西郷どんのイロハ 維新の英雄・3つの愛|歴史秘話ヒストリア

カリスマ誕生!名所で巡る3人の漢愛

西郷隆盛(さいごうたかもり)は、1827年(文政10年)薩摩藩士の家の長男に生まれました。藩の武士としては下から2番目。出世など到底望めませんでした。

 

西郷隆盛はとびきり強い正義感の持ち主。大久保利通など近所の弟分の面倒を一手に引き受けていました。彼らがケンカに巻き込まれたりすると、身をていしてかばい大怪我までおってしまうほどでした。

 

18歳の時、西郷隆盛は地方の役人に任じられ、領民が暮らしやすくなるよう頑張っていました。民を苦しめる不正を見つけようものなら、例え同僚でも激怒。徹底的に追及し藩主にも直訴する激しさでした。周囲から粗暴でやっかいなトラブルメーカーと嫌煙されていました。

 

そんな真っ直ぐすぎる西郷隆盛に注目したのが、藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)でした。斉彬は西郷隆盛を一気に自分の側近へ大抜擢。しかし、意外な言葉を浴びせました。斉彬が説いたのは身の回りの悪事にばかりとらわれず、日本全体を見渡す視野を持てということでした。類まれな上司を得たことで西郷隆盛は急速に成長していきました。

 

当時、黒船来航によって徳川幕府の権威が失墜。世は混乱していました。斉彬はこれをおさめようと有力な大名の連合を呼びかけていました。西郷隆盛は忠実な部下として東奔西走。島津家出身の篤姫が徳川将軍家に輿入れする時も婚礼道具をそろえるなど重要な任務を果たしました。ところが、予想もしなかった悲劇が西郷隆盛を襲いました。

 

1858年、島津斉彬が急病で亡くなったのです。失意の西郷隆盛が思いついたのは切腹すること。主君を失ったとたん生き甲斐を失ってしまったのです。しかし、このとき京都の清水寺の僧侶・月照(げっしょう)の言葉が彼を救いました。亡き主君のために今は生きなければならない、西郷隆盛はさらに大きく成長しました。しかし、また悲劇が。

 

月照は政治活動をしていたため幕府に追われる身になってしまったのです。西郷隆盛はかくまおうと共に鹿児島へ逃亡しました。ところが、薩摩藩は2人を助けてくれませんでした。逆にお尋ね者の月照を始末するよう西郷隆盛に命じました。勤めと友情の板挟みになった西郷隆盛。下した決断は一緒に死ぬというものでした。西郷隆盛は真冬の海に月照と共に身を投げました。ところが、西郷隆盛だけ生き残ってしまったのです。西郷隆盛は激しく自分を責め再び失意のどん底に。

 

そんな彼を救ったのは大久保利通でした。西郷隆盛は薩摩の藩政に復帰するも、以前にも増して態度はかたくなになっていました。歯に衣着せぬ物言いで島津久光まで怒らせ、命さえ危うい立場に。当時の藩の中枢にいた大久保は西郷隆盛を案じ、このまま命を落とすなら自分も命運を共にすると言い放ちました。このことは西郷隆盛に生きることを決意させました。

 

間もなく西郷隆盛の処罰が決まり、沖永良部島に島流しにされました。過酷な環境で容貌も一変した西郷隆盛。考えに考え抜いて一回り大きい境地に達しました。

 

人生の浮き沈みは月が出たり隠れたりするようにあてにならないものである。されど、例え運が開けずとも誠の意思さえ持ち続ければよいのだ。

(「獄中感有り」より)

そして1864年、38歳の時に薩摩藩に呼び戻されました。

 

女の美は「心」 西郷どんのロマンスLOVE

西郷隆盛の最初の結婚は26歳の時でした。相手は格上の藩士の娘・須賀(すが)親同士が決めたものでした。その頃は仕事で精一杯。すれ違いの夫婦生活はわずか2年で終わりました。

 

2度目の結婚は33歳の時。奄美大島に訪れた時、地元の愛加那(あいかな)という女性と結ばれました。しかし、2年程で離れ離れに。そうこうするうち、政治の舞台が京都に移りました。多くの志士が夜な夜な祇園などに遊びに繰り出す中、西郷隆盛はうなぎに夢中。お茶屋さんに行っても、することはうなぎに舌鼓。そんな西郷隆盛にもロマンスがあったと証言するのが勝海舟です。

 

豚のごとく肥えていたから豚姫。茶屋の仲居だ。この仲居がひどく西郷にほれて西郷もまたこの仲居を愛していた。

(「氷川清話」より)

豚姫とはどのような女性だったのでしょうか?

