黒田官兵衛vs.石田三成 それぞれの戦国乱世|歴史秘話ヒストリア

豊臣秀吉の数ある家臣の中で、黒田官兵衛石田三成は目覚しく活躍したツートップでした。しかし、理想的と思えた2人と秀吉の関係は徐々に崩壊の道へ。

 

そして迎えた天下分け目の関ヶ原の戦いでは、お互い敵となって戦う黒田官兵衛と石田三成の姿がありました。

 

 

官兵衛VS三成 秀吉との出会い

天文15年(1546年)、黒田官兵衛は播磨国(兵庫県)の姫路の小さな領主の家に生まれました。少年の頃から書物に親しみ古今の兵法を学び、このことが後に黒田官兵衛を比類なき戦上手にしました。

 

黒田官兵衛のいた播磨国は、西の毛利と東の織田という巨大勢力に挟まれた地域。攻められればひとたまりもありません。そんな中、東の織田信長は西の毛利を討つべく播磨国に兵を進めてきました。黒田官兵衛のいる姫路を毛利攻めの拠点にしようと考えたからです。

 

この時、織田信長の軍勢を率いていたのが羽柴秀吉でした。秀吉は41歳、官兵衛は32歳でした。

 

豊臣秀吉

 

黒田官兵衛は、生き残りをかけて自らを秀吉に売り込むべく動き始めました。まずは、周囲の領主たちをまわり、秀吉に従うよう説得。すぐに十数名の領主を秀吉の味方に引き入れてみせました。さらに、自分が住む姫路城の本丸を秀吉にプレゼント。毛利を攻める際の基地として使って欲しいと申し出たのです。

 

瞬く間に毛利攻めのお膳立てをした黒田官兵衛の手腕に秀吉は感激。強い信頼を勝ち得、地方の一領主から秀吉の軍師となった黒田官兵衛は、数々の戦を共にする中で、その信頼を揺るぎないものにしていきました。

 

石田三成

 

永禄3年(1560年)、石田三成は北近江(滋賀県長浜市)に生まれました。下級武士の次男で家を継ぐことも出来なかった石田三成は寺に預けられ、そこで幼少期を過ごしました。身をたてるには学問をおさめるしかないと、日々懸命に勉学に励みました。

 

そんなある日、羽柴秀吉が鷹狩りの途中ふらりと寺に立ち寄りました。この時、秀吉38歳、三成はまだ15歳の少年でした。

 

秀吉はお茶を所望。三成は大きな茶碗にぬるめのお茶をなみなみと入れ差し出しました。その後も秀吉は2回おかわり。三成は2杯目には少し熱めのお茶を半分ほど。3杯目は小さな茶碗に熱々のお茶を少々いれました。

 

ぬるめをたっぷりの1杯目は、鷹狩りで喉が渇いている秀吉への配慮。2杯目はまだ喉を潤したいとみて少し熱いお茶を半分。3杯目はじっくり味わってもらおうと熱々のお茶を少なめに。飲む人の気持ちを察して毎回違ったお茶を出したのです。

 

すっかり感心した秀吉は、石田三成を世話係として召し抱えることにしました。

 

黒田官兵衛は秀吉と出会った後、軍師としての仕事を任されるように。奇抜な戦術を次々に考え出し、秀吉軍をしばしば勝利に導きました。

 

例えば佐用城攻めの場合、城を攻撃するとき周りを完全に取り囲んでしまえば敵は逃げ道を失い最後まで必死に抵抗します。そこで、城を包囲するさい一方をわざとあけておくと逃げ道があると逃げたくなるのが人情。敵はあいた方へと一目散に。最小限の犠牲で城を落とすことに成功しました。

 

備中高松城攻めの時は、城を囲むように堤を築き水を流しこむ水攻め。城の周りは水浸しになり、もはや戦どころではなくなります。敵の戦意を喪失させ戦わずして勝利しました。さらに、黒田官兵衛が得意としたのが戦を和睦へと導く交渉術です。

 

特にこれが発揮されたのが小田原城攻め。敵とのにらみ合いが続く中、黒田官兵衛は刀も持たずに敵陣に乗り込みました。大胆不敵な行動に敵もびっくり。その心意気に感心したのか黒田官兵衛の説得に応じ、敵は降伏しました。人並み外れた知恵と行動力で、秀吉は戦の時は常に黒田官兵衛を頼りにするようになりました。

 

一方、秀吉の世話係となった石田三成はその後とんとん拍子に出世。秀吉と家臣の間を取り次ぐ重要な役目をまかされるようになり、才能を発揮しました。

 

ある時、石田三成は秀吉から「褒美として500石与えよう」と言われました。しかし、石田三成はこれを辞退。その代わり、近くの川沿いにたくさん生えている葦が欲しいと申し出ました。秀吉は不思議に思いながらも許可。

 

すると、石田三成はそれまで人々が勝手に刈り取っていた葦に税を課し、その税収で500石どころが1万石並みの軍備を用意してみせました。秀吉はいたく感心し、石田三成はこれを機にさらに出世したと言われています。

