ミレー「種をまく人」|美の巨人たち

ジャン・フランソワ・ミレーの「種をまく人」は1850年、政府主催の展覧会サロンに出品され見事入選を果たしました。しかし、その入選は当時のパリの社会を二分する大論争を引き起こしました。

ジャン・フランソワ・ミレー「種をまく人」

農夫をめぐる大論争とは…

19世紀初頭のフランス画壇では、絵の題材は歴史上の出来事や上流階級の人達で、農民は絵の主役として相応しくないとされていました。ところが、ミレーは「種をまく人」で農民を題材にし、その姿を画面いっぱいに描きました。当然、大問題となりました。

上流階級の人々は「種をまく人」を見て恐れおののきました。しかし、労働者階級の人々からは称賛の声で迎え入れられたのです。

労働者階級が台頭した2月革命。フランス社会での民衆の力の高まりが「種をまく人」をその象徴のようにまつり上げたのです。しかし、ミレーにはそんな意図は全くありませんでした。

13年間の極貧時代

ミレー

ミレーが画家を夢見てパリへ出てきたのは、1837年の22歳の時。それから13年間、鳴かず飛ばず貧しい時代を過ごしました。生活のために描いた作品で「ミレーは女の裸しか描かない」と評判は惨憺たるものでした。

そんな時、パリでコレラ騒動が起きました。幼い子供がいたミレー一家はパリ近郊の村に一時避難することを決めました。実はこれがミレーの人生を大きく変えることになりました。

バルビゾンで農民画家誕生

ミレー一家が移り住んだのはバルビゾン。ミレーは美しい景色の中で働く勤勉な農民の姿を見て、この地に永住することを決めました。それまでのパリの悲惨な生活に憔悴しきっていたミレーにとって、バルビゾンの景色は静謐ながらも刺激にとんだものでした。

結局、農民画が私の気質に合っている。私の知る最高の喜びは静寂であり沈黙である。それは肥沃であるなしに関わらず農耕地においてこそ経験できるのだ。

(ジャン・フランソワ・ミレー)

その想いを最初に表したのが「種をまく人」でした。まさに、画家の運命を変えた作品だったのです。

しかし、不思議なことがあります。「種をまく人」にはほとんど同じ構図、大きさで描かれたもう一枚が存在するのです。

二枚ある世界的名画

ミレーの親友で、作品の販売を手伝っていたアルフレッド・サンスィエが残したミレーの伝記にはこう書かれています。

一枚目の「種をまく人」を描いたミレーは双子を産むかの様にもう一枚「種をまく人」を描きそれをサロンに出品した。

つまり、二枚目がサロン出品作です。では山梨版ボストン版、どちらが二枚目なのでしょうか?

X線写真からミレーは最初にボストン版を描き、それを元に2枚目の山梨版を描いたとされています。しかし、そもそもなぜミレーは2枚も描いたのでしょうか?

最初にボストン版を描いたミレーは、そのできに満足いかなかったようです。理由はあまりにも古典絵画のようにかっちりと描きすぎたから。ミレーはすぐさま山梨版に取り掛かり、粗くぼかしたように描きました。あえて絵のタッチを粗くかえることで、ミレーはダイナミックで躍動感溢れる農夫の姿を表そうとしたのです。

農地が斜面の理由

「種をまく人」の舞台はノルマンディー地方です。農地が少ないので斜面を開墾して畑にしています。バルビゾンから遥か離れたノルマンディー地方をミレーはなぜ描いたのでしょうか?

実は、ノルマンディー地方グリュシーがミレーの故郷です。農家の長男として生まれたミレーは野良仕事を手伝いながら、その合間に農作業の様子を描いていました。グリュシーでは鳥に種を取られないよう夕方に蒔きました。「種をまく人」にも夕暮れ時、巣に帰る鳥たちが描かれています。

「種をまく人」に描かれた風景は、ミレーの脳裏に焼きついた子供の頃の記憶。労働者階級を賛美するものでも象徴するものでもなかったのです。

「美の巨人たち」
ミレーの「種をまく人」

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