ヤマロク醤油 倒産寸前からの大逆転|アンビリバボー

香川県小豆島にヤマロク醤油の醤油蔵があります。明治時代に作られたと言われるヤマロク醤油の蔵には直径2メートル、高さ2メートルにおよぶ木桶が66本も並んでいます。その多くは100年以上、中には150年もの間、醤油造りに使われ続けています。

小豆島は醤油作りが盛んな島で、醤油蔵が全部で21あります。その中で、特に注目を集めているのがヤマロク醤油(やまろくしょうゆ)です。先祖代々続く醤油の味を守り続けているのは5代目の山本康夫(やまもとやすお)さんです。

今、自分がやっていることは先人から受け継いで代々つながってきたものなんです。なくしては駄目なんです。我々は次の世代に先人から受け継いだものを残し伝える義務があるんです。日本人は先々のことを考えてきたので日本人の美徳というんですかね、そういうものだと思います。

(ヤマロク醤油 5代目 山本康夫さん)

1972年、山本康夫はヤマロク醤油を経営する山本家の長男として誕生しました。物心がついた頃には父・健司さんが4代目として醤油造りを行っていました。先祖から祖父へ、祖父から父へと受け継がれてきたヤマロク醤油は昔ながらの醤油造りを続けてきました。

醤油はまず、原料となる大豆と小麦に麹菌と塩水を混ぜ諸味と呼ばれる状態を作ります。それを木桶の中で約3年間、時々空気を入れるためにかき混ぜながら熟成させます。すると、天然の酵母菌や乳酸菌が作用し諸味は徐々に発酵。それを絞り、さらに熱を加え不純物を取り除いて完成します。

現在の醤油のほとんどは、金属のタンクで工業的に作られています。理由は木桶での醤油作りは温度調整などの管理が難しく、非常に手間と時間がかかるからです。そのため、木桶で作る醤油は日本全国で生産されている醤油の1%を大幅に切っています。なぜ、ヤマロク醤油は手間のかかる木桶での醤油造りを続けているのでしょうか?

木桶で造るとなぜか旨いんですよ。分析すると数値にも明らかに表れていて旨味成分がかなり多いんですよね。

(ヤマロク醤油 5代目 山本康夫さん)

さらに、データには表れない特徴もあると言います。そう語るのは銀座「鮨よしたけ」の吉武正博さんです。ミシュラン3つ星にも選ばれた「鮨よしたけ」では数年前からヤマロク醤油を使用していると言います。

ヤマロクさんは丁寧にじっくり時間をかけて木桶で造っている所そこらへんがすごくよくて、他の醤油と違うのは一口なめた時に塩っぽさが先に来ない。大豆の甘味がきて塩分濃度が後からついてきて、なおかつ口に広がる香り、大豆の香りとかを活かしている。国産の本マグロを使ってるんですけど、本マグロの酸味とか香りを引き出してくれるような丸みのある醤油なので、そこらへんが非常にいいですね。

(「鮨よしたけ」 吉武正博さん)

一体なぜそんな味が出るのでしょうか?木桶や蔵の柱や梁や土壁に100種類くらい菌が棲みついているからだそうです。蔵によっては50種類だったり200、300という蔵もあります。そうすると、菌の活動も違うので、それぞれ色んな特徴のある味や香りになってくるのだと言います。蔵の生態系があるので、工業的に造ってもヤマロク醤油の味にはできないのです。味の深さに関しては科学でも全ては解明できていません。

幼い頃から父の醤油造りを見てきた山本康夫さんは、いつからかその後を継ぐことを考え始めていました。大学を卒業すると、家業を継ぐつもりで小豆島へ戻りました。

しかし、父には醤油屋は継がなくていいと言われてしまいました。明治初期から醤油造りを行っていたヤマロク醤油でしたが、戦後の爆発的な人口増加と高度経済成長により醤油も大量生産の波に飲み込まれ価格はどんどん下がっていきました。ヤマロク醤油も祖父の代から経営が悪化していき、試行錯誤していました。そのシワ寄せは父の代にも。

当時、ヤマロク醤油は業務用の醤油の生産をしていましたが、業者が求めていたのは質よりも価格や量。ヤマロク醤油も無添加の味にこだわった醤油を造りながらも、添加物を入れて量を増やした安い醤油を主力商品にしていました。しかし、大手メーカーのように大量生産もできないため経営は苦しかったと言います。それでも、工夫を重ね新たな味に商機をかけましたが、売り上げはかんばしくありませんでした。そのため父は康夫さんに「継がなくていい」と告げたのです。

ヤマロク醤油で働くことがかなわなかった康夫さんは、佃煮メーカーに就職し東京などで働きました。しかし、島を出て6年経ってもヤマロク醤油への想いは捨てられずにいました。

そんなある日、康夫さんはスーパーでヤマロク醤油が売っているのを見かけました。

まず売ってるとは思ってなくて、ちょっと嬉しくなりますよね。良い物を高くても分かってくれる人がいるという感覚はありました。

(ヤマロク醤油 5代目 山本康夫さん)

