はるかなる琉球王国~南の島の失われた記憶~|歴史秘話ヒストリア

NHK総合テレビの「歴史秘話ヒストリア」ではるかなる琉球王国~南の島の失われた記憶~が放送されました。日本列島の南に位置する沖縄の島々。かつてここに琉球王国と呼ばれる独立国がありました。海を通じ日本や中国を始めアジアの国々とつながっていた琉球は独自の文化を育んだ海洋国家でした。やがて訪れた激動の時代。相次いでやってくる外国船を相手に武器を持たない琉球は外交交渉で立ち向かいました。

 

琉球王国 生き残り大作戦

13世紀に作られたと言われる今帰仁城(なきじんグスク)は沖縄本島北部を治めた豪族の居城でした。石垣を持った巨大なグスクは豪族たちの拠点として築かれたもの。沖縄では各地の豪族たちが覇権を争う戦乱の時代が長く続いていました。しかし、15世紀それらを統一する勢力「琉球王国」が現れました。その拠点が置かれたのが首里城。琉球国王は中国皇帝の承認を背景に国内の豪族たちをうまく治めていました。かつての中国はアジアの超大国。国王として中国に認められるためには皇帝に貢物を持っていく必要がありました。皇帝から臣下として認められると使者が送られ、その国の国王として承認される仕組みでした。国王として承認を受ける儀式の時には中国から500人近くの使節が訪れ半年近く滞在。使節をもてなす中で踊りなどの芸能も育まれました。中国と琉球は昔から人の交流も盛んでした。琉球が中国に持ち込んだのは日本の刀や東南アジアの香辛料など。アジア各地の産物を手に入れ、それを中国へと運んでいました。中国では陶磁器などを買いつけ、それを各地に運んで売りさばきました。15世紀~16世紀、琉球は中国とアジア各地を結ぶ貿易の中継地として繁栄したのです。

 

1609年、琉球のあり方を大きく変える事件が起こりました。薩摩の島津家の軍勢が攻め込んできたのです。わずか10日ほどで主な島々は占領されてしまいました。日本の支配を受けることになった琉球王国にさらなる難問がふりかかりました。中国から当分の間、使節のやり取りを停止すると宣言されたのです。日本の属国となったならば、中国皇帝と琉球が君臣関係を維持することは出来ないと考えられたからです。琉球は中国に対し「琉球はあくまでも独立国家であり、日本の一部になったわけではない」とアピール。そのため、公文書を日本語ではなく漢文で書くように。また古代中国の聖人・孔子をまつる祭礼も国を挙げて催すように。琉球の中国化とも言える変化が生まれていったのです。そして日本の存在を隠すことにも注意を払いました。中国人がやってきた時は日本の船を別の港へ、日本人には人目につかない所に隠れてもらいました。日本との関わりは一切表に見せないよう徹底されたのです。日本の侵攻から24年、新しく即位した琉球国王は無事、中国皇帝の承認を得ることに成功。努力の結果、中国の態度は和らぎ以前同様、貿易を行えるようになりました。一方、日本に対しても琉球は積極的に働きかけました。琉球国王や徳川将軍の代替わりのたびに挨拶の使節を送ったのです。中国との関係と日本との関係、琉球は絶妙なバランスの中で生き残る道を見出していきました。

 

