豊臣秀頼の素顔 戦国のプリンス、いざ天下取りへ!|歴史秘話ヒストリア

戦国末期、天下をおさめる豊臣家に生まれた豊臣秀頼(とよとみひでより)いわば名家のプリンスですが、その実像は多くの謎に包まれてきました。

 

豊臣秀頼

 

数少ない資料をもとに語られてきた豊臣秀頼といえば「ぱっとしない2代目」「自分では何もできないマザコン」など散々。

 

ところが、最近になって新資料が発見されたり新たな研究が進んだりした結果、全く別の姿が明らかになってきました。

 

マザコン?神童?豊臣家のプリンス誕生

文禄2年8月3日、時の天下人・豊臣秀吉と側室・淀殿の間に秀頼は誕生しました。秀吉は正室以外に16人もの側室をかかえていたと伝えられています。しかし、子が生まれても幼いうちに病死するなど世継ぎには恵まれませんでした。

 

秀頼につけられた幼名は拾(ひろい)少し変わった名ですが、当時拾った子は強く育つとの迷信が広く信じられており、そこからとりました。

 

ただ実際には拾ったわけではありません。そこで秀吉は拾ったという事実を作るために、わざわざ赤子を道端に置き改めて連れ帰ったと伝えられています。

 

さらに、産みの母に代わり乳母が育てるという慣習を破り、淀殿が直接育てるよう命じました。とにかく世継ぎとして無事に育てあげたい一心でした。

 

しかし、甥の豊臣秀次の存在が問題となっていきました。実は秀頼が生まれる2年前、世継ぎに恵まれなかった秀吉は秀次に豊臣家の家督を継いでいました。

 

豊臣秀次

 

可愛い我が子の誕生で状況は一変。秀吉は後継者問題を白紙に戻そうと、秀次に謀反の疑いをかけ追放し死においやりました。その後、秀次の妻子にいたるまでみな処刑。全ては秀頼に対する異常なまでの愛のなせるわざでした。

 

何不自由なく育てられた秀頼ですが、ただ甘やかされていたわけではありません。武芸はもとより当代一流の学者の教えを受け兵学や儒学など、あらゆる学問を徹底して叩き込まれたのです。秀頼の達筆ぶりは幼い頃から評判で、諸国の大名は直筆の書をこぞって欲しがったと言います。

 

慶長3年、秀頼が6歳の時、秀吉は病に。病状は急激に悪化。死期が近いことを悟った秀吉は遺言を残しました。まだ幼い秀頼の行く末を案じ徳川家康をはじめとする有力大名たちに後見役を託したのです。それから間もなくして秀吉は死去。秀頼は豊臣家当主として歴史の表舞台に立つことになりました。

 

秀吉が亡くなって1ヵ月後、秀頼はその存在感を世に示し始めました。まず行ったのが豊臣家の菩提寺である方広寺の改修です。目的はただ寺を直すことではありませんでした。寺を復興することで豊臣家が国の支配者だと改めて世に示す狙いがあったのです。

 

プリンス秀頼 天下取りへの静かなる戦い

秀吉の死後、世の中は再び戦への不穏な空気に包まれ始めました。原因は豊臣家臣団の分裂。主君・秀頼がまだ若いのをいいことに、天下取りに動く者が現れたのです。それが徳川家康でした。

 

徳川家康

 

そして慶長5年9月15日、関ヶ原の戦いが起こりました。全国の武将を二分し家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍がぶつかり合いました。

 

結果は家康の勝利。その後、家康は朝廷から征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開きました。

 

これで天下は家康のものになったかに見えますが、当時の人々は秀頼が天下人になると考えていました。家康の政権は一時的なものと思い、各地の大名は年賀の挨拶に秀頼のもとに参上しています。秀頼自身もいずれ天下は我が物と信じて疑いませんでした。

 

慶長9年、秀頼は秀吉の七回忌の祭礼を京の都で行いました。この七回忌は秀頼の存在感と豊臣家の衰えぬ力を世に示す機会となりました。

 

しかし、秀頼を支持し狂喜する民衆の様子を見た徳川家康は大きな脅威を感じました。そして、家康は全国の大名に江戸城の強化・拡張工事を指示。これには主従関係を改めて明らかにする意図がありました。

 

さらに、大坂を囲むように名古屋城や篠山城などの築城を指示。兵こそ動かさないものの戦への準備ともとれる行動でした。

 

