ルーブル美術館を救った男 ジャック・ジョジャール|ドキュランドへようこそ!

1938年のドイツによるオーストリア併合によって、ヨーロッパでは新たな戦争の恐れが高まっていました。イギリス国王のジョージ6世は、フランスの連携を印象付けるためパリを訪問。フランスのルブラン大統領と共に平和は維持されているかのように振る舞いました。

ルーブル美術館で国王一行を出迎えたのが、フランス国立美術館総局の副局長ジャック・ジョジャールでした。彼は一人不安を抱いていました。平和がもう続かないと見抜き、壮大な規模の避難計画を準備していました。このジャック・ジョジャールこそ、今日のルーブルを彩る傑作の数々をナチスから救った偉大なる無名の人です。

ジャック・ジョジャールにとって芸術とは、過去の文明における美を体現したもの。つまり、人類が生んだ宝であり、また制作した人間の才能の証でした。時代を超えた数々の傑作は人類共通の遺産でもあります。それらを失うことは自分たちの魂を失うことだとジャック・ジョジャールは考えていました。

彼はドイツが準備を進める戦争が総力戦になると見越して、美術品の略奪や爆撃による損失を何よりも恐れていました。それを防ぐには作品を美術館から避難させるしかなかったのです。その作業はとても大がかりになるうえ、運搬によって美術品が損傷する危険もありました。

1938年9月、ミュンヘン協定が結ばれると戦争は一旦回避されたかに見えました。しかし、ルーブル美術館は行動を起こす準備を整えていきました。約100人の職員が美術品の避難訓練を繰り返していたのです。それはジャック・ジョジャールと絵画部長のルネ・ユイグが練り上げた綿密なプランに基づくものでした。やがて、独ソ不可侵条約が調印されると悲劇への秒読みが始まったと悟りました。

美術品の避難開始

1939年8月25日、ジャック・ジョジャールはルーブル美術館を閉鎖。フランスがドイツに宣戦布告する9日前のことでした。

その夜、800点の絵画が額から外され、避難させる順番を示す印が裏側に貼られました。大部分の作品には黄色、重要なものには緑、そして最も貴重なものには赤。「モナ・リザ」には赤い印が3つ付けられました。

運搬時の衝撃を和らげるため仕切りをつけた木箱に傑作の数々がおさめられていきました。3日をかけ総勢200人が梱包した美術品は4000点以上。作業には美術学校の学生や百貨店の従業員まで駆り出されました。

連日連夜、彼らは大量の目録作りやトラックの手配に追われました。大作は劇場の舞台装置を運ぶ車に積み込まれました。ルーブルには蔵書や記録文書も多くあり、それだけで400もの木箱がいっぱいになりました。ギリシャやローマ、エジプトの彫刻、織物や家具なども入念に梱包されました。203台の車に積み込まれた木箱は全部で1862個。目指すのはパリから南へ160kmのシャンボール城でした。

1939年9月3日、「サモトラケのニケ」がルーブルを後にしました。イギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発した日のことです。最初の避難作戦は成功しました。

ドイツによる占領

1939年12月、44歳のジャック・ジョジャールはフランス国立美術館総局長に任命されました。半年後、フランス軍は降伏。ドイツ軍がパリへ入りましたが、美術品を避難させていたジャック・ジョジャールは自分たちの有利な状況を維持できると考えていました。

1940年6月23日、勝利に酔いしれながらヒトラーがパリを視察しました。侵略者への恐怖と軽蔑と屈辱感で俯く市民を前に、ドイツ兵はパリを「決して目を合わさぬ街」とあざ笑いました。

8月になりジャック・ジョジャールはフランスの芸術作品すべてを管理する権限を持つドイツの役人をむかえました。ジャック・ジョジャールの相手はフランツ・ヴォルフ・メッテルニヒ伯爵。占領したドイツ軍の高官であると同時に芸術の専門家でもありました。

ヒトラーは総統の称号を付けた美術館をオーストリアに作るという計画を練ってきました。この計画を実行するために、占領地から美術品を組織的に略奪する部隊が作られました。ヴォルフ・メッテルニヒも形の上ではその一員でした。

