真田幸村vs.伊達政宗 ~めぐりあい大坂夏の陣~|歴史秘話ヒストリア

私には守るべきものがある ~伊達政宗の生き残り人生~

戦国時代後半、伊達政宗(だてまさむね)は東北の名門・伊達家の跡取りとして生まれました。5歳の時に天然痘にかかり右目を失明。自分の容姿に劣等感を持ち、心を閉ざしてしまいました。

 

伊達政宗

 

心を開くきっかけは、中国の李克用(りこくよう)について学んだことではないかと専門家は推測しています。

 

李克用は唐の時代に活躍した武将で、唐王朝を滅亡の危機から救おうと戦いました。真っ黒な鎧に身を包んだ李克用の軍勢は連戦連勝。その強さで中国全土に名をはせました。李克用は片方の目が不自由で、人々は畏敬の念をこめて「独眼竜(どくがんりゅう)」と呼びました。

 

伊達政宗は家臣・片倉小十郎可景綱に右目を刀で取り去るよう命じました。こうして独眼竜・伊達政宗は誕生しました。

 

18歳で家督を継いだ伊達政宗は、周囲の大名を次々に攻略し勢力を拡大しました。伊達の軍勢がまとったのは真っ黒な甲冑李克用の黒い軍団にちなんだものだと言われています。

 

天正17年(1589年)伊達政宗は、最大のライバルである会津の蘆名氏を滅ぼし114万石を束ねる有力大名になりました。しかし、伊達政宗の前に大きな壁が立ちはだかりました。すでに天下統一を目前とした豊臣秀吉です。

 

全国の大名を従わせようとする豊臣秀吉は伊達政宗に激怒。そして豊臣秀吉から「小田原の北条氏攻めに参加せよ」と命令が下されました。これは豊臣秀吉から伊達政宗への最後通告でした。

 

伊達政宗は悩んでいる間に小田原への出発が遅れ、ようやく到着した頃には戦いはほとんど終わっていました。

 

伊達政宗は豊臣秀吉と対面するにあたり切腹の時の白装束で現れました。「自分は豊臣秀吉に命を預けます」という決意を身なりで示したのです。この一世一代のパフォーマンスは豊臣秀吉の心を掴みました。伊達政宗はギリギリのところで自分や家臣の命、伊達の家を守ることができたのです。

 

やがて豊臣秀吉が亡くなると、伊達政宗は新たに天下の実権を握った徳川家康に従うように。この頃から伊達政宗は勢力拡大ではなく自分の領地・仙台を豊かにすることに力を注ぐようになりました。

 

これからは軍事力より経済力だと考えた伊達政宗は、大規模な水田開発を計画。その第一歩として北上川の改修工事にとりかかりました。それまで北上川はたびたび氾濫を起こし、流域には荒地が広がっていました。伊達政宗は7kmに及ぶ巨大な堤防を築き、北上川の流れを制御。やがて仙台藩は日本有数の米どころに成長していきました。

 

私には燃やすべき命がある ~真田幸村 不遇を越えて~

真田幸村

 

真田幸村の不遇の始まりは、慶長5年(1600年)関ケ原の戦いでした。国内で10年ぶりの大戦は、それまでほとんど実践を経験していない34歳の真田幸村をも巻き込みました。二手に分かれて西へ向かう徳川軍を真田幸村は父・昌幸とともに上田城で待ち受けました。

 

徳川の軍3万8000に対し、真田軍は3000でした。そこで真田軍は少数の兵で少し戦っては引き、巧みに敵をおびき寄せました。上田城まで引き寄せたところで一気に反撃。さらに、混乱する徳川軍を隠れていた部隊で強襲するなど大損害を与えました。この戦いで真田親子は「徳川の天敵」として名を上げました。

 

ところが、関ヶ原の戦いでは真田家が味方した西軍が敗北。徳川家康は江戸に幕府を開き、徳川の時代が幕を開けました。真田親子は家康に憎まれ九度山に幽閉され、家族ともども厳しい暮らしにおいやられました。家臣やその家族を含め数十人を養うため、真田親子は親戚から九度山の人々にまで援助を求めなければなりませんでした。

 

10年を越える幽閉生活は次第に真田幸村を追い詰めていきました。11年目には父・真田昌幸が死去。

 

ところが幽閉14年目、真田幸村の運命を開く知らせがもたらされました。それは「豊臣が徳川と戦う武将を募っている」というもの。豊臣家は難攻不落の大坂城を擁し、いまだ徳川に対抗しうる唯一の存在でした。再び戦国武将としてたつ千歳一隅のチャンスに真田幸村は豊臣方につくことを決意しました。

 

大坂城に入った真田幸村は、徳川軍を迎え撃つ準備にとりかかりました。大坂城の最南端に砦を築いたのです。通称・真田丸

 

