ヨハネス・フェルメールは、オランダ・デルフトのわずか1km四方の世界で生涯を過ごした画家です。彼がこの世に残した作品は三十数点です。
ヨハネス・フェルメール「ワイングラス」
フェルメールの「ワイングラス」は、縦67.7cm、横79.6cmの油彩画です。目線を外した女は白い頭巾をかぶり、鮮やかな真紅のドレスを纏っています。黒いつば広帽の男はマントのようなものを巻き付けて羽織り、じっと女を見ています。
部屋の左側にはステンドグラスの窓。深い赤と黒の市松模様の床は、流行のデザインです。青い背の椅子には楽器が置かれています。画面の中心には男が手を添えたワインのデカンタ。
光の魔術師
フェルメールは光の魔術師です。画面の左側からいつも柔らかな光が射し込んでいます。そして、その部屋で起きた日常の一コマを数々の小道具を操り、寓意と暗喩を散りばめワケアリの一場面として描いてみせたのです。
「ワイングラス」には、どんなワケアリが潜んでいるのでしょう?
オランダ 黄金の日々
フェルメールが生きた17世紀のオランダは、黄金の時代です。開運貿易で大いに栄え、スペインからの独立も勝ち取り市民主導の共和制国家として繁栄を謳歌していました。
平穏で安定した暮らしを手にしたオランダの庶民たちは、風景画や風俗画など身近な題材の絵を室内に飾ることを好みました。
さりげない日常を描くために
フェルメールは、庶民の日常を描くために欠かせないアイテムを持っていました。真珠、手紙、地図、楽器。フェルメールはこれらのアイテムを駆使して構図を練り上げ、寓意を込めて描いたのです。
「ワイングラス」謎めいた小道具の数々
青い椅子にはリュートという楽器が置かれています。花柄の鮮やかテーブルクロスの上にかろうじて乗っているのは楽譜でしょうか。壁には風景画のようなものがかかっています。画面の中央には男が持つデルフト焼の白いデカンタ。
ステンドグラスに描かれているのは手綱を取る女性の像。これは節制の寓意です。つまり、きちんとした生活ということ。椅子に置かれたリュートや楽譜など音楽に関係するアイテムは、恋愛を暗示していると言われています。
ワインを勧める男がいて、飲み干した女がいる。フェルメールがこの絵でそっとしのばせた暗喩は、誘惑と自制ということかもしれません。
フェルメールが書いた二枚
実は「ワイングラス」と同じモチーフの絵があります。「2人の紳士と女」です。
ワインを勧める男を避けるようにして、女はこちらを向いて微笑んでいます。背後にはもう一人、頬杖をつく男が。誘う男に誘われる女、そして断られた男という意味でしょうか?3人の間には微妙な空気が漂っています。
なぜフェルメールは二枚描いたのか?
ワインをめぐる恋の駆け引きという主題は同じでも、この二枚には目立たないところに決定的な違いがあります。それは床です。
歪んだ「床」
「2人の紳士と女」の床は図法的に完璧に描かれていますが、「ワイングラス」に描かれた床は何となく歪んでいます。
この床にこそフェルメールの天才的な意図が込められているのかもしれません。
フェルメールの作品は、壁の線がわずかに傾いているものが多いと言います。
カメラ・オブスクラとは、カメラの原型と言われる装置。レンズに暗箱がついていて、ガラスの板に画像が結ばれる構造になっています。当時の画家はこのガラスに薄い紙などを置いてなぞり、見たままの遠近感をつかんで絵を描きました。
ただし、カメラ・オブスクラの画像は左右が反転したり垂直の線が傾いたりして、実際に使うとなるとやっかいなことも多いと言います。
「ワイングラス」の床の歪みは、カメラ・オブスクラと関係があると青木さんは考えました。
恐るべき天才的狙い
例え床が歪んでいようともフェルメールはそのまま描きました。それこそが天才なのです。
なぜならこの絵は、男と女の恋模様でありその先を暗示しているからなのです。二人の抱いた不安と恍惚には歪んだ床がふさわしいのだと。
「美の巨人たち」
フェルメール「ワイングラス」
光の魔術師が仕掛けた恋のからくり
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