1997年3月、渋谷の円山町で事件は起こりました。古いアパートの空き部屋で管理人が異変に気付きました。部屋の窓から中を覗き込むと寝ているような女性がいました。声をかけても反応はありませんでした。女性は死んでいたのです。
ほどなくして被害者の社員証が見つかりました。被害者は東京電力のエリート管理職・山口多恵子(仮名)でした。
山口多恵子は円山町で夜な夜な売春行為をしていたことが明るみになりました。殺害現場は事件前からドアの鍵は閉まっておらず、山口多恵子はこの部屋をホテル代わりに使っていたと考えられました。昼はエリート社員で夜は売春行為をしていた山口多恵子のセンセーショナルな話題に報道は加熱しました。
山口多恵子は近所でも評判のお嬢様でした。大学は名門校の経済学部に入学。就職でも優秀さを発揮した山口多恵子は、1980年に総合職で東京電力に入社。まさに女性進出の先陣を切っていました。配属されたのは電力事業が経済に与える影響を研究する部署でした。
やがて日本経済はバブルに突入。山口多恵子の働きぶりは、頑張りすぎにも見えたと当時の上司は証言しています。
入社から13年で東京電力初となる女性管理職に抜擢されました。35歳の若さで異例の人事。まさに順風満帆に見えていましたが、この頃から山口多恵子は会社を出ると円山町に行くようになりました。
当時、風俗嬢だったという酒井あゆみさんが派遣型風俗店での仕事を始めると、そこに山口多恵子がいたと言います。
山口多恵子は夕方から最終電車の時間まで、ほぼ毎日店に顔を出していたそうです。
酒井さんによれば客が指名するのは若い子ばかりで、30半ばを過ぎた山口多恵子になかなか客はつかなかったと言います。やがて、彼女は店を辞めました。
次に彼女が通い始めたのは円山町の路上。長い髪のカツラに派手なメイク。そして、自ら道行く男に声をかけるまでになっていました。雨の日でも毎晩街角に立ち続けていたと言います。
山口多恵子は朝7時に杉並の高級住宅街から電車で渋谷へ。銀座線に乗り換え会社がある新橋へ。そこから夕方までは東京電力の本社で管理職として働きました。会社を出るのは定時。しかし、今度は渋谷で乗り換えず下車。109のトイレで夜の服に着替えると濃い化粧を施し長い髪のカツラをつけたのです。こうして円山町の路上で毎晩、最終電車の時間まで客を取り続けました。
よく男性の方と見えましたよ。来ると必ず瓶ビールを買ってましたよ。必ず同じビールを同じ本数買っていって、また何時間後かに飲んだ空き瓶を返しに来る。あんまりそういう人っていないんですよね。
(当時の報道 コンビニ店員)
瓶を返却すると貰える10円ですら無駄にしなかったという山口多恵子。常連客によると、コンビニのおでんの買い方も独特だったようです。決まって一品ずつ容器を分け、たっぷりの汁を店員に催促し、それを大切そうに飲んでいたと言います。また別の常連客には仕事の参考になりそうな新聞記事を切り抜いては渡していました。
帰りは神泉駅から最終電車に乗っていました。こんな生活を毎日欠かすことなく続けていた山口多恵子。そんな彼女を最終電車で同じ車両に何度も乗り合わせたという椎名玲さん。
事件当日
そして1997年3月、事件は起こりました。その夜は渋谷駅前から始まりました。駅前は常連客との待ち合わせ場所でした。
男性によればその後、2人で円山町のホテルに向かい3時間程滞在しました。代金は3万5000円。1万円札を4枚渡し釣りを受け取ったと証言しています。
常連客を見送った山口多恵子が次に目撃されたのは事件現場近くの路上でした。そこを一人で歩いていた山口多恵子。その行く手には神泉駅があります。このまま帰宅していれば事件にあうこともなかったでしょう。
しかし、次に現れたのは駅から離れた道玄坂。不特定多数の男に声をかける姿を目撃されています。
その後、40分近く彼女の足取りは不明となり次に現れたのは事件のあったアパートの前。そこで外国人風の男と話す姿が目撃されました。そして山口多恵子は男とアパートの中へ。
容疑者 DNA鑑定
山口多恵子の遺体が発見されたのは、アパートに入る姿を目撃されて11日後。捜査で最も重要視された証拠がトイレに捨てられていた避妊具。そこから採取されたDNAを元に一人の容疑者が浮上しました。
ネパールから出稼ぎにきていたゴビンダ・プラサド・マイナリ氏です。以前にも数千円で山口多恵子と関係を持ったことがあり、あのアパートに空き部屋があったことを知っていました。ゴビンダさんは山口多恵子が持っていた現金を奪い殺害した罪で無期懲役の有罪となりました。
ところが、遺体に残っていたDNAが一致しなかったことなどからゴビンダさんの再審が決まり無罪となりました。
「報道スクープSP激動!世紀の大事件Ⅴ」
東電OL殺人事件
この記事のコメント
もう20年以上前の事件なんですね。売春はこの被害女性にとって、人生の中で最も輝いて華やいだ期間だったのかもしれないと思いました。きっと淋しかったのかもしれない。そしてお客さんと接する事でその淋しさを紛らわしていたのかもしれない。たとえお客でも、男の人を喜ばせる事に自分の喜びを感じていたのかもとも思います。被害女性に関して他の記事に載っていたのは、被害者女性は性行為をしても毎回快感を得る事はほとんどなく、男性をいかせる為にいつも演技をしていた、というような内容でした。という事は、男性をいかせ事に女性としての喜びを感じていたのかもしれないと思います。もし?そうなら、本命の恋人とめぐり逢っていたなら、被害者女性は、最高の恋人になれたでしょうに、そして、最高の妻にもなれたでしょうにと思いました。この被害女性は、古い昭和の時代が生んだ不幸な女性の1人だったんだと思いました。