ルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」 名画がたどった140年|日曜美術館

「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」

ルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」が描かれたのは1880年。モデルは実在の少女。パリに暮らす裕福な銀行家の令嬢イレーヌ。当時8歳でした。

 

「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」が描かれた1880年、ルノワールは39歳。創作の大きな転機にありました。「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場」を発表したのは4年前。集った人々を木漏れ日と共に描いた印象派を代表する作品です。しかし、印象派展で評判をとったものの、この頃作品はあまり売れませんでした。労働者階級の出身で経済的に苦しいルノワールにとって切実なことでした。

 

起死回生を狙って、ルノワールは当時美術界の権威だったサロンに復帰しました。復帰したサロンで「シャルパンティエ夫人と子どもたち」が評判を呼びました。パトロンだった出版界の大物シャルパンティエの家族の肖像です。社交界の花形だった夫人と子どもたちを暖かい色彩で描きました。その評判を知ったイレーヌの両親が娘の肖像をルノワールに依頼しました。

 

当時、パリはベル・エポックという華やかな時代が始まる頃。モンソー公園界隈は、中でも高級住宅地。フランスの富豪や金融で富を築いたユダヤ人が暮らしていました。イレーヌは19歳の時、同じユダヤ人で銀行家のカモンド伯爵と最初の結婚をしました。その暮らしぶりは貴族のようにゴージャスなものでした。壁には隙間がないほど絵が飾られていました。

 

カモンド伯爵は美術や工芸に造詣が深く、彫刻、陶器、絨毯、タピスリーなど最高級の調度品を収集していました。いとこのイサクは印象派の優れたコレクターでした。モネやドガを支援したパトロンだったのです。(ニッシム・ド・カモンド美術館 学芸員シルヴィー・ルグラン=ロッシさん)

 

こうした豊かな階層にパトロンになってもらいたいとルノワールは勝負をかけてイレーヌを描きました。ふっくらとした手やドレスは、印象派の特徴である筆跡を残した表現。栗色の髪は細かく筆を重ねています。一方で顔は陶器のようになめらか。古典的な描き方を取り入れて、白い肌、青い瞳を丁寧に表しています。ルノワールは自信を持って肖像画をサロンに出品。評判は上々でした。

 

このブロンドの少女ほどかわいらしい作品を思い描くことはできない

かつてイギリスの画家たちが描いた肖像画のようだ

 

しかし、イレーヌの両親はこの絵を気に入りませんでした。中世の王侯貴族のような姿が、カール・ダンヴェール家が求めた肖像画だったからです。カーン・ダンヴェール家でイレーヌの肖像は人目に触れる場所には飾られなかったと言います。

 

イレーヌに続いて描かれた妹たち「アリスとエリザベス・カーン・ダンヴェール」は、2人でポーズをとっています。実はルノワールは3人それぞれの肖像画を描くつもりでした。しかし、両親がイレーヌの絵を気に入らなかったため、妹たちは2人まとめてしか描かせてもらえず期待したほどの報酬も支払われませんでした。

 

あの家族は本当にしみったれだ。僕は金輪際手を組まない。

(ピエール=オーギュスト・ルノワール)

ルノワールは憤慨しました。

 

奪い去られたイレーヌの肖像画

描かれて60年後、イレーヌの肖像はヨーロッパを揺るがす激動に巻き込まれていきました。1939年、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻。第二次世界大戦がはじまりました。1940年4月にはデンマーク、ノルウェーにも侵攻。5月以降、オランダ、ベルギー、フランスへ攻め込みました。ナチス・ドイツに対しフランスは早々に降伏。パリは占領下におかれました。

 

ヒトラーには2つの野望がありました。1つはユダヤ人の絶滅。もう1つは美術館の建設でした。青年時代に画家を志しながら挫折したヒトラーは、権力をにぎりドイツ帝国を象徴する美術館を夢見たのです。そのための美術品がヨーロッパ中で略奪されました。占領下で奪われた美術品は数十万点。

 

その最大の被害を受けたのがフランスでした。パリでは裕福なユダヤ人を標的にした強奪が繰り返されました。ユダヤ人が所有する美術品は所有者なしとされ、問答無用で奪い去られたのです。略奪された美術品はジュ・ド・ポーム美術館に集められました。ここを繰り返し訪れていたのがナチスのナンバー2、ゲーリングです。ゲーリングは印象派を愛好し、気に入った絵を持ち去っていきました。

 

イレーヌの肖像もゲーリングの目に留まりました。奪い去られ、行方が分からなくなりました。イレーヌは2度結婚し3人の子をもうけていました。当時、肖像画を所有していたのは長女のベアトリスでした。ベアトリスは同じユダヤ人と結婚し、親子4人パリで暮らしていました。絵を奪われた後、一家は強制収容所に送られました。ベアトリス夫妻と幼いイレーヌの孫たちが戻ることはありませんでした。

 

1944年6月、アメリカを中心とする連合軍は西ヨーロッパの解放を目指しました。この時、兵士の中に美術品奪還を任務とする部隊がありました。メンバーは美術史家や学芸員、彫刻家など。彼らを中心に奪われた美術品が各地で奪還されていきました。

 

イレーヌの肖像は終戦後にベルリンで発見されました。今なお数万点が行方不明と言われる略奪美術品。幸運にも「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」はパリに戻りました。そして戦争を生き延びたイレーヌのもとに返還されました。

 

晩年、イレーヌは南フランスの移住。1963年、91歳で生涯を閉じました。失った家族について触れることは決してなかったと言います。肖像画も人に譲ってしまいました。

 

安住の地ビュールレ・コレクション

「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」はスイスのビュールレ・コレクションにやってきました。ここは、かつて実業家エミール・ゲオルク・ビュールレの邸宅でした。主の楽しみのために集められたプライベートコレクション。イレーヌから肖像画を買ったのも彼でした。

 

ビュールレは作品を実際に自分の目で見ないと買わない主義でした。狙った獲物を必ずしとめるアグレッシブなハンターのように芸術作品を追い求め、もう一方では非常に鋭い感受性があったからこそ優れた作品を見極めコレクションを築くことができた。そういう人物でした。

(ビュールレ・コレクション財団ルーカス・グルーア館長)

 

ビュールレはドイツに生まれ、10代の頃から美術に関心を抱いて育ちました。やがてスイスに移り機械の製造で成功をおさめました。きっかけは兵器でした。世界的ベストセラーになったエリコン20ミリ砲。これで事業は成長。1940年代、ナチス・ドイツへの納入業者になりました。兵器で得た莫大な富を戦後ビュールレは惜しみなく美術品に注ぎました。ビュールレの死後、コレクションは美術館として公開されました。

 

ビュールレが印象派に惹かれるきっかけになったのがモネ。鮮やかな色彩に心を奪われたと言います。セザンヌもビュールレが愛した画家でした。その中でも「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」はビュールレにとって特別な一枚でした。

 

ビュールレがイレーヌのたどった生涯について知っていたのか記録は残っていません。わかっているのはイレーヌの肖像画を娘の部屋に飾り、毎日のように見つめていたということだけです。

(ビュールレ・コレクション財団ルーカス・グルーア館長)

 

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イレーヌ ルノワールの名画がたどった140年



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