諏訪敦 満州難民を描く|ETV特集

NHK・Eテレの「ETV特集」で忘れられた人々の肖像~画家・諏訪敦 満州難民を描く~が放送されました。画家・諏訪敦(すわあつし)さんは古典的な写実絵画の技法を使いながら常に挑発的な作品を発表し続けてきました。その描写力は写実を超えているとも言われます。「恵里子」は結婚を間近に控え交通事故で亡くなった女性を描いた作品です。両親から娘を蘇らせてほしいと依頼されました。今は亡き娘を描くにあたり諏訪敦さんは膨大な遺品をあらため、聞き取りをすすめました。それだけではなく両親もデッサンしました。手を描くために残された画像を調べつくし、義手を作る職人に頼んで彼女の手を精巧に再現してもらいました。執拗なまでの徹底した取材の果てに諏訪敦さんの作品は生み出されます。

「ひとつのものを描くにしても絵には表れないいろんな事情を持っていたりするわけです。それを全て知っておくっていうことは最終的に絵に表れないにしても重要な情報を含んでいると思うし、それを一つ一つ知った上で納得して描きたいという気持ちが強いんだと思います」(諏訪敦さん)

 

2016年1月3日、諏訪敦さんは新たな大作に挑み始めました。まず粗くキャンバスに筆を走らせます。それは女性が横たわっている姿でした。諏訪敦が描こうとしているのは終戦直後、中国大陸で死んだ祖母です。諏訪敦が生まれる20年以上も前に死んだ祖母に会ったことはありません。亡くなった時31歳でした。ことの始まりは17年前にさかのぼります。

 

平成11年、父親ががんで死亡する直前、諏訪敦さんに手記をたくしました。そこには諏訪敦さんの知らない家族の歴史がしたためてありました。手記によれば諏訪敦さんの父の家族は山形で和菓子屋を営んでいましたが大陸に渡りました。国がおしすすめていた満蒙開拓団に参加したのです。その時、父の豊さんは8歳でした。その目の前で母と5歳の弟が飢えと感染症に苦しみ命を落としました。大陸に渡ったのはすでに敗色が濃厚だった昭和20年4月。そんな時期になぜ満州に行ったのでしょうか?手記には父の怒りがにじんでいました。

「昭和20年敗戦の年に渡満すると危険なことは政府では分かっていたことではなかったのだろうか。歴史上のこととして諦めのつかない現在の自分の思いからもう一度言いたい。責任者出て来いと」(諏訪豊「我が人生途上の記」より)

父はなぜこの手記を託したのか、詳しく聞きたくても父の病状が悪化してしまいました。諏訪敦さんは病床の父の姿を描き、息を引き取った後も何度も描き続けました。すると父の無念を晴らしたいという思いが膨れ上がっていきました。

「忘れ去られていったり無かったもの同然のものになっていく人生って沢山あるじゃないですか。父親もそのうちの一人なんですよきっと。だけども、ちょっとそうしてしまうにはあまりにっていう内容がここにあるので、画家なりのやり方で一矢報いることはできないかなと考えるようになりますよね」(諏訪敦さん)

 

父たちと同じような体験をした人がいるはずだと諏訪敦さんは話しを聞こうと考えました。父と同じ昭和20年に満州に渡ったのが西村増雄さん(86歳)です。満蒙開拓団はかつて日本が満州と呼んでいた中国東北部に送り込まれた約27万の開拓民です。五族協和、王道楽土をスローガンに国策として進められました。日本にはなかった広大な大地に、多くの人々が夢を抱きました。終戦間際まで開拓団は続々と送り込まれました。しかし1945年5月、大本営はソビエト軍が侵攻してきた場合、軍は南に後退するとすでに決定を下していました。つまり開拓村の大部分を放棄するとしていたのです。この決定は開拓民に知らされませんでした。8月9日、恐れていたソビエト軍の侵攻が始まりました。人々は逃げ惑い死の恐怖に直面することになりました。

「国やぶれて山河ありというけど、そんなきれいごとな話じゃないし、国やぶれたら国民はゴミくずよりひどいんだ。捨てられてしまうんだからね」(西村増雄さん)

満州に取り残された人々の中に諏訪敦さんの一家もいました。ソビエト軍に追われ略奪の恐怖におびえながら逃避行の末にたどり着いたのは難民収容所でした。ここで父・豊さんの母は命を落としました。その時の様子を聞くため、満州へ行った家族の中で唯一今も健在な叔母・小田川博子さんに連絡をとりました。博子さんは豊さんの一つ違いの妹です。

「寒い冬だと思うのね。とにかく雑なものだったわね。チフスだったから。結局みんなチフスよ。それでバタバタ亡くなってね。(亡くなる時に)いつでも笑ってなさいねって言われたね。私いつでもブスッとしてたからね。博子は笑いなさいってね。何も面白くないもんね」(小田川博子さん)