 

一人目の候補の名前はお末(おすえ)で、そのころは20歳前後。よく志士たちの宴会の給仕をしていて西郷隆盛と顔を合わせることも多かったと思われます。後に赤前垂れという仲居のリーダー役にまでなったと言います。

 

もう一人の有力候補は奈良富というお店の仲居をしていたお虎です。お虎はたとえ仕事が忙しくても喜んで遊びの相手をしてくれる気立ての良い女性でした。しかも、かなりの酒豪だったらしくお酒もいくらでも付き合えたそうです。お虎はもともと大坂で働いていました。それもあってかサービス満点。相撲好きな西郷隆盛に相撲甚句をうたったり、流行り踊りを披露したりしました。

 

京都で西郷隆盛は薩長連合や王政復古のクーデターなど幕末の日本を大きく動かしました。1868年、新政府軍の司令官として西郷隆盛は江戸へ出発しました。その西郷隆盛を今の滋賀県大津まで追いかけてきたのがお虎です。お虎は言いました。

 

手切れ金に30両(現在の約20万円)ほど欲しいわ。(「勤王藝者」より)

別れを惜しむと思いきや、お金の無心?西郷隆盛にはせめて明るく出陣して欲しいという、お虎の気遣いだったのかもしれません。

 

西郷隆盛の3度目の結婚相手は糸。糸は西郷隆盛の5人の子供を育てあげました。その中には愛加那の2人の子供もいました。その一人が西郷菊次郎。後に京都市長に就任し、びわ湖疎水や上下水道の整備、道路拡張などを推進しました。

 

ワンちゃん大好き西郷 最後のメッセージ

西郷隆盛といえば犬です。愛犬ツンが生まれたとされるのが薩摩川内市。市内にはツンを西郷に譲ったという武士の子孫の方が今もいます。ツンの犬種は薩摩犬。西郷隆盛は薩摩犬をとても気に入っていました。主に大変忠実だったからです。ピンと立った三角耳が特徴の薩摩犬は狩猟好きな西郷隆盛のまたとない相棒でした。

 

西郷隆盛は生涯に20頭あまりの犬を手元に置いたと言います。種類も薩摩犬だけでなく様々。自分が行くところならどこでも犬たちを連れていきました。京都ではお茶屋さんの座敷でも犬と一緒だったと言います。

 

徳川幕府が倒れると、犬には別の大事な役目もありました。新政府での激務に西郷隆盛はストレス太り。体も壊してしまいました。明治天皇も心配していると聞いた西郷隆盛は、犬たちと走り回って体調を整えようとしたそうです。

 

1873年、西郷隆盛は政治の一線を退き鹿児島へ帰郷。狩りや畑仕事をしながらのんびり愛犬ライフを送るはずでした。ところが、1877年に西南戦争が始まりました。事件を起こした青年たちを西郷隆盛は見捨てることができませんでした。

 

西郷隆盛たちは東京へ向かいますが、熊本の政府軍との間で戦闘が始まりました。そして西郷隆盛も反乱の首謀者とみなされました。陸軍大将などの官位を全て剥奪するという政府の決定を知らせるため使者がやってきました。厳しい処分を伝えにきた使者に西郷隆盛は穏やかに接しました。そして使者を犬を連れたウサギ狩りに誘いました。狩りから戻ると獲物のウサギを使者にふるまい終始なごやかにもてなしました。

 

しかし、戦いは激しくなる一方でした。やがて、撤退を始めた西郷隆盛たち。ずっとそばから離さなかった犬を自由にしました。愛犬との別れから1か月後、西郷隆盛は自刃しました。

 

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