セントヘレナ島は、一番近いアフリカ大陸からも1800km離れた絶海の孤島です。これまでセントヘレナ島へは南アフリカから船で5日間かけて行くしかありませんでした。ところが、2017年に待望の空港が誕生。南アフリカから週1便、わずか6時間のフライトで行けるようになったセントヘレナ島は今世界からにわかに注目を集めています。
19世紀初頭、彗星のごとく現れヨーロッパを支配したフランス皇帝ナポレオン・ボナパルト。彼はその晩年、ヨーロッパ諸国との決戦に敗れた後、全てを失い流されのがセントヘレナ島でした。彼はここで、どのような時を過ごしていたのでしょうか?
世界一のナポレオンコレクター
ピエール=ジャン・シャランソンさんはフランスで最も有名なナポレオングッズのコレクターです。
- ナポレオンとジョゼフィーヌの結婚証明書
- ナポレオンが戴冠式の時に身に着けていたサファイアの指輪 etc.
シャランソンさんがコレクションを始めたのは18歳の時。以来、集め続けたナポレオン所縁の品は2000点を超え、世界中で開かれる展覧会に貸し出されています。
ナポレオンが皇帝だった時代、フランスはヨーロッパのほとんどを支配し一大帝国を築きあげました。その栄光は200年経っても色あせることはなく、フランス国民のアイデンティティに今も深く刻まれています。
絶海の孤島の秘密に迫る!
セントヘレナは活発な火山活動によって生まれた島。そのため島の淵を切り立った断崖が囲っています。ナポレオンと共に島流しに付き添った将校は「まるで地獄の門が開いたようだ」とその姿を語りました。
周囲40kmの小さな島に村は一つだけ。ジェームズタウンです。断崖に挟まれた谷底1.6kmに約1000人が暮らしています。
ジェームズタウンは17世紀半ばから続くイギリス領の街。かつて、ヨーロッパ各国の領事館が軒を連ねた街並みが今もほとんど変わらず残り、様々な人種が混ざり合って暮らしています。
小さな街にも関わらずマーケットは大小合わせて14軒もあり、野菜や卵だけでなく牛や豚、羊の肉までおいてあります。実は、セントヘレナ島では自給自足の伝統が色濃く残っているため、農業や酪農を営む家が今も沢山あるのです。もちろん漁業も盛んです。小魚を餌にした一本釣りが主流です。
大航海時代、もともとセントヘレナ島にあった集落を食糧や水を得られる街として発展させたのがイギリス東インド会社。17世紀、アジアとの貿易のために作られた組織です。当時、アジアへはアフリカ大陸の南を回るルートしかなかったため、セントヘレナは航海における重要な中継地でした。
知られざるナポレオンの幽閉生活
セントヘレナに流されたナポレオンは、街から約6km離れた小高い丘の上で暮らしていました。通称ロングウッドハウス。実は、この家の敷地はフランス領となっています。
総勢30人余りでしたが、食費はイギリス持ちだったため将校たちの飲むワインの量があまりに多いと苦情も出ていました。ナポレオンは、自らの歴史と島での生活を記録させ回想録として本にまとめさせるために彼らを連れてきていました。
なぜ幽閉生活を送ることになったのか?
ナポレオンは1812年、ロシアとの戦いで敗れた時に皇帝を退位させられ地中海に浮かぶエルバ島に流刑されました。しかし、わずか半年で島を脱出するとフランス軍をまとめ再起をかけた大戦争を巻き起こしました。これに勝ったイギリスは二度とナポレオンが蘇ってこないよう絶海の孤島セントヘレナに送ったのです。
ハリーさんのお家は今も「アラームハウス」という愛称で呼ばれています。
イギリスのナポレオンに対する警戒は徹底していました。船の接岸が可能な場所には全て大砲を設置。さらに島には2000人も軍人が増員されました。
一方、監視される側だったナポレオンは人目を気にするでもなく、昼はよく通訳とともに散歩を楽しんでいました。農家を手伝い畑を一緒に耕したという記録もあります。さらに、庭の手入れも使用人に全て任せず自ら行っていたと伝わっています。
ポリー・メイソンは地元有力者の娘で、明るく奔放な性格だったと伝えられています。彼女とナポレオンの年の差は20以上あったとされていますが、彼らはすぐに打ち解けました。二人は木の根元に腰掛け長い間話をしていたそうです。
知られざるナポレオンの戦い
この手紙はセントヘレナ議会で行われた討議で数多くの奴隷が自由を求めた記録とその顛末についてご報告するものです。
(「セントヘレナ議会から本国への報告書」1816年4月10日)
きっかけは、ナポレオンと仲の良かった庭師トビーの告白でした。トビーはスマトラの出身で、幼い頃にイギリス兵にさらわれてセントヘレナに連れてこられたのです。
ナポレオンは奴隷をすぐに開放するようイギリス総督に直談判。報告書にはこの訴えによって裁判が開かれ、かなりの数の奴隷が自由を得たことが記されています。
ナポレオン伝説 誕生の秘密
幽閉生活を5年目を迎えた頃からナポレオンは体調を崩し寝込む日が増えていきました。やがて、大好きなコーヒーでさえスプーン1口しか飲めないほど衰弱。そして1821年5月5日、ナポレオン・ボナパルトは51年の生涯を閉じました。
当時、ナポレオンが葬られたのはセントヘレナで最も美しい場所「ゼラニウムの谷」でした。
イギリスはナポレオンの遺体でさえもセントヘレナ島から出すことを拒みました。しかも、その死は2か月も経ってから世界へ伝えられました。フランスでナポレオンの死が初めて伝えられた新聞でさえ、紙面の4分の1程でしか扱われず、病状と死因が胃がんであることが伝えられただけでした。ヨーロッパではナポレオンの人気が復活しないように情報統制が行われていたのです。
しかし、その風向きを一変させたものがラス・カーズ著「セントヘレナ回想録」です。そこにはセントヘレナでのナポレオンの姿が生き生きと綴られていました。かつての皇帝が絶海の孤島に流されながらも、最後まで誇りを失わずに死んでいったことをフランス国民はこの本によって初めて知りました。
その思惑通り、ナポレオン崇拝の気運は高まり続け、国王はついに市民の声に屈してイギリスと交渉。その死から19年後ナポレオンはパリに帰還しました。この時、彼は自ら命じて作らせた凱旋門を初めて通ることになりました。
同時代の文学者シャトーブリアンもこう述べています。
彼は生きている時に世界を失い
(シャトーブリアン)
死んで世界を我がものとした
「世界ふしぎ発見!」
秘島セントヘレナ ナポレンオンが伝説になった島
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