隠されたトラウマ  ~精神障害兵士8000人の記録~|ETV特集

千葉県市川市には、かつて国府台陸軍病院がありました。終戦までの7年の間に1万を超える精神障害の兵士が収容され治療と研究が行われていました。

 

当時、代表的な戦争神経症とされていたのがヒステリー(臓躁病)です。手足が痙攣したり、立ち上がることや歩行ができなくなる失立失歩も特徴的な症状の一つでした。臓躁病は重症になると激しい痙攣発作を起こしました。

 

当時、陸軍は第一次世界大戦中ヨーロッパで多発した「シェル(砲弾)ショック」と呼ばれる戦争神経症を認識していました。しかし、日本軍にはこうした精神障害兵士は一人もいないと、その存在を隠していました。

 

その一方で、陸軍は優秀な精神科医50人余りを集め、秘密裏に国府台陸軍病院で戦争神経症の研究を続けていました。

 

敗戦後、焼却を免れた病床日誌は元軍医らによって分析が始められました。その後、アメリカで戦争によるトラウマの研究が盛んになると、改めてこの病床日誌に光が当てられるようになりました。

 

 

1937年7月、日中戦争が始まりました。翌年1月から国府台陸軍病院へ神経症の患者が送られてきました。患者が多発していたのは当時「北支」と呼ばれた地域です。最も多かったのは河北省でした。

 

なぜ河北省で多くの兵士が精神障害を発症したのか?

1938年、河北省に出征した22歳の兵士・上岡俊夫さん(仮名)は任地について1年後に臓躁病を発症しました。

 

全身痙攣あり
物に恐れたる状態なり

胸内苦悶感あり

興奮し涕涙せり

(「病床日誌」より)

 

上岡さんは岡山県の農村から徴兵されました。出征前に結婚し、娘も生まれたばかりでした。腕の良い大工として仕事にも励んでいました。カルテには人命救助で表彰されたことも記されています。

 

上岡さんの心を一体何が蝕んだのか?

上岡さんが所属した110師団は河北省保定に拠点を置いていました。1939年9月26日の午前1時、上岡さんは就寝中に発作に襲われました。

 

突然 悪感 戦慄を訴へ全身冷汗を催し急性心臓衰弱の症状を呈す

(「病床日誌」より)

 

医師は次のように診断しています。

 

自己の任務達成の為疲労困憊
身体の抵抗力衰へ遂に発病したる

(「病床日誌」より)

 

110師団は、河北省で広大な地域の占領統治にあたっていました。1938年、日本軍は兵力が足りず都市と輸送路だけを維持する点と線の支配しかできませんでした。広大な地域をおさえる中国軍と110師団との間で緊張が続いていました。

 

この時、日本軍と対峙していたのは中国共産党の八路軍。八路軍は山間部の村々に拠点を築き、勢力を広げていました。これに対し、駐留する部隊に治安粛清の命令が下されました。

 

討伐に向かう村々では八路軍が住民と同じ服装で入り込み、誰が兵士で誰が住民なのか見分けがつかない状況でした。

 

私は便衣で農村に入って農民になりすましていた。日本軍が来たらその情報をすぐ八路軍に知らせるんだ。見つけた日本の憲兵と協力者を八路軍が捕まえて銃殺したこともあった。捕えた者はみんな銃殺していた。

(当時八路軍少年兵 陳子祥さん)

 

1939年8月、八路軍の討伐のため110師団は村を奇襲しました。

 

何が起こったか分からず逃げるしかなかった。着るものと布団を持って畑に隠れた。夜、村が燃える炎が見えた。家の様子を見に戻って殺された住民もいた。その時、叔父も撃たれて死んだ。村で撃たれたんだ。叔父が死に泣くばかり、ただ泣くばかりだった。

(李章文さん)

 

日本軍の記録によれば110師団は1939年7月から3か月に渡ってこうした治安作戦を続けていました。上岡さんが発病したのは、この作戦の1ヶ月後。医師の問診で告白しています。

 

六人ばかりの支那人を殺したが、その中十二歳の子供を突き殺し可哀想だなと思ったこと。いつまでも頭にこびりつき病変の起こる前には何だかそれが出て来る様な感がする。

(「病床日誌」より)

 

上岡さんは送還され国府台陸軍病院に収容されましたが、体調が回復することはありませんでした。

 

一農民兵士が出て行くわけで、通常毎日家族と農耕してた生活の中から突然「人を殺せ」と言われる。そのギャップはものすごく大きいんですよ。一体なんの意味があるのかと。どこと戦っているのかさえよく分からない状況で戦わせられる。このストレスがヒステリーのある症状として出てくることが多いと思う。

(埼玉大学教育学部 細渕富夫教授)

 

 

1941年12月、太平洋戦争が勃発。国府台陸軍病院へ収容される精神障害の兵士も急増していきました。発症地も戦争の拡大と共にアジア、太平洋に広がっていきました。

 

太平洋戦争の終盤になると、患者の送還が難しいため内地の患者が最も多くなりました。一方、中国からも太平洋戦争中2000人を超える患者が送還されていました。そのうち、戦争神経病を発症した兵士が多発していたのは山西省でした。

 

山西省で発病した佐川さん

山西省の山岳部では日本軍と八路軍の戦いが激しさを増していました。1944年、八路軍は50万人に膨れ上がり、日本軍を劣勢に追い込んでいきました。山の地形を巧みに利用したゲリラ戦を展開していました。

 

八路軍に包囲された沁県で発症した兵士がいました。1944年2月、佐川薫さん(仮名)は精神分裂病(現在の統合失調症)を発症。佐川さんは沁県に送られ、補充兵教育を受けました。訓練を終え、戦地に出ると様々な症状を訴えるようになりました。