このとき諏訪敦さんの中で祖母の存在が大きなものになりました。父の怒りは優しかった祖母の死が火をつけたのではないかと考えました。

 

諏訪敦さんはかつて家族が入植した村、依蘭県馬大村へ向かいました。村の中心部に行くと人々が集まっていました。寒い冬を越すため豚肉を分け合っていました。昔からの習慣だと言います。

「日本人が来る前、中国人はあちこちに住んでいた。管理するためにみんなを集めて開拓団のために働かせたんだ」(村人)

満蒙開拓団には広い土地が用意されていました。それは地元の農民からひどく安い値段で買い取ったものが多かったと言います。

「日本人が住んでいた家はもう壊してしまった。この村にはもう一軒も残ってないよ」(村人)

諏訪敦さんが日本で調べた資料に、祖父は醤油工場で働いていたという記録がありました。醤油工場の跡地は今は空き地になっています。凍てついた土と果てしない寒空。結局、家族の痕跡はそれだけでした。

 

ソビエト軍が攻めてくると開拓団の人たちは避難を開始しました。諏訪敦さんの家族もほとんど着の身着のままで脱出したとみられます。250km離れたハルビンに辿り着いた一家は一時的に小学校に避難しました。当時のままの建物が今も残っていました。

「2日目の夕方、ソ連の兵隊が来て父たち大人の男を連れていってしまった。その時から父なしの家族は食事にも窮した。母はそれほど深い知り合いでもない人に頭を床にこすりつけんばかりにして金を借り私たちに鮭缶と握り飯を買い与えてくれたのであった」(諏訪豊「我が人生途上の記」より)

 

絵を描き始めて1ヶ月、キャンバスには横たわる裸婦像が描かれていました。透き通るような肌の色感。色調は暗いですが若く健康的な女性です。これから、この女性を殺していくと諏訪敦さんは言います。逃避行の末、多くの開拓民は難民収容所に身を寄せました。そしてそこで飢えに苦しみました。絵の女性の豊かな肉付きをそぎ落としていきます。

 

祖母はどんな風に死んだのか、諏訪敦さんは同じ難民収容所にいた人を訪ねました。松下成司さん(86歳)です。新香坊収容所での生活は日に日に過酷さを増したと言います。

「お墓の穴掘りをした。あれも思い出だ。寒中になると凍ってしまって掘れないもので暖かいうちにな穴をいくつも掘ったね。100個くらい掘ったんじゃないかな。だいぶ掘ったで。冬になったらぞろぞろ穴に埋めるように。大勢死ぬってことが分かっていたもんで」(松下成司さん)

鈴木俊寛さん(82歳)は12歳の時、1年間を新香坊収容所で過ごしました。

「豊くんはね小学生1、2年くらい大きかったよ。印象はあるよ。お父さんは和菓子職人で。この人は開拓団としての籍は持っとらんよ」(鈴木俊寛さん)

逃避行のどさくさで所属していた開拓団とはぐれてしまった諏訪敦さんの一家は新香坊収容所で鈴木さんたちの開拓団にもぐりこんだと言います。鈴木さんは諏訪敦さんの取材に同行しても良いと約束してくれました。

 

諏訪敦さんと鈴木さんはハルビン郊外の新香坊収容所の跡地へ。今は工場になっています。

「元気いっぱいだった弟の具合が悪くなっていきました。弟は5歳になっていました。弟のそばに寝ていた私は夜中さわさわという音に目覚めました。冷たくなった弟の体から近くにいる私の体へ移動するシラミの出す音だったのです。」(諏訪豊「我が人生途上の記」より)

11月、祖母が発疹チフスに。飢餓に苦しめられた体に抵抗力はなく3日目に亡くなりました。鈴木さんの母親も冬を越せず、新香坊収容所で亡くなりました。

 

諏訪敦さんが描こうとしているのは埋葬地に横たわる祖母の姿です。死因となった発疹チフスとはどんな病気なのでしょうか。諏訪敦さんは感染症の専門家を訪ねました。当時、満州の収容所で発疹チフスの致死率は50%を超えていたと言われています。諏訪敦さんはこれ以上、祖母の姿をおとしめることにためらいを感じ始め、せめて黒髪だけは残したいと葛藤していました。3月1日、諏訪敦さんの絵筆は事実を選び取りました。

 

3月13日、絵は完成しました。「哈爾濱(ハルビン)1945年 冬」です。諏訪敦さんが描きだした女性の遺体には、その女性がたどってきた過酷な時間が込められました。腹部に描かれた妊娠線は愛する子供たちの記憶です。歳月の中に埋もれようとしていた存在の重さをこの絵は弔い埋葬したのでしょうか、それとも忘れさせまいと掘り起こしよみがえらせたのでしょうか。

「彼女が持っていた無念だったであろうとか、自分たちの子供たちにはせた思いとかを簡単に代弁したくないという気持ちはあるの。ただ、過去の彼女と祖母と何かをやり取りしているという実感は、手ごたえはありました」(諏訪敦さん)


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