一方、秀頼は表立った対立は避け家康が亡くなったあと政権を取り返そうとしました。ただ何もしなかったわけではありません。君主のありかたを説いた中国の本「帝鑑図説」を国内向けに編集し出版。この本を使い秀頼は力に頼らない形で世間に自らの存在感をアピール。本はたちまち大評判になり、全国の大名も君主論を学ぼうと愛読しました。

 

さらに、秀頼は各地の名だたる神社仏閣の改修や造営を行いました。国家の平安を願う大きな寺社の保護は、国を治める天下人の役割です。秀頼は全国規模で改修を行うことにより、信仰心のあつかった当時の人々に力を示したのです。

 

家康の意に反して存在感を増す秀頼に、家康はついに兵を動かしました。きっかけは天皇が位を譲り新たな天皇が即位する儀式でした。家康は警護の名目で5万もの兵を引き連れて都へ。軍事力をちらつかせ秀頼を呼び出しました。

 

これに秀頼の母・淀殿は大激怒。しかし、秀頼は30人ほどの護衛とともに都へ。

 

慶長16年3月28日、二条城で家康と秀頼は会いました。秀頼を呼び出すことに成功した家康は終始ご機嫌。趣味にしていたタカ狩りの鷹を贈るなどしました。

 

しかし、家康は豊臣家討伐の口実を探し始めました。そこで目をつけたのが方広寺で新調された鐘でした。問題は鐘に刻まれた「国家安康」の文字。平和が続くようにとの願いですが、家康は自らの名を分断し徳川家を呪うものだと言いがかりをつけました。

 

そして、国の乱れを鎮めるためと大坂出兵を命令。秀頼は否応なく豊臣家存亡をかけた戦へと挑むことになりました。

 

大坂の陣 知られざる秀頼の戦い

慶長19年11月19日、ついに両軍が衝突。秀頼は寄せ集めの兵の士気を高めようと奔走。広大な城の各所に陣取った兵のもとを馬で回り激励。さらに、戦果をあげたものには即座に褒美を与えました。秀頼の狙い通り、兵たちは数のうえでの不利を覆し善戦。一方の徳川方は、巨大な堀を前に攻めあぐね甚大な被害を出していました。

 

予想外の苦戦に家康は慌てました。そこで作戦を変更し、最新兵器による長距離攻撃を命じました。そのうちの一発が天守に命中し、女中たちに死傷者が出ました。この被害を目の当たりにした淀殿は停戦をとなえはじめました。秀頼は被害が軽微なうちに和睦に持ち込むのが得策と考え、母の訴えを聞き入れました。

 

慶長19年12月19日、和睦が成立。家康が条件としたのは城を守る堀の埋め立てでした。徳川兵は工事を急ぐため、城下町の家や家財道具も埋め立てに利用。戦いで大きな被害を受けた大坂の町と人々は和睦の後も傷つけられたのです。

 

これを目の当たりにした秀頼は徳川兵が去った後、すぐに堀の復旧を命令。さらに、柵を作るなど城の防御を強化し兵糧も集めました。

 

家康は「大坂城を明け渡せ」と言ってきました。これに対し秀頼は豊臣家当主として最後まで戦うことを宣言。

 

そして慶長20年5月5日、大坂夏の陣が始まりました。堀の復旧が間に合わなかった豊臣方は城を出ての戦いを強いられました。この時、豊臣方5万5000に対し徳川方は15万。勝負あったとみた家康は和睦の使者を送りました。

 

しかし、秀頼は和睦の受け入れを良しとせず潔いを選びました。秀頼は母と共に自害。天下を治めるプリンスと期待された男の無念の最期でした。

 

大坂の陣の後、大坂城は地中深く埋められました。江戸幕府はその上に新たな城を築き、豊臣家の記憶を民衆から消そうとしました。

 

江戸時代、大坂の陣は軍記物など多くの作品の題材として取り上げられました。しかし、それらの多くは幕府の視点で描かれました。しかし、当時の関西ではこんな歌が流行りはじめました。

 

花のよふなる秀頼さまを鬼のよふなる真田が連れて退きも退いたよ加護嶋へ

 

何と秀頼が戦火をくぐり抜け、落ちのびたというのです。

 

鹿児島市では秀頼のものと伝えられる墓が今も大切に守られています。地元にはここで子をもうけ幸せに暮らしたとの言い伝えも残ります。

 

ことの真偽は明らかではありませんが、当時の人々は幕府に隠れひそかに秀頼と豊臣家を慕い続けたのです。

 

「歴史秘話ヒストリア」
戦国のプリンス、いざ天下取りへ!
~大坂の陣400年 豊臣秀頼の素顔~

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