小笠原登 ハンセン病隔離に抗った医師の記録|ETV特集

NHK・Eテレの「ETV特集」でらいは不治にあらず~ハンセン病隔離に抗った医師の記録~が放送されました。愛知県あま市の圓周寺で日本のハンセン病医療の歴史に新たな光を当てる資料が発見されました。それは京都大学の医師が書いた日記、10年分の記録です。医師の名は小笠原登(おがさわらのぼる)ハンセン病患者を社会から隔離する国の政策に一貫して反対した人物でした。

 

小笠原登は古い歴史を持つ寺に生まれ4歳から漢文や書に親しみました。生涯独身を貫き仏教者として朝晩のおつとめを欠かさなかったと言います。京都大学の医学部で学んだ小笠原登は皮膚科にすすみ、当時不治の病と恐れられていたハンセン病の治療に携わりました。小笠原登が勤務していた京都大学医学部附属病院には、かつて皮膚科特別研究室と呼ばれる独立の医療施設がありました。設立は昭和13年。ハンセン病専門の外来と入院棟をそなえ年間300人の患者を診察していました。戦前の国立大学でハンセン病の外来と入院診療を専門に行う唯一の施設でした。この皮膚科特研の初代主任をつとめたのが小笠原登です。当時、らい病と呼ばれていたハンセン病はらい菌によって皮膚や末梢神経が侵される感染症の一種で、現在では特効薬で完全に治る病気です。重症化すると顔や手足の変形などを引き起こし後遺症などが残るため、不治の病と誤解され恐れられてきました。

 

患者に素手で触れていた小笠原登は数多くの臨床経験からハンセン病は簡単にうつる病気ではなく、特定の体質の人しか発病しないと気づいていました。小笠原登が処方していたのは大風子油。当時、世界中で使用されていた一般的な治療薬です。小笠原登はこの薬に加えて食事療法も行うことで、ハンセン病の症状は改善すると考えていました。ハンセン病は簡単にはうつらず、不治の病ではないと確信した小笠原登は患者の治療と研究に没頭していきました。

 

ハンセン病の原因となるらい菌は明治6年(1873年)ノルウェーの医師アルマウェル・ハンセンによって発見されました。当時、予防のために最も有効な手段として世界的に提唱されたのが患者の隔離でした。近代化を急ぐ日本でも明治40年(1907年)患者を隔離する法律を制定。まず対象となったのは故郷をおわれ街を浮浪する患者たちでした。全国に療養所が建設され、患者を収容する体制が整えられていきました。こうした政策を推進したのは日本のハンセン病医学の第一人者・光田健輔(みつだけんすけ)でした。当時、3万人以上いると考えられていたハンセン病患者。光田は古くから患者が日本社会で差別されてきたことを嘆き、隔離は患者の救済にもつながると考えていました。

「現在のありさまではあまりにもこの病者は悲惨であり、このような悲惨を社会に存在させることは国家、国民の恥である。前部の描写を隔離して、まず伝染の道を断ち隔離したものには平和な生活を与えてやらなければならない」(光田健輔)

大正12年(1923年)フランスで開かれた第3回国際癩会議では隔離だけに頼らず、治療にも力を入れるべきであると決議されました。この会議には光田健輔も参加。しかし光田は確実な治療法がない以上、伝染を予防する最も有効な方法は隔離であると改めて主張しました。国の隔離政策は次第にエスカレート。おりしも日本が欧米列強に対抗し大国にのしあがろうとしていた時代。ハンセン病は国力を損なう病とみなされました。昭和5年、内務省衛生局はらいの根絶策を策定。そして昭和6年、法律が改正され癩予防法が制定されました。ハンセン病と診断された者を生涯に渡って隔離する絶対隔離政策の始まりでした。

 

京都大学で治療を続けていた小笠原登は厳しくなる隔離政策に危機感を覚えていました。「癩に関する三つの迷信」という論文を発表しています。ハンセン病は遺伝する病気でも、強烈な伝染病でもない、まして不治の病ではないと小笠原登は主張して隔離政策を批判。小笠原登の主張は自らの治療体験と臨床データに支えられていました。しかし癩予防法の制定後、各県が競って患者を療養所に送る無癩県運動が本格化。医師から連絡を受けると警察官が自宅に出向き患者を収容しました。患者に平和な生活をもたらすはずだった療養所ですが、園内では相愛互助という名目で重症患者の介護や土木工事など、様々な労働が課せられていました。逃亡を防ぐため外出は禁じられ、反抗的な態度をとった患者は懲罰として監禁されることもありました。施設内での結婚は許されていましたが条件がありました。子孫を残さないよう断種や堕胎手術を受けるよう強いられたのです。子どもに伝染の危険があり、引き取り手もいないというのが主な理由でした。こうした断種問題についても小笠原登は反対を表明しています。

 

法律では患者をハンセン病であると診断した場合、3日以内に届け出るよう医師に義務づけていました。それは患者の隔離に手を貸すことを意味していました。小笠原登は別の病名の診断書を発行することで、患者が療養所に収容されることを防ごうとしていました。さらに重症な患者や見た目で明らかにハンセン病と分かる患者は皮膚科特研に入院させていました。数多くの患者と接してきた小笠原登は教え子や看護師にも思い込みを捨てて患者の病状に虚心に向き合うよう指導したと言います。

