人民寺院の集団自殺 教祖ジム・ジョーンズの栄光と転落|世紀の瞬間&日本の未解決事件

テレビ朝日の「世紀の瞬間&日本の未解決事件スペシャル」で人民寺院の集団自殺について放送されました。1978年11月18日、ある宗教団体の集団自殺が起こりました。ジャングルを切り開き作られた教団施設には約1000人の信者がいて自給自足の生活を送っていました。当初、新聞にはそのうちの300人が死んだと報じられましたが、実際には914人もの遺体が発見されました。死者914人のうち18歳以下が267人。その中には幼い子供や赤ん坊までもが含まれていました。罪なき人々を地獄へといざなったのは「人民寺院」教祖のジム・ジョーンズです。FBIが押収したテープには信者に自殺を促す教祖ジム・ジョーンズの肉声が記録されていました。使用されたのはシアン化物。主に工業用金属の精錬やメッキ製造時に用いられる劇薬です。青酸カリを含み、ごく少量で死に至ります。赤ん坊には注射、大多数は自ら服毒し914人が絶命したのです。教祖ジム・ジョーンズも自らこめかみを撃って自殺しました。これ以来、アメリカでは社会的に危険とみなされる宗教団体を「カルト」と呼ぶようになりました。現在、世界に約4000団体が存在すると言われるカルト教団。人民寺院はその始まりでした。

 

1931年、アメリカ・インディアナ州でジム・ジョーンズは生まれました。父は筋金入りの人種差別主義者で、白人至上主義をとなえるクー・クラックス・クランのメンバーでした。通称KKKと呼ばれるこの集団は白人は、どの人種にも勝るという強い人種差別意識で結ばれた秘密結社です。その父はジム・ジョーンズが幼い頃に家庭を捨てました。母は父と全く逆に黒人など貧しい人を支援するボランティア活動家。母の願いは息子が立派な宗教家になることだったと言います。しかし、ジム・ジョーンズは幼い頃から少し変わっていました。異常に動物が好きで野良猫や野良犬を拾ってきたは可愛がっていましたが、彼が拾ってきた動物はすぐに死んでしまいました。そのたびにジム・ジョーンズは涙を流しながら納屋の裏で動物の葬儀を行っていたと言います。

 

1957年、26歳になったジム・ジョーンズは人民寺院を設立。教祖となりました。そしてすぐに絶大な人気を誇る教団に。日曜日の礼拝には数千人が参加。ジム・ジョーンズの教えはなぜ人々をひきつけたのでしょうか?その教義の柱は2つ。白人と黒人の垣根を取り払う「人種融和思想」と貧富の差をなくす「社会主義思想」でした。恵まれない若者や黒人に住居や食事、仕事を与え、身寄りのない高齢者のために福祉施設を建設しました。こうした活動を積み重ねたジム・ジョーンズは社会福祉活動家としてメディアに取り上げられるようになり時代のヒーローとなりました。そして1965年、34歳の時に自分の教義をアメリカ全土に広げるために大型バス11台を購入。毎年夏、全米に布教してまわる人民寺院のバスは当時のアメリカの風物詩でした。ジム・ジョーンズの説教は各地で大盛況。しかし言葉だけでなくジム・ジョーンズは信者拡大のために心霊療法を行っていました。奇跡に感動した人々からの献金は多い時には1回で800万円ほど集まったと言います。一方で、ジム・ジョーンズが起こす奇跡に疑いの目を持つ者もいました。それでも信者は増え続け貧しい黒人や身寄りのない年寄りだけでなく白人の富裕層も取り込み本部をカルフォルニア州に移転。100名ほどの忠実な信者たちと共同生活を始めました。その理由をジム・ジョーンズは「最も崇高な献身とは全ての財産を教団に寄付し教団の中で生活することだ」と語っています。信者たちはジム・ジョーンズが正しく導いてくれると信じていました。人民寺院は確実に信者を増やし、アメリカ各地に支部を設立。教団創立16年目には信者は約7500人にまで増えていました。

 

