クロード・モネ作「散歩 日傘をさす女」は縦100cm、横81cmの油彩画です。
初夏のさわやかな草原に、白いドレスの女性が日傘をさして佇んでいます。後ろにはちょっと退屈そうな帽子をかぶった男の子。雲は天空を急ぐように流れていきます。女性のドレスがはためき草がざわめきます。モデルは妻カミーユと息子ジャンです。
モネの変容とはどのようなものでしょうか?カギとなるのは「戸外の人物習作(右向きの日傘の女)」と「戸外の人物習作(左向きの日傘の女)」の2枚です。
永遠と一瞬
クロード・モネは1859年、19歳の時に画家を目指して故郷のルアーブルからパリにやってきました。しかし、肝心の絵は全く評価されず貧しい日々が続きました。
そんなモネを支えたのが7歳年下の恋人カミーユ・ドンシュー。カミーユはフランスのいわゆるプチブルジョワの家庭で育ちました。人生を楽しみ、素敵な恰好をするエレガントで気立ての良い女性でした。
カミーユは幸運の女神でした。彼女をモデルにした作品で、モネはサロンで入選を果たしたのです。
結婚した2人にジャンという男の子が誕生。モネの眼差しは愛する妻と息子に向けられていきました。しかし、貧しい暮らしは変わりませんでした。アパートの家賃を滞納したモネは、パリからアルジャントゥイユへ移り住みました。貧しくも穏やかな暮らしの中でモネは制作に励んでいきました。
そして1874年、後に印象派の象徴となる歴史的傑作「印象、日の出」を発表しました。
ところが、当時の批評家たちの評判は散々なものでした。
「描きかけの壁紙だってこの海の絵に比べたらまだマシである」
表現しようとするものを全く理解されなかったのです。「散歩 日傘をさす女」が誕生したのはその翌年のことでした。
モネの喜びと悲しみ
1876年、モネは「散歩 日傘をさす女」を第2回印象派展に出品しました。この頃、モネにはエルネスト・オシュデという百貨店の経営者がパトロンにつき、ようやく明るい兆しが見えてきました。
ところが、突然カミーユが病に侵されてしまったのです。肺結核だともがんだったとも言われています。そして次男ミシェルを出産後、容体が悪化してしまいました。
不運と困窮の日々
モネはパトロンのオシュデ一家に身を寄せていました。ところが、オシュデが破産し失踪。病身のカミーユと2人の子供。さらに、オシュデの妻アリスと彼らの6人の子供たちの生活を背負うことになったモネは、困窮し途方に暮れてしまいました。
そして1879年、カミーユが32歳で他界。モネは悲しみの中で絵筆をとりました。変わり果てた妻の顔を描いたのです。
終の住処 ジヴェルニー
ジヴェルニーは、モネの終の棲家となった地です。カミーユを失ったモネの生活を支えたのはオシュデの妻アリスでした。モネは、2人の我が子とアリスと彼女の子供6人を加えた共同生活をジヴェルニーではじめました。
アリスはカミーユの臨終の際にもモネのそばにいました。モネにとってアリスは癒しの存在だったのです。
ジヴェルニーで起きたこと
カミーユを失って7年目の1886年、モネは家族とピクニックに出かけました。すると、突然カミーユの面影が現れました。アリスの三女シュザンヌの姿が亡き妻と重なり、天啓のように閃きました。
新しい試みに取り組んでいます。私が納得するままに風景画のように戸外の人物を描くことです。
(クロード・モネ)
それこそが、「戸外の人物習作(右向きの日傘の女)」と「戸外の人物習作(左向きの日傘の女)」の2枚です。もはや人物を描いているのではありません。日傘の女をモチーフにした風景画の習作なのです。
ところが、左向きの女性の足元の草むらに他とは違うタッチで描かれているところがあります。よく見てみるとキャンバスに破けた傷跡があります。一説には絵のできに満足しなかったモネが癇癪を起して破ったとも伝えられています。
顔を描かなかった理由
モネが描いた人物の大半を占めていたのが妻のカミーユでした。カミーユはモネのモデルをつとめることが一番の喜びだったと言います。
だから2枚の習作には顔を描かなかったのです。もうカミーユはいない、これは面影という名の風景画なのだと。その深い悲しみの果てに自らの進むべき道を決めたのです。キャンバスに残された傷跡はモネの覚悟の表れなのかもしれません。
その後のモネは…
2枚の習作を描き終えたモネは、人物を描かなくなりました。同じテーマを天候や時刻によって描きわける連作という形で、刻々とうつろう光と大気を探求していきました。
やがて「睡蓮」へ。水に生える世界だけに魅せられていったのです。
「美の巨人たち」
モネの「散歩 日傘をさす女」
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