ジャック・ジョジャールはルーブル美術館の隅々までヴォルフ・メッテルニヒを案内しました。そこには「モナ・リザ」も「書記座像」もありません。ヴォルフ・メッテルニヒはほっとした様子を見せたと言います。ヴォルフ・メッテルニヒは、美術品が安全な場所に移されていることを知り安堵したのかもしれません。

そんな彼にジャック・ジョジャールは何も隠し立てしませんでした。作品とその保管場所の目録を手渡したのです。ヴォルフ・メッテルニヒは軍で異色の人物でした。ボン大学の教授をつとめ第一次世界大戦の兵役経験者ですがナチス党員ではなかったのです。

彼はドイツ軍の芸術作品保護局が定めた文書を厳格に適用しようとしました。

あらゆる危険から作品を守る、例え自分の味方であろうと脅威は排除すべし。

ヒトラーは、最終的な休戦調停が調印されるまでフランス国内で国家および個人が所有する美術品の移動を禁じていました。

しかし、ナチス党員である駐仏大使オットー・アーベッツは突然すべての美術品の没収を命じました。その時、ルーブルはすでにもぬけの殻。激怒したアーベッツは即時回収を要求しました。しかし、ヴォルフ・メッテルニヒはヒトラーの命令文を持ち出して「休戦になるまで美術品の移動は禁じられている」と大使に説明しました。ドイツが戦争を続けているうちは美術品を一切動かせないというのです。

ヴォルフ・メッテルニヒに救われたジャック・ジョジャールは、芸術を愛するこの人物が実は自分たちの味方なのではないかと感じました。

ジャック・ジョジャールの経歴もまた異色でした。独学でジャーナリストになった後、政治家の私設秘書を経て1926年に国立美術館総局に入りました。1938年、スペイン内戦が激化する中、彼はマドリードの美術館にあった作品を中立国スイスへ避難させました。

分散作戦

ルーブルの作品をいったんシャンボール城に移したジャック・ジョジャールは、これらをさらに分散させました。彼は片田舎にある城をいくつか手配しました。いずれも爆撃を受けている一帯からは遠く離れた場所でした。分散は危険な作戦でした。

当時フランスは北部がすでに占領され、南部はドイツに協力的なペタン元帥ひきいるビシー政権が統治していました。このビシー政権がジャック・ジョジャールにとって新たな悩みの種でした。ジャック・ジョジャールは再び輸送隊を組織して、占領地域に残されていた美術品を南部へ移送しました。

パリではドイツ政府の命令によってルーブル美術館が再開されました。そこには避難させることができなかった作品だけが休暇中のドイツ兵たちに向けて展示されました。「ミロのヴィーナス」は複製品でしたが、ドイツ軍対策としては十分でした。

再開初日、ジャック・ジョジャールは素知らぬ顔でドイツの役人を案内しました。ここぞとばかりヴォルフ・メッテルニヒは「どの傑作も人類にとって偉大な価値がある」と訴えました。

略奪が始まる

1940年10月、ペタン元帥はドイツに全面協力する姿勢を打ち出しました。早速、個人が所有する美術品に危機が迫りました。駐仏大使アーベッツが、個人から申告された財産のリストを手に再び没収を試みたのです。有力な画商を標的に組織的な略奪が始まりました。

まず狙われたのは、ユダヤ人の権利や財産でした。何から何まで容赦なく没収されました。美術品没収の実務を任されたのはERR(帝国指導者ローゼンベルク特務機関)です。ジュ・ド・ポーム美術館は略奪品の保管場所になりました。それをジャック・ジョジャールは黙って認めるしかありませんでした。

ジュ・ド・ポーム美術館では、元々学芸員助手だったローズ・ヴァランという女性が頼りでした。彼女は雑務要員としてうまく美術館に残り、密かにスパイとして活動したのです。ドイツ語を理解できたヴァランはジャック・ジョジャールの指令でジュ・ド・ポーム美術館で美術品の流れを記録しました。知識もあったのでドイツへ送られた作品のタイトルも特定できました。

ヘルマン・ゲーリングがやってきたことも見逃しませんでした。体重125キロある巨漢で危険な男でした。ヒトラーの側近でドイツ空軍総司令官のゲーリングはナチス党員に、生まれ変わったルネサンスの貴族を自称していました。