 

小笠原登にとっての最大の謎はハンセン病発病のメカニズムでした。医師にも看護師にもうつらないのに、なぜ一部の患者だけが発病するのか?同僚の医師の中には自分の体で実験を試みる者もあらわれました。菌の感染力だけでなく患者の体質にこそ発病の要因があると小笠原登は考えました。この体質論はやがて思わぬ波紋を広げることになりました。昭和16年(1941年)仏教系の新聞「中外日報」が体質論に関する小笠原登の談話を掲載しました。小笠原登の体質論はやがて一人歩きを始めました。波紋を広げたのは朝日新聞の記事でした。記事は「癩は伝染病にあらず」という見出しを掲げ、小笠原登の考えはハンセン病医学に革命をもたらす新説であると紹介したのです。「伝染病にあらず」という表現に光田健輔が反発。療養所の所長たちと共に京都大学に出向き、総長と医学部長に対して抗議。さらに大阪帝国大学医学部の櫻井方策が小笠原説を批判する文章を新聞に寄せました。激しさを増す論戦はついに学会の場へと移され、小笠原登は毎日深夜まで学会発表の準備に追われました。昭和16年11月、第15回日本癩学会総会が開幕。小笠原登は登壇し、自らの体質論について詳しく説明しました。しかし、学会では他の研究者から小笠原登を批難する発表が繰り広げられました。小笠原登がとなえた体質論は、その後異端の説として事実上しりぞけられることになりました。

 

皮膚科特研での小笠原登の治療活動は戦争の間も途切れることなく続けられていました。そして終戦の3年後、60歳となり定年。21年間、患者たちと向き合った京都大学附属病院を退官しました。GHQの戦後改革により、民主主義や人権の尊重を定めた新憲法が公布され、絶対隔離政策見直しの気運が生まれました。それを大きく後押ししたのがアメリカで開発されたハンセン病の特効薬プロミンの登場でした。プリミンにはらい菌の増殖を阻止する効果がありました。短期間で顔の腫れや皮膚の潰瘍が消え、患者からは驚きの声が上がりました。国会でも隔離政策の見直しが検討され始めました。患者たちも癩予防法の改正を求める運動を始めました。昭和26年、全国国立癩療養所患者協議会を結成。ハンセン病は治る病気になったとし、強制隔離の廃止と軽快者の退所を法律に明記するよう国に直接訴えました。そこに待ったをかけたのが光田健輔でした。

「軽率に解放をお叫ぶことはせっかくここまで浄化せられて来た国内を再びライ菌で汚染させるに等しい。暴挙といわねばならぬ」(光田健輔)

光田は登場したばかりのプロミンによる治療効果を信用していなかったのです。そして昭和28年、改正らい予防法が成立。全国国立癩療養所患者協議会の主張は受け入れられず、強制隔離は継続されました。

 

京都大学を退官した小笠原登はこの頃、愛知県豊橋市にいました。ハンセン病の専門医としての第一線を退き昭和23年、国立豊橋病院の皮膚科医長に就任したのです。癩予防法が徹底する中、小笠原登が一般の病院でハンセン病患者を治療することはできませんでした。しかし、発見された日記には意外なことが書かれています。小笠原登は病院ではなく自分の宿舎で密かにハンセン病患者の治療を続けていたのです。患者の多くは皮膚科特研時代に小笠原登が診察していた人たちでした。さらに日記にはプロトミンやプロトゾルなどのハンセン病の特効薬の記述が見られます。小笠原登はこうした薬を独自に購入し、希望する患者に処方していたのです。療養所への隔離を望まない患者たちへの支援は戦後も形を変えて続けられていました。しかし、次第に豊橋病院の人々に知られることに。病院側は小笠原登が部屋でハンセン病患者の診察を行っていることに気づき問題視しました。そして昭和30年、小笠原登は自ら豊橋病院を依願退職。その3年後、療養所の入所者数は11911人に。90年間の隔離の歴史の中で最大の入所者数を記録しました。隔離政策を推し進めた光田健輔は昭和32年、第一線を退き、総理大臣から感謝状が贈られました。当時「救癩の父」と呼ばれていた光田健輔は、ハンセン病撲滅に捧げた生涯が高く評価されたのです。昭和39年、光田健輔は88歳の生涯を閉じました。

 

ハンセン病はなぜ特定の人にだけ発病するのかが解明され始めたのは1970年代になってからです。らい菌に毒性はなく、体に入っただけでは発病しません。何らかの原因で免疫が異常な反応を起こした時にだけ発病します。ハンセン病はアレルギーや花粉症のように発病が生活環境や体質に大きく左右される免疫病だということが明らかになったのです。こうして小笠原登の体質論は半世紀を経て、現代の免疫学によってその正しさが裏付けられました。しかし、このとき小笠原登はすでにこの世を去っていました。小笠原登は昭和45年、実家の圓周寺で急性肺炎のため亡くなりました。

 

平成8年(1996年)らい予防法は廃止され、90年近くにわたった隔離政策に終止符が打たれました。




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