原因不明の難病に襲われ、意識不明になった少年。医師たちは「二度と意識が戻ることはないだろう」と宣告しました。ところが、少年は奇跡的に意識を取り戻しました。
しかし、彼はまだ知るよしもありませんでした。この奇跡こそが耐え難い恐怖の始まりだということを。彼は後にその恐ろしい体験を著書「ゴースト・ボーイ [ マーティン・ピストリウス ]」で克明に記しています。
ほかの人たちにとって、ぼくは鉢植え植物みたいなもの。水を与えられ、部屋の隅っこにちょこんと置かれている。
「食えよこのクズ野郎が」と介護士がののしる。ほかに選択肢はない。身体が拒否したばかりの食べ物を、何とか飲み込まなくちゃいけない。
最後にやってきたのは孤独だった。人々がせわしなく行き来し、おしゃべりし、けんかし、仲直りしてはまたけんかをしている間も、身のすくむような孤独の骨ばった指が、ぼくの心臓をぎゅっと締めつけているのがわかる。
1976年、マーティン・ピストリウスは南アフリカのヨハネスブルグに生まれました。機械技師の父ロドニーとレントゲン技師の母ジョアン、妹と弟と共にマーティンは何不自由ない生活を送っていました。しかし、幸福な日々は長くは続きませんでした。
12歳になったマーティンは突如、激しい喉の痛みに襲われました。ただの風邪かと思いましたが徐々に食事が食べられなくなり、日中に何時間も眠ったり、歩くと足に激痛が走ったり、時々人の顔がぼやけて見えたりするなど奇妙な症状があらわれました。さらに、思考力や記憶力までもが徐々に失われていきました。
両親は国中の病院をわたり歩き、いくつも検査を受けさせ、さらには遠くイギリスやアメリカなどの専門医に見解を求めましたが、病名と治療法は判明しませんでした。
そして発病から1年が経った頃、目は開いているものの完全に意識を失ってしまいました。以来、食べ物を口に運べば無意識に飲み込むほか、生体反応として眼球が動き瞬きはするものの、外部からのどんな刺激にも反応を示すことはなくなりました。
母のジョアンはレントゲン技師の仕事を退職し、一日中つきっきりで世話をしました。しかし、意識が途絶えてから1年が経っても回復の兆しさえ見られませんでした。さらに2年が過ぎ、3年が過ぎ、マーティンは意識を取り戻しました。しかし、手も口も全く動くことはありませんでした。このとき、マーティンは閉じ込め症候群という状態にあったと思われます。
意識があるにも関わらず、手足を使ったり声を出したりして、意思表示をすることが出来ないのです。唯一、自らの意思で動かせるのは眼球と瞼だけ。症例が少なく現在でも有効な治療法はありません。
さらに、通常閉じ込め症候群の判定は患者に簡単な質問をし、イエスは1回、ノーは2回まぶたを閉じるというテストで意識があるかどうかを判断します。しかし、瞼や眼球は例え意識がなくても動いてしまうため、判定は極めて難しいです。
16歳で意識を取り戻したマーティンは、徐々に思考能力も回復。19歳になると、自分がおかれた状況を完全に把握できるようになっていました。しかし、マーティンが意識を取り戻したことに気づく者は誰一人いませんでした。それはまさに、地獄のような日々の始まりでした。
何時間も座りっぱなしでいるのは、みんなが思うほど楽じゃない。人が崖から落ちて、ドーンと地面にたたきつけられ粉々になってしまうアニメを見たことはないだろうか?ちょうどあんな感じだ。
どれほど苦痛を感じても、気づいてもらう術はありませんでした。さらに、膨大な時間を潰すためにマーティン・ピストリウスが出来ることは、ただひたすら数を数える事くらいでした。また、マーティンが意識を失っていた3年の間に家庭は崩壊していました。
意識を失ってから1年後、母ジョアンは看病疲れとマーティンを救えなったという自責の念が重なり自殺を図っていたのです。かろうじて一命をとりとめた彼女は、精神科の医師のすすめで仕事に復帰。息子の世話から一切手を引きました。
代わりにマーティンの面倒を引き受けたのは父ロドニーでした。しかし、父は仕事があるため昼間は介護施設に預けるしかありませんでした。出勤前に預け、夕方迎えに行き、眠るまで世話をし、施設が休みの日は一人でマーティンの面倒をみました。
マーティンにとって最大の苦痛は、自分の存在が家族全員の負担となっていることでした。意識を取り戻したことで厳しい現実を直視しなければならなかったのです。母に「もう死んでちょうだい」と言われた時の思いをこう記しています。
言われた通りにしたかった。人生を終えたくて仕方なかった。こんな言葉を聞くのに、耐えられなかったから。
マーティンが意識を完全に取り戻してから、体にも変化が起こっていました。ほんのわずかながら口の端を動かすことが出来るようになっていたのです。しかし、最もマーティンの回復を願っていた父でさえ息子の顔を正面から見ることはほとんどなくなり、そのわずかな変化に気づくことはできませんでした。
そして、父は郊外にある環境の良い施設にマーティンを時々預けることにしていました。しかし、そこはマーティンを人形のように扱う最悪の施設でした。それでも、父はそんな実態を知るよしもありませんでした。
意識を取り戻してから約10年、25歳になったマーティンは誰かが気づいてくれる希望を失っていました。それどころが、生きていること自体が絶望にほかなりませんでした。
2001年、新しい施設でアロママッサージを担当する介護士ヴァーナとの出会いが、マーティンのその後の人生を大きく変えることになりました。ヴァーナはそれまでの介護士とは違い、マーティンをモノのようには扱いませんでした。それどころか、まるで友人であるかのように話しかけてくれたのです。
ヴァーナは長い間、マーティンの顔を見ながら話しかけているうちに、ある疑問を持つようになっていました。マーティンには意識があるのではないかということです。そして、マーティンは大学の重度障害者用のコミュニケーションセンターに連れていかれました。検査の結果、マーティンに意識があることが分かったのです。
発病から13年余り、完全に意識を取り戻してから10年もの時間が経っていました。ついに、マーティンは気づいてもらうことが出来たのです。しかし、それは新たな闘いの始まりでもありました。
それから母ジョアンは仕事を辞め、一日中マーティンに付き添い一緒にコミュニケーションの訓練やリハビリに励み始めました。それまでの罪を償うかのように。
今は?
現在、マーティン・ピストリウスさんはイギリスに住んでいます。手を動かす事が出来るようになっています。自分の口では話すことはできませんが、パソコンを使って会話も可能になっています。一体何が起こったのでしょうか?
実はリハビリ開始から1年が経った頃、母は額につけた赤外線で画面のキーボードや文字をポイントし意思を伝える新たなデバイスを入手。トレーニングを始めました。2年後には、赤外線を操り会話が出来るまでに回復。さらに想像を絶する痛みに耐えながらリハビリも続けました。
その結果、5年後には自分の手でキーボードを打ちパソコンを使いこなせるまでに回復。さらにパソコンの情報処理を専門的に学ぶために大学に入学。そして、6年前からはフリーランスのウェブデザイナーとして活躍しています。
また2009年に結婚。奥さんはソーシャルワーカーをしているジョアンナさん。イギリスにいるマーティンの妹の同僚です。出会いはマーティンが妹とテレビ電話で話した時、隣にいたジョアンナさんに一目惚れ。その日から2人はメールやフェイスブックで親交を深めていきました。数か月後、ジョアンナさんは南アフリカのマーティンの元へ。そして2009年6月、2人は結婚しました。
「奇跡体験!アンビリバボー」
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