1970年、バンド仲間だったトミーこと日高富明(ひだかとみあき)さんと堀内護(ほりうちまもる)さんに大野真澄さんを加え結成されたガロ。結成からしばらくは曲も売れず無名時代が続きました。
ヒットを狙い事務所やレコード会社からすすめられたのは「学生街の喫茶店」でした。本当は自分たちが作った曲を歌いたかったガロ。中でもその思いが一番強かったのがトミーでした。しかし、トミーの意思は受け入れられませんでした。
発売された「学生街の喫茶店」は70万枚以上を売り上げ、ガロは一躍人気グループに。しかし、日高富明さんは与えられた成功が許せなかったと言います。
解散
次回作の曲を聴いたトミーは、ガロを脱退することを宣言。こうしてガロは「学生街の喫茶店」を残し解散。トミーは自分の理想を追い求めガロを飛び出したのです。
解散後、それぞれの道を歩み始めた3人。堀内護さんはロングヘアーをバッサリ切りミュージシャンを引退。テニススクールを開校し月の売り上げは300万円。実業家として大成功を手に入れました。
大野真澄さんはソロ活動と並行し、作詞活動を開始。しかし、トミーの第2の人生は苦難に満ちたものでした。
トミーの第二の人生
1980年にロックバンドを結成。しかし、日高富明さんの作る曲は全く売れませんでした。この頃から酒やタバコに溺れるようになりました。ハスキーボイスを作るためだったそうです。
しかし、いくら理想を追い求めてもトミーの音楽はヒットすることはありませんでした。埋まらない理想と現実のギャップ。
死の直前、堀内さんのもとへ行き、「俺たちもう一度一緒に音楽やらないか?」と言ってきたそうです。しかし、事業が順調だった堀内さんは断りました。無言で立ち去るトミー。これが2人の最後でした。
自殺
そして1986年9月19日、日高富明さんは自宅近くのマンションの5階から飛び降りました。遺書は残されていませんでしたが、警察はこの事件を自殺と断定。自分の理想を追い求め続けた36年でした。
トミーの遺志をつぐために…
堀内護さんは、日高富明さんの遺志を継ぐためテニススクールを廃業しライブハウスを中心に地道な歌手活動を再開。そしてガロ解散から37年、再び「学生街の喫茶店」を歌い出しました。今は亡きトミーへの想いを胸に、堀内護さんは自らの成功を捨て一から歩き始めています。
「爆報!THEフライデー」
あの名曲の裏側…事件の真相SP
この記事のコメント
事実と少し違うかな? ガロは学生街…の後もアルバム3・4枚出してるし。