 

石田三成の知恵は、戦場においても存分に発揮されました。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで秀吉軍は50キロ離れた味方の救援に向かうため山道を急行しなければならなくなりました。しかし、すでに夕方だったため辺りは真っ暗で兵を進めることが出来ませんでした。

 

すると、石田三成は先回りして沿道の住民に松明をかかげさせました。さらに炊いた米を用意。秀吉軍は松明の火を頼りに食事をとりつつ山道を一気に駆け抜けました。いち早く味方のもとに駆けつけた秀吉軍は見事敵を撃退。石田三成の機転がもたらした勝利でした。

 

以後、石田三成は戦場での戦いよりも武器や食糧の調達を一手に任されるように。最前線で作戦を練った黒田官兵衛と、戦いを補給の面で支えた石田三成。2人は車の両輪となって秀吉の天下取りをおし進めていきました。

 

官兵衛VS三成 天下取りへの道

秀吉といえば太閤検地や刀狩など。これら14政策の実行責任者が石田三成でした。従来の検地は基準がバラバラで自己申告でした。それを新たに全国共通の基準に統一。おかげで各地の生産高や大名の総収入が正確に把握できるようになりました。

 

検地を行ったうえで石田三成は各大名の土地を少しずつ切り取り、それを秀吉の領地としました。ここからの年貢は直接秀吉のもとに。全国から秀吉のもとに集まった年貢は220万石。石田三成は秀吉の財政基盤の確立に大きく貢献しました。

 

そして、刀狩では石田三成は自らの名前で厳しい取り立ての手紙を送りました。その高圧的な物言いに大名たちの反感は石田三成へ。秀吉に批判の矛先が向かぬよう、石田三成はすすんで泥をかぶったのです。秀吉にとって石田三成は、決して手放すことのできない大切な存在になっていました。

 

天正14年(1586年)、秀吉はいまだに従わない大名が数多くいる九州へ軍を進めました。その司令官として黒田官兵衛を派遣。九州に上陸した黒田官兵衛は宇留津城を瞬時に攻め落とし、圧倒的な兵力を見せつけました。

 

このまま一気に敵を片付けるかと思いきや、パタリと進撃を停止。そして敵方の武将たちに手紙を送り付けました。

 

秀吉様に逆らえばどうなるかわかったであろう。今味方すれば秀吉様もお許しになり領地も保証される。

 

この黒田官兵衛の言葉に領地を守りたい武将たちは飛びつき、翌年秀吉が出陣したさい武将たちは雪崩を打って降伏しました。秀吉軍は戦わずして勝利をおさめたのです。秀吉は黒田官兵衛を褒めちぎりました。

 

しかし、秀吉は黒田官兵衛を評価しつつも内心ではその切れ者ぶりに恐れをなし始めていました。

 

きっかけは主君・織田信長が打たれた本能寺の変です。主君である信長の死の知らせに動揺する秀吉でしたが、黒田官兵衛は冷静に状況を分析し平然と行動。秀吉は黒田官兵衛を「恐ろしい男じゃ」と思い、以来決して彼に心を許さなくなったと言われています。また、黒田官兵衛は秀吉が嫌うキリスト教を信仰していたことも彼を遠ざける理由になりました。

 

秀吉は、九州攻めの報酬として黒田官兵衛に豊前中津12万石を与えました。これは後に石田三成に与えた近江佐和山19万石より少なく、差をつけられた形となりました。

 

秀吉にとってなくてはならない存在となった石田三成と距離をおかれ始めた黒田官兵衛。2人の運命はやがて思わぬ方向に向かっていきます。

 

官兵衛VS三成 決別!そして…

天下を統一した秀吉でしたが、まだ戦をやめるつもりはありませんでした。朝鮮、中国を手中におさめようとしたのです。

 

秀吉は朝鮮出兵への足がかりとして名護屋城の設計を黒田官兵衛に任せ、石田三成は武器や兵士を現地に送る役目を担いました。2人は朝鮮での戦いに大きな役割を果たしたのです。

 

天正20年(1592年)、黒田官兵衛と石田三成が見送る中、総勢16万の大軍が海を越え朝鮮半島に渡っていきました。秀吉軍は初戦を勝ち進み、明の国境近くまで攻め上りました。相次ぐ勝利の知らせに気をよくした秀吉は天皇を北京に移し、自分は南の寧波に移ってインドの地を狙おうとさらなる野望を燃やしました。

 

出兵から2ヵ月後、次の作戦の指揮をとるため黒田官兵衛は前線に派遣されました。石田三成もまた秀吉の代理人として武将たちを監督するため海を渡りました。しかし、朝鮮の地に2人が赴いた時、戦況は大きく変わっていました。朝鮮水軍の反撃や民衆の武装蜂起で秀吉軍は苦戦を強いられていたのです。

 

冬がやってきて、備えが十分でない秀吉軍は寒さと飢えに苦しめられました。ここで撤退すれば秀吉の命にそむくことになりますが、黒田官兵衛は現地の大名たちの苦境を慮りました。