ヘルマン・ゲーリング

彼は大の美術好きで巨匠の作品や宝石、珍しい動物を収集していました。ゲーリングはジュ・ド・ポーム美術館を訪れマティス、レンブラント、フェルメールなどの作品を入手。その場でERRを自分の管轄下におこうと決意しました。

ヒトラーはゲーリングよりもさらに強欲でした。彼が目を付けたのは民間人が所有する美術品でした。フランス政府が所有する作品についてはジャック・ジョジャールが管理し、国際法で守られていたからです。

ドイツの宣伝大臣ゲッベルスにいたっては、敵と裏取引をしているとヴォルフ・メッテルニヒを非難し、フランスにある作品を即刻ドイツへ移送するよう求めました。これに対しメッテルニヒは「戦時下に移送するのは破損の恐れを伴う無謀な措置である」と反論しました。彼にとっては作品の保護が最優先でした。

ローズ・ヴァランが監視する中、ERRは膨大な美術品をかき集めていきました。中でも多く奪われたのがナチスによって退廃芸術とみなされた近代絵画でした。それらは高値で売れるため別室に隔離されました。ヴァランはそこを「殉教者の部屋」と名付けました。

さらに、ERRは取り返しのつかない暴挙にもでました。ジュ・ド・ポーム美術館のテラスで絵画を次々と切り裂き焼き払ったのです。ピカソやミロ、ダリらが描いた600枚のキャンバスが火にくべられました。

1942年の冬、ロク・デュ修道院に避難させていた絵画が湿気で傷み始めていたためジャック・ジョジャールは自ら新たな保管場所を見つけて輸送隊を手配しました。輸送ルートでは大型の作品が通れるよう、あらかじめプラタナスの枝を払い、電線を迂回させました。引っ越し先はアングル美術館です。

1942年11月、ドイツ軍はフランス南部の自由地域に侵攻。アングル美術館のあるモントーバンはたちまち戦場と化しましたが、ここでもジャック・ジョジャールは先手を打っていました。ヴォルフメッテルニヒの同意を得て、すべての絵画を別の城に移していたのです。

ジャック・ジョジャールにとって大きな悩みの種は親ドイツのビシー政権でした。ジャック・ジョジャールの身分はドイツに協力している政権の高官で、彼が率いる国立美術館総局は国民教育省に報告する責任をおっていました。ジャック・ジョジャールはドイツへの協力姿勢を強める政権幹部の配下にあったのです。

1942年4月、ビシー政権教育大臣にアベル・ボナールが就任。ボナールは学術団体アカデミーフランセーズの会員で、ナチスドイツに心を寄せていました。そんな親ドイツ派のボナールが教育大臣としてペタン元帥に推薦されたのです。

アベル・ボナール

ボナールの部下となったジャック・ジョジャールはさらに頭を使って行動することになりました。彼は締め付けを回避するために、時には上司を欺くこともありました。

1942年8月2日、ペタン元帥の許可のもと、ドイツ軍は「ゲントの祭壇画」を押収しました。もともとベルギーの国宝でフランスに預けられていた作品でした。国家元首が略奪を許したことに対してジャック・ジョジャールは政府に抗議の書面を送りました。

ペタンはこれを生意気な態度とみなし、ボナールはジャック・ジョジャールの解雇を求めました。しかし、彼を支持する職員たちまでもがそろって辞職しかねなかったため厳重注意だけにとどめました。ヴォルフ・メッテルニヒもこの暴挙に激怒し、調査委員会の設置を求めました。しかし、反対にドイツ本国の怒りを買い解任されてしまいました。協力者でもあり盟友でもある貴重な存在が失われたのです。

ヴォルフ・メッテルニヒの解任後、略奪や不正な取引の企てが一段と組織的に行われるようになりました。美術品の強制的な接収を禁じる国際規定も破られました。ドイツの外務大臣は「ディアナの水浴」を持ち去り、ゲーリングは「聖マグダラのマリア像」を没収。こうした略奪を報告しようとするジャック・ジョジャールをボナールは脅しました。

戦場では徐々にドイツ軍が追い詰められていきました。この頃、アレクサンドル・パロディがジャック・ジョジャールに秘密裏に接触しました。フランスのレジスタンス組織「全国抵抗評議会」を率いてきた人物です。レジスタンスにとって文化遺産のありかを把握することは重要な課題でした。万が一に備え、まずは密使を通じてやり取りが行われることになりました。