1976年、45歳になったジム・ジョーンズはサンフランシスコの住宅当局局長に就任。この時、ジム・ジョーンズは政治家と結びつき権力と多額の寄付金を得て人生のピークを迎えていました。ところが1977年8月、ある雑誌が教祖ジム・ジョーンズと教団の実態を暴く記事を掲載。その記事には元信者10人が協力していました。その誰もが自分の身に危険が及ぶのを覚悟してジム・ジョーンズの本当の姿を語っていました。教団内部では強制労働、暴力、女性への暴行が当たり前のように行われ、自殺も頻発していたといいます。心霊療法も秘書などが芝居し、自作自演だったことが暴かれたのです。

 

ジム・ジョーンズは国外逃亡を決断。それでも彼を信じる信者と共にアメリカを捨て新天地へ。場所はかねてから予定していた南米ガイアナ共和国。首都ジョージタウンから150km離れたジャングルの中に広大な土地の入手。面積は3800エーカー。東京ドーム334個分です。密林を切り開き、教団をここに移しました。その費用3億円は貯めこんだ信者からの献金がおしみなく注ぎ込まれたと言います。そして約1000人の信者と共に外との関わりを遮断した自給自足の生活を開始。この場所を自分の名前から「ジョーンズタウン」と名づけ、学校では大人の信者が子供たちを教育。診療所や託児所まで作りました。しかし、本国アメリカではガイアナに移った人民寺院に対し「家族を帰せ」という声が大きくなっていきました。残された家族や元信者は議会に調査を依頼。教団は間違っていると主張しました。そして以前からジム・ジョーンズに虐待などの疑いを持っていたカリフォルニア州下院議員レオ・ライアンが立ち上がりました。

 

1978年11月14日、ライアン議員はマスコミや元信者など19名の視察団とガイアナへ。夜に視察団を歓迎するパーティーが教団で開かれました。とろこが歓迎会が終わるとライアン議員は一人の信者からメモを手渡されました。そこには「どうか僕がジョーンズタウンから脱出するのを手伝ってください」と書かれていました。ジョーンズタウンには新聞も届かず、テレビもラジオも存在しません。そこは教祖ジム・ジョーンズが君臨する独裁国家だったのです。信者は男女別々に生活させられ禁欲を強制されていました。子供は親から引き離され家族の絆は断ち切られていました。こうして個人の意思を奪い信者の目が教団だけに向かうように仕向けられていたのです。教祖に忠誠を誓わなければ容赦ない拷問が科せられました。そして教祖だけが使用できる無線放送で一日中、ジム・ジョーンズの声が鳴り響いていました。「ここから脱出したい」と密かに視察団に訴えた信者は15名いました。

 

1978年11月18日、ライアン議員はその15名をアメリカに連れて帰るとジム・ジョーンズに告げました。すると、さらにもう1人の信者がアメリカに帰ると言い出し、ジム・ジョーンズはそれを許しました。そして信者たちが騒然とする中、16名がアメリカに帰国しようとしました。ジム・ジョーンズは「出て行きたければ出て行けばいい」と言いましたが、それは本心ではありませんでした。この後に起きた事実がジム・ジョーンズの本当の意思だったのです。視察団と16名の元信者が2台の小型飛行機に乗り込もうとした時、人民寺院の信者が銃を乱射。カメラマンは頭を打ちぬかれ即死。視察団だけでなく、元信者11人も重症をおい5名が死亡しました。その一人であるライアン議員の死体は蜂の巣状態だったと言います。実は最後に帰国を申し出た信者はジム・ジョーンズがはなったスパイでした。その先導で視察団は狙い撃ちにされたのです。ジム・ジョーンズは自分が作りあげた教団の内部情報が視察団に暴露されるのが許せなかったのです。そしてこの惨劇から40分後、教祖ジム・ジョーンズは信者に向かい集団自殺を促しました。その一部始終が45分間のテープに記録されていました。信者たちは青酸カリを含む毒物をジュースに混ぜて飲み、赤ちゃんには注射しました。こうして多くの信者が死を受け入れ、教祖ジム・ジョーンズは銃で自殺しました。ほとんどの信者はただ目の前だけを見つめ、自らの尊い命が消えるのを待っていました。集団自殺を拒否し逃亡した者は167名。逃げる自由もありましたが、その自由を捨て大多数が教祖ジム・ジョーンズの言葉に従ったのです。それはカルト宗教の恐ろしさを初めて世界が思い知った瞬間でした。




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