したたか外交で危機を乗り越えろ

日本が幕末を迎えていた頃、琉球の海には次々と異国船が姿を現すようになっていました。こうした異国船を追い返すためのマニュアルが残っています。そこには「琉球は金銀銅鉄なにも採れない貧しい国で貨幣すら使っていため、何かを売ることも買うこともできない」「責任あるものを出せと言われたら総理官など普段は存在しない官職を答えなさい」と書かれています。フランスの船が交易を求めてやってきた時のこと、琉球側はマニュアル通りに臨時の大臣をたて通訳が対応しました。交渉が長引くにつれフランス船の食料は不足。お金を払うので食べ物だけでも売って欲しいというフランス人に「わが国には貨幣という物がないのでお金は結構です。必要な物は差し上げましょう」と言って、頼まれたよりもずっと少ない食べ物を用意しました。やがてフランス船は琉球を立ち去っていきました。丁寧に応対しながらも兵糧攻めという琉球の高等戦術でした。しかし1853年、従来のやり方では対応できない事態が訪れました。ペリー率いるアメリカ艦隊が現れたのです。これまでの異国船とは異なり大勢の兵士を乗せた軍艦でした。交渉に当たったのは通訳をつとめる板良敷朝忠(いたらしきちょうちゅう)琉球の高官としか会わないというペリーに対し板良敷は大臣の通訳として面会に成功。ところが、「首里城を表敬訪問したい」とペリーは言い出したのです。板良敷は必死に時間稼ぎを試みましたが、ペリーは事前に琉球の外交術を徹底的に研究していました。そして6月6日、ペリーは首里城に向けて行進を開始。訪問に反対する強硬派が首里城の扉を閉めていましたが、いざとなったら武力行使も辞さないというペリー。このままでは戦になってしまうと板良敷は門を開け、ペリーたちを門の中に通しました。板良敷はペリー一行を何とか誘導し国王のいる正殿ではなく、隣の北殿へ入らせました。そして板良敷は「総理官の邸宅」と言って城の外にある屋敷に連れ出しました。結局、ペリーの首里城訪問はわずか1時間で終了したのです。レセプションでは酒や特製の料理がふるまわれ、和やかな雰囲気の宴会となりました。乾杯が続き、すっかりお酒もまわったころ板良敷はアメリカの初代大統領ワシントンの人柄や人生についてペリーに話しかけました。予想もしなかった話にペリーは驚き感動。友好的な雰囲気の中、ペリーは満足気に琉球を後にしたのです。琉球をたったペリーは、その後日本に向かいました。翌年、日本を開国させることに成功。その後、アメリカ優位の条約が締結されました。日本が開国したのを待って琉球もアメリカと条約を結びました。

 

琉球を守れ!若者たちの奮闘

ペリー来航から14年、日本は明治維新を経て近代化への道を走り出していました。欧米列強の進出を警戒する明治政府にとって重要な課題だったのが国境の画定。その中で琉球王国の併合も検討されるように。1875年、明治政府から松田道之が派遣されてきました。首里城を訪れた松田は琉球の首脳を前に明治政府の要求を伝えました。それは日本と中国、両国の間で生きてきたこれまでのあり方を改め、事実上日本への編入を迫るものでした。松田は国王に直接会って交渉したいと言いましたが琉球側は拒否。全く妥協しようとしない明治政府に対し、琉球側は清国に助けを求めることにしました。そして清国政府は日本へ正式に抗議。しかし、これ以上琉球を放置していては問題がさらに大きくなりかねないと明治政府は実力行使に踏み切りました。1879年、松田は600人の警官や兵士を引き連れて首里城に入城。沖縄県の設置を宣言しました。ほどなくして国王も東京に移されました。こうして500年続いた琉球王国は滅亡したのです。しかし、その後も日本から来た役人への協力を拒否し抵抗を続ける者が絶えませんでした。日本の一部となった琉球には本土の商人が大挙として押し寄せ、沖縄県設置から10年で2000人を数えたとも言います。やがて日本語教育が徹底され本土との同化が進められていきました。琉球王国は記憶の彼方へと追いやられていったのです。

 

太平洋戦争で地上戦の舞台となり4人に1人が亡くなった沖縄。琉球王国の象徴である首里城も灰じんに帰しました。太平洋戦争終結後、沖縄はアメリカの統治下に置かれました。1972年に本土に復帰すると、沖縄の人々は首里城の復元を強く要望しました。かつての姿そのままに復元された王宮は、アジアの中に生きた琉球王国の栄光を今に伝えるシンボルとなっています。