 

黒田官兵衛は日本に戻り、大名たちが撤退したことを秀吉に伝えようとしましたが、命令違反に秀吉は激怒。怒りの矛先は黒田官兵衛に向かい、俸禄と屋敷の没収という厳しい処分が下されました。

 

この時、黒田官兵衛は髷を落とし第一線からの引退を決意。名前も「水のごとし」という意味の如水と改めました。

 

一方、石田三成は戦争終結のため奔走。黒田官兵衛が帰国したのと同じ年に明の使者と共に帰国。和平交渉の場をもうけました。

 

しかし、秀吉が明に対してつきつけた要求は「明の皇帝の娘を天皇に嫁がせよ」「朝鮮の王子と大臣を人質に送れ」など想像を超える無理難題でした。それに対する明の回答は「なんじを日本国王と認める。その代わり朝鮮から兵を退くべし」というものでした。

 

要求を無視された秀吉は、烈火のごとく怒り戦いの再開を命じました。秀吉の暴走を止めることは出来ませんでした。交渉決裂の翌年、慶長の役が始まり大名たちはまたもや苦戦を強いられました。

 

蔚山城の戦いでは、5万7000もの明・朝鮮連合軍に包囲され絶体絶命の窮地に陥りました。この時、他の場所で戦っていた大名たちが一斉に救援にかけつけ明・朝鮮連合軍を退却させることができました。

 

ところが、秀吉は大名たちが逃げた敵を追わなかったことに憤り、領地没収などの厳しい処分を下しました。何とも理不尽な秀吉の決定。しかし、それに従い粛々と処分を行ったのは奉行である石田三成でした。思いもよらぬ処分に唖然とする大名たち。彼らの憎しみは自然と石田三成に向かいました

 

慶長3年(1598年)に豊臣秀吉は死去。その死をもって慶長の役は終わりました。石田三成は、秀吉の遺言に従い、息子である秀頼を次の天下の主として守ろうとしました。

 

ところが、天下人の座を狙う徳川家康が石田三成と対立。慶長5年(1600年)、関ヶ原で家康率いる東軍と三成の西軍が激突しました。

 

徳川家康

 

実は、この戦いの直前、石田三成は黒田官兵衛に応援を求めていました。しかし、黒田官兵衛は石田三成の誘いに態度をハッキリさせることはありませんでした。

 

領地没収などの理不尽な処分で石田三成への恨みを募らせていた大名たちは、こぞって東軍に加わりました。戦いは一進一退を繰り返しました。この時、石田三成の陣に果敢に突撃してくる軍勢がいました。それは黒田官兵衛の息子・黒田長政の部隊です。黒田家は石田三成を敵として戦うことを選んでいたのです。次第に劣勢となる西軍。わずか6時間で勝敗は決しました。

 

石田三成は背後の山を抜けて落ち延びようとしましたが、追っ手に捕らえられ処刑されました。41年の生涯でした。

 

黒田官兵衛はその4年後の慶長9年(1604年)に亡くなりました。何も望まず穏やかに過ごした晩年だったと伝えられています。

 

関ヶ原で勝利した徳川家康は江戸幕府を開き、長く続いた戦乱の世は終わりを迎えました。黒田官兵衛と石田三成が共に駆け抜けた乱世は幕を閉じ、新しい時代が始まったのです。

 

関ヶ原合戦に敗北した石田三成は大坂城に送られました。大名たちが登城する道に三成は謀反人としてさらされました。顔見知りの大名たちがそしらぬ顔でと通り過ぎる中、黒田官兵衛の息子・黒田長政が声をかけてきました。

 

黒田長政は石田三成の無念に同情し、いたわりの言葉をかけました。その言葉に長年ともに秀吉を支えていた黒田官兵衛の影を見たのでしょうか。三成は思わず涙したと伝えられています。

 

黒田官兵衛が晩年を過ごした福岡で毎年行われる博多祇園山笠に官兵衛と三成の繋がりをうかがわせるものがあります。祭りを彩る飾り山笠の一つ「太閤博多の町割」です。煌びやかな博多の町の中心にいるのは豊臣秀吉。そして博多の商人たちに混じって黒田官兵衛と石田三成の姿があります。

 

戦国時代、博多の町は相次ぐ戦乱で荒れ果てていましたが、その復興を秀吉に命じられたのが黒田官兵衛と石田三成だったのです。太閤町割と呼ばれた一大復興プロジェクトで、黒田官兵衛は町の区画を定め商人たちを呼び寄せました。石田三成は道路の整備や埋め立てなどを進めました。2人がタッグを組むことで博多の町は荒廃から蘇り輝きを取り戻したのです。

 

共に秀吉に見出され天下に名をはせた黒田官兵衛と石田三成。互いのかたい信念のために、はからずも刃を交えることとなった2人の生き方。その裏には2人にしか分からない男の絆があったのかもしれません。

 

「歴史秘話ヒストリア」
君よ、さらば!
~官兵衛VS三成 それぞれの戦国乱世~

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