慶長19年11月、徳川の大軍が豊臣を討とうと進軍してきました。大坂冬の陣の始まりです。20万の徳川方に対し、豊臣方は10万。真田幸村は真田丸で父譲りの戦上手ぶりを発揮しました。真田丸を守る兵は約5000、そこに3万とも言われる徳川の主力部隊が押し寄せました。

 

真田幸村は砦からわずかな兵を出して徳川方に鉄砲をうちかけ、これに徳川方が攻め寄せると兵を引き上げ砦から罵声を浴びせました。挑発に業を煮やした徳川軍が真田丸に攻め寄せてくると一斉に集中砲火を浴びせました。敵をおびきよせて叩くという真田家得意の戦法を使いました。

 

12月、徳川と豊臣の間で停戦が成立。真田幸村たちは大坂城を守り抜き、徳川に一矢報いることができました。長い冬の時代を経ても武将としての生き方を忘れなかった真田幸村は、48歳にして名誉を取り戻すことができたのです。

 

激突!赤と黒 ~めぐりあい大坂夏の陣~

大坂冬の陣の停戦の条件は、豊臣方を窮地に追い込むものでした。大坂城の堀が埋められ、真田丸も破壊されてしまったのです。裸同然の城では再び徳川が攻めてきたら命はありません。多くの武士たちが豊臣を見捨てて立ち去りました。

 

この頃、徳川家康は真田幸村に大坂城を離れて味方をするように誘いをかけていました。しかし、真田幸村はこれを断りました。徳川のもとで身の安泰をはかるより、武将として名誉を残す道を選んだのです。

 

冬の陣終結からわずか4ヶ月、全国の大名に幕府から再び出陣が命じられました。豊臣家を滅ぼすための大坂夏の陣です。

 

慶長20年5月6日、伊達政宗の軍勢は豊臣方と戦いを始めました。大量の鉄砲をそなえた伊達の部隊は、豊臣方の部隊を次々に打ち破りました。かつて東北を席巻した黒い軍団は久しぶりに解き放たれた戦場で実力をいかんなく発揮。そこに立ちふさがったのは真田幸村の部隊3000でした。

 

伊達政宗と真田幸村、共に戦国の世に遅れてきた二人の最初で最後の激突が始まりました。

 

伊達勢の先鋒は片倉小十郎(二代目)重綱の部隊。激しい攻撃で幸村勢に多くの死傷者が出ました。しかし、真田幸村は部隊を引きませんでした。銃弾の雨の中、兵にじっと身を伏せて待ち受けさせたのです。そして伊達勢が目前まで迫ったところで反撃。突然の攻撃に動揺する伊達軍に真田幸村は騎馬隊で攻め込みました。上田城や真田丸で大成果を上げた敵を引き込んで叩く真田家得意の戦法です。真田幸村は快進撃を続けてきた伊達政宗の軍勢を1km近く押し返し、徳川方の侵攻を食い止めることに成功しました。

 

思わぬ反撃に部隊を下げた伊達政宗ですが、すぐに態勢を立て直しました。真田幸村もいったん引いて味方の部隊と合流。再びの激突になると思われましたが、戦いは思わぬ形で終わりを告げました。豊臣方の部隊が各地で敗れたため、真田幸村たちも撤退して軍を立て直すことになったのです。

 

徳川方は追い打ちをかける絶好の機会でしたが、動きませんでした。追撃を止めさせたのは伊達政宗でした。伊達政宗は強敵と認めた真田幸村を後ろから攻めることを避けたのです。

 

この頃、伊達政宗軍の先鋒だった片倉小十郎重綱の陣地に真田幸村の娘・阿梅(おうめ)が送られてきました。伊達政宗なら最愛の娘の命を託すのにふさわしいと思ったのかもしれません。

 

伊達政宗との激戦の翌日、真田幸村は最後の決戦にのぞみ3000の軍を率いて徳川家康の本陣を目指し突撃しました。すさまじい戦いぶりで徳川家康の間近まで迫りましたが、大軍で押し寄せる徳川方を前に力尽きました。戦国武将としての命を燃やし尽くした最期でした。

 

この日の夕方、大坂城は陥落。戦国武将たちの時代は終わり、徳川の世は揺るぎないものとなりました。

 

その後、真田幸村が伊達政宗に託した娘・阿梅は無事に仙台藩まで送り届けられました。阿梅が移り住んだのは宮城県白石市。阿梅はやがて片倉小十郎重綱の妻にむかえられ、東北の地で徳川の世を生き抜きました。

 

大坂の陣の後、伊達政宗は領地である仙台藩を守ることに力を注ぎました。政宗が進めた新田開発や川の改修によって、仙台藩の米の生産量は飛躍的に伸びました。仙台の米は江戸に送られ、人々の暮らしを支えることに。

 

政宗は仙台を幕府にとって必要不可欠の存在にすることで、藩の未来を確かなものにしたのです。

 

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激突!真田幸村VS伊達政宗
~めぐりあい大坂夏の陣~

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