ジャック・ジョジャールと会うのはパロディの秘書でモーツァルトと名乗る人物でした。このモーツァルトが金髪のスラリとした美女で、しかも有名人であることをジャック・ジョジャールは知りませんでした。モーツァルトの普段の顔はオデオン座の女優ジャンヌ・ボワテルでした。ボワテルの美しさはたちまちジャック・ジョジャールを虜にしました。

パリでは人々がレジスタンスの象徴であるロレーヌ十字をあちこちに記しました。レジスタンスへの参加を呼びかけようと、地下鉄の切符を勝利を意味するVの形にちぎってバラまきました。ボワテルと出会う前からジャック・ジョジャールはレジスタンスに加わっていたようです。彼がNAP(行政機関組織工作隊)に入っていたことは間違いありません。NAPは反体制派の公務員を密かに組織し、政府内部の密告者としてレジスタンスに参加させていました。

そんなジャック・ジョジャールとボワテルはルーブルで対面しました。モラルに厳しく慎み深いタイプのジャック・ジョジャールには妻がいましたが、ボワテルと恋に落ちました。ジャック・ジョジャールは二重生活を送ることになりました。

ジャック・ジョジャールは、1942年からは連合軍とも密かに連絡を取り合っていました。ラジオ放送を通じ、保管所の移動や戦闘地域の位置など情報を交わしていたのです。おかげで連合軍は、ノルマンディーに上陸する前から美術品の保管場所を攻撃目標と区別することができました。保管所の地面に大きく「ルーブル」の文字が書かれ、アメリカ軍も上空からでもわかりやすかったと証言しています。地上戦はさらに激しくなり多くの保管所が飛び交う放火に脅かされていきました。

戦いの終結

1944年8月24日、ルクレール将軍率いる自由フランス軍の部隊がパリに入りました。ルーブル美術館の屋根にはフランス国旗が掲げられました。8月25日、ド・ゴール将軍がパリの解放を宣言しました。長く厳しい戦いがついに終結しました。

ナチスによる略奪を密かに監視していたローズ・ヴァランは、書き留めていたメモを連合軍に提供。ヴァランが克明に記録していたので数多くの美術品をその後取り戻すことができました。

「聖マグダラのマリア像」はゲーリングの家から発見、「ゲントの祭壇画」は岩塩の採掘場で見つかりました。ユダヤ人から奪い取られた美術品が列車に乗せられ戻ってきました。公のコレクションがそれぞれの美術館へ戻るのには4年の歳月がかかりました。

ジャック・ジョジャールはレジスタンス勲章を受章し、芸術文化局長に任命されました。彼とボワテルとの関係は徐々に公然の秘密となり妻とは離婚しました。ジャック・ジョジャールとボワテルが正式に夫婦となったのは息子の誕生から12年後のことでした。

ジャック・ジョジャールを助けたヴォルフ・メッテルニヒには、戦後ド・ゴール将軍からレジオンドヌール勲章が贈られました。ジャック・ジョジャールの要望によって実現しました。後に二人は再会し美術品を守り抜いたかつての盟友をたたえあいました。

1959年、ジャック・ジョジャールは新しく誕生した文化省の事務局長に任命されました。文化省の大臣は作家のアンドレ・マルロー。かつて、カンボジアの寺院で美術品を盗み執行猶予の判決を受けたことのある人物です。

アンドレ・マルロー

国の至宝を守ったジャック・ジョジャールが元窃盗犯の大臣につかえるという皮肉な関係でした。

ジャック・ジョジャールは、予算から日常業務まで文化省の事業すべてを慎重に計画しました。しかし、マルローから1966年突如解任されました。

71歳の彼がある朝出勤すると、そこには後任者がいたのです。マルローは組織を活性化したいと言いました。さらにジャック・ジョジャールには栄誉ある肩書を与えると約束。ジャック・ジョジャールはその知らせを待ち続けましたが連絡はついにありませんでした。

1967年6月22日、ジャック・ジョジャールは亡くなりました。彼は心に大きな傷をおっていたことでしょう。マルローはルーブルの扉の一つにジャック・ジョジャールの名をつけ彼の功績を称えました。

制作:Ladybirds Films(フランス 2014年)

「ドキュランドへようこそ!」
ルーブル美術館を救った男

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