 

男や女の泣き声が聞こえた

次第に幻視幻聴 著明になり

何かあるものの如く行動をこれに支配され突然「聖徳太子が掃除をしろと言われた」と言い掃除を始めることあり

(「病床日誌」より)

 

晩年の佐川さんに聞き取り調査をしたのが埼玉大学名誉教授の清水寛さんです。

 

入隊以前は大変働き者で、和菓子職人として働いて人柄もいい人だった。戦闘恐怖、あるいは戦闘行為で非常に疲れる極限状況で疲れ果てる戦闘消耗。戦場で殺すあるいは殺される。極限状況に置かれる中で精神的な不安、恐怖からトラウマが心の傷として残ったんじゃないかと考えます。

(埼玉大学名誉教授 清水寛)

 

いつ襲われるかも知れぬ恐怖と夜通し歩く過酷な行軍。兵士たちは追い詰められていきました。激しい疲労と恐怖。過酷な日々の中、佐川さんは発症しました。

 

佐川さんが入院したのは太原陸軍病院。ここで1ヶ月間治療しましたが、症状はおさまらず国府台陸軍病院へ送られることになりました。

 

病床日誌には日本軍の訓練上官からの制裁がきっかけとなり発病した兵士が数多く記録されています。

 

制裁により発症

不審番に立って居りその時帳面に印をつけるのを忘れて居たので非常に叱責された。その後敬礼しなかったと云うて三、四人でひどく気合をかけられた。その時頭が茫として倒れてしまひ恐ろしい恐ろしいと夢中で叫んだ。

(「病床日誌」より)

 

埼玉大学名誉教授の清水寛さんは、日本の精神障害兵士には特有の傾向がみられると指摘します。

 

私的制裁が一応禁じられてはいましたけれど、かなりむごい私的制裁を受けて病気になってもそれを処罰する状況が陸軍にはなかった。私は日本の軍隊における精神障害の大きな特徴の一つが、私的制裁を受けて発病するということが大きな特徴じゃないかと思います。

(埼玉大学名誉教授の清水寛さん)

 

戦地へ送られた知的障害者

8002人の病床日誌には、本来徴兵を免除されるはずの知的障害者約500人の記録が含まれていました。当時20歳以上の男性は徴兵検査が義務付けられていました。

 

戦争末期、徴兵年齢は下がりますが、身体や精神に障害がある人たちは兵役を免除されていました。しかし、実際には知的障害がある人たちが徴兵され戦地に送られていたことが日誌から読み取れます。

 

知的障害のある兵士は「精神薄弱」と呼ばれていました。

 

戦争が長期化し激化し戦局が悪化していく中で大量の兵員を強制的に召集した。そして、内地だけでなく半数近くは中国大陸の戦場へ送りこんでいる。軍隊での過酷な兵業に就く中で様々な身体的な疾病や精神的な障害も併発した。

(埼玉大学名誉教授 清水寛)

 

当時、戦場で傷ついた兵士には軍人恩給が支給されることになっていました。しかし、知的障害のある兵士たちの多くは、元々障害があったため恩給は必要ないとされました。

 

終戦後

1945年8月、終戦。復員した兵士たちは故郷へ、家族のもとへ帰っていきました。上岡俊夫さん(仮名)は終戦後、岡山の村に戻り妻子と暮らし始めました。

 

夜なずっと動きまわるんやで。「誰か人がおる」とかな、「恐ろしい」言うたりな。主人は「戦争ボケや、あれはもう治らへん」言うてました。兄さんはその時からみんな近所の人を叩いたりして。他の人に迷惑かけてるんやったら奥さんは悔やんではったと。「なんぼ自分の主人でもな、あんな迷惑かけたら自分が生きていられんようになる」言うてな。奥さんにしたらつらかったんやろ思います。

(義妹・良子さん)

 

その後、上岡さんは離婚し精神科の病院に入院。39歳の時、病院で亡くなりました。

 

精神障害兵士たちが故郷や家族のもとに帰ることは容易ではありませんでした。戦後、多くが国立の療養所で生活を続けることになりました。引き取り手がいない精神障害兵士たちは「未復員」と呼ばれました。

 

1948年に「未復員者給与法」が一部改正され戦傷病者は療養費用を全額国の負担で給付されることになりました。

 

佐川薫さん(仮名)は戦後30年近く東京の療養所での生活を続けました。1970年、57歳の時に名古屋の病院に転院。佐川さんは故郷への思いを語っていました。

 

佐川さんの故郷は福井県武生。終戦後、精神を病んだ佐川さんを年老いた母は引き取ることができませんでした。姉のよしえさんだけが療養所へ40年近く通い続けました。しかし、自分の家庭を持つよしえさんも佐川さんを受け入れることはできませんでした。佐川さんは「故郷へ帰りたい、また働きたいから仕事を探して欲しい」とよしえさんに何度も便りを送っていました。

 

いつもね帰る時にね、私に「(弟は)何の為に生まれてきたんやろなあ」って言うて、車の中で。「何しに生まれてきたんやろなあ」って。結局、戦争行ってそういうふうになって、それから分からない。病院へ入ってそのままずっと生きてる。最後までそうなってたけど、悔しい思いはあります。

(よしえさんの息子・宏さん)

 

2003年、佐川さんは心不全のため89歳で亡くなりました。60年を病院で過ごした生涯でした。

 

戦地で発病し、戦後も長い療養生活を送ってきた精神障害の兵士たち。その多くが故郷に、家族のもとに帰ることが叶わず病院で年を重ねていきました。

 

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