そして、父にヤマロク醤油を継がせてもらえるよう頼みました。29歳の時に康夫さんはヤマロク醤油に戻り、父のもとで醤油造りを一から学んでいきました。翌年、小児科で医師をつとめる真由美さんと結婚。家庭を持ったことでより仕事に打ち込みました。

しかし2年後の2003年、父が倒れてしまいました。康夫さんは急遽5代目として後を継ぐこととなりました。

ヤマロク醤油の経営は想像以上に悪化していました。毎年赤字が続いており、このままでは倒産するのも時間の問題でした。

康夫さんは考えた末、ある思い切った手段にでました。安売りの醤油をやめ、全て無添加のものにしたのです。さらに、大半を占めていた業務用の商品を縮小。個人向けとして145mlの小瓶の販売を開始しました。

小瓶に入れたのは再仕込醤油という手間はかかりますが、より角のとれたまろやかな味になる鶴醤(つるびしお)です。そして、父が丹波の黒豆で造りあげた菊醤(きくびしお)この2種類にかけたのです。小瓶なら手軽に試し買いをしてくれる可能性が高い、一人でも多くの人に味わってもらいたいという想いからでした。

個人消費者に向けた仕事は、梱包作業や輸送などこれまでの業者向けの仕事よりも何倍も手間がかかりましたが、康夫さんや社員たちは寝る間を惜しんで仕事に励みました。さらに、一度でもヤマロク醤油を買ってくれた顧客たちにダイレクトメールを送るなど地道な作業を続けました。

じわりじわりと増えてきてるんですよね。これはけっこう口コミだと思う。新規のお客さんで電話で注文がかかってくるもの「お土産でもらって美味しかったからお取り寄せできる?」ってかかってくるのが結構多い。

(ヤマロク醤油 5代目 山本康夫さん)

そして後を継いで5年、ついに赤字を脱することに成功しました。その後、父・健司さんの容態も回復。3人の子宝にも恵まれた康夫さんは幸せな家庭を築いていました。

消えゆく和食文化を守る ヤマロク醤油の新たな闘い

醤油造りの木桶は寿命が100~150年と言われています。そのため戦後以降、新しい桶を補充していないヤマロク醤油の木桶も息子の代以降まで持つかどうか分かりませんでした。

そこで康夫さんは改めて桶作りについて調べてみました。100年前には大阪の堺に47軒あった桶を造る会社が今や1軒に減っていました。しかも、最後に残った藤井製桶所も数年後に廃業してしまうことがすでに決定していました。

そこで康夫さんは藤井製桶所に弟子入り。木桶は3人でないと組み立てられないため、小豆島の知り合いの大工2人に協力をあおぎ共に木桶作りを学びました。桶作りには独特なノウハウが必要だったため修行は連日続きました。そして、一つの桶が完成。それは今を未来へと繋ぐ桶でした。

こうして技術を学んで小豆島に帰った康夫さんは自分たちだけで桶作りに取り組もうとしましたが、小豆島には長い真竹がありませんでした。ところが、竹炭造りが趣味というお年寄りに話を聞くと、彼の裏山にあるというのです。竹は康夫さんの祖父が康夫さんたち将来のために植えたものでした。祖父は竹を長くするために一生懸命間引いていたのです。

これは涙でそうになりました。父も祖父も「先々利用できるかもしれないなら残しておこう」という感覚ですよね。代々先々のことまで考えて手をうっているのでできるんですよね。

(ヤマロク醤油 5代目 山本康夫さん)

材料はそろいました。康夫さんは自宅で木桶造りを開始。その眼差しはハッキリと未来をみすえていました。さらに、噂を聞いた小豆島の他の醤油屋も交代で桶造りに参加。実は現在の醤油のほとんどが金属のタンクで造られている中、小豆島の醤油屋の多くは木桶を使って醤油を造っています。その伝統を絶やしたくないという共通の想いが人々を動かしたのです。

そして現在、父が残した桶の木材、そして祖父が残した竹で作った新しい桶が実際に使われています。100年後、150年後を見据えて。

新たな仲間と共に木桶に託す和食文化の未来

山本康夫さんは5年前から毎年木桶をつくっており、その数は14本となりました。そしてここ数年は全国の醤油蔵だけでなく味噌蔵、酒蔵の方たちも木桶つくりに参加。和食の原点である調味料の製法を絶やしたくないという想いが広がっているのです。これらの新しい木桶はまだ未使用のものもありますが、子の代、さらに孫の代で使用できるように蔵において菌がつくようにしています。

これらの桶の底板には、それぞれ子供たちの名前と手形が記されているのだと言います。さらに、接地面にはそれぞれの未来に対するメッセージを書いているそうです。100年後、桶が使えなくなってバラされた時に初めてメッセージが出てくるのです。

「奇跡体験!アンビリバボー」

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