戦終結
その後も秋野さんの和平への思いは消えることなく引き継がれ、彼の死から2年後ついにタジキスタンの内戦は終結。秋野さんが参加していた国連のプロジェクトはその役目を終え、タジキスタンの町には秋野さんが夢見た平和が訪れました。
秋野さんの平和への活動はタジキスタン政府より評価され、2007年6月に大統領から友好勲章を授与されました。
さらに、秋野さんの名前がつけられた「秋野豊工科大学」が建てられるなど、亡くなってから16年が経った今でもタジキスタンの人々から尊敬され愛される存在となっています。
「ありえへん∞世界」
タジキスタンの内戦を止めた日本人
この記事のコメント