1980年2月24日、早稲田大学の商学部の入学試験が行われました。定員1100人に対し、受験生2万3000人が集まる狭き門です。
午前10時、受験生たちの闘いが始まりました。現役の学生たちが試験監として立ち会い、そのとき試験監をしていた学生があることに気づきました。自分たちは10日前に今日の試験問題と全く同じ問題の模範解答を作ったというのです。
試験の12日前に、ある予備校に数人の早稲田の学生が集められました。予備校講師から解答速報を出したいので夕方4時までに解いて欲しいといわれました。学生たちはそれぞれ担当科目を決め問題を解きました。夕方4時に各々が作った模範解答を渡しました。その時に持ち帰った試験問題は、早稲田の入試問題と全く同じものでした。
予備校講師に聞いてみても、試験問題がどこから持ち込まれたものか明かされませんでした。商学部の主要メンバーが集まり、入試問題漏えい調査委員会がひらかれました。
試験問題の印刷が完了したのが2月7日。印刷所の倉庫で保管されました。予備校でアルバイトの学生が模範解答を作成したのは2月12日。そして、印刷所から商学部の金庫へ移されたのが2月18日でした。この日にちから印刷所で漏れた可能性が高いと考えられました。
しかし、印刷所で問題を印刷する時の監視や処理は徹底されていました。死角ができないように所長や大学の教務主任・事務長らも全ての作業工程に立ち会い、不審な動きがないかチェック。刷り損じがでると、その場で焼却。さらに、印刷機が停止している時は問題が誰の目にもふれないように封印していました。印刷作業に立ち会う職員は退出の際ボディチェックも受けていました。
そして、印刷作業の間は家に帰ることはおろか、早稲田大学の敷地を出ることも許されていませんでした。寮で寝泊りし外部との接触を遮断されます。
印刷開始から4日後、全ての問題が刷り終わり倉庫に入れられました。印刷所の倉庫は鉄製の扉で防犯ベルまで設置されていました。
毎日新聞社会部に情報が持ち込まれ調査が開始されました。予備校講師から問題を譲り受けた人物を聞き出し、記者の10時間以上に及ぶ説得で男はおれ、高校時代の恩師から依頼を受けたと言いました。その恩師というのは2年前に教師を退職し大きな運輸会社で働く男でした。
早稲田大学の理事が問題漏えいを認めたことで、1980年3月6日の毎日新聞に記事が載りました。運輸会社の男はついに口を割り、大学関係の人から頼まれたと言いました。その男というのは早稲田大学の職員で50代の男でした。そして、男は共犯の男2人と共に早稲田大学へ出頭。警視庁と戸塚警察署は3人の取調べを開始し事件の真相が分かりました。
事件の真相
ことの始まりは1979年7月。ある受験生の親が元高校教師に電話をかけてきました。2浪している息子のために何とかして欲しいというものでした。
元高校教師が相談を持ちかけたのは50代の早稲田大学の職員。彼は10年前から裏口入学の依頼を受けてきました。その依頼を実行するため職員は大学内に不正入学請け負いグループを作っていました。
その手口は宿直の日に依頼された受験生の答案用紙を、あらかじめ作ってあった合格点以上の答案用紙と差し替えるという方法でした。しかし、事件の前の年に答案差し替え実行犯の商学部職員3人が全員配置転換になってしまいました。そのため、この方法をとることができなくなってしまったのです。問題用紙を盗み出したのは印刷所の盗難監視役の男でした。
男はまず社会・数学の問題用紙を抜き取り服にしまいました。翌日には英語と国語の問題用紙を抜き取りました。抜き取った問題用紙はいったんロッカーに保管。これはボディチェックをまぬがれるためでした。印刷作業が終了し厳戒態勢が解かれると印刷所のロッカーから問題を外へ持ち出しました。
4人が逮捕され、早稲田大学はこの試験問題を使って合格した9人を不合格にしました。さらに不正入試を過去にさかのぼって調査し1981年5月に卒業生42人、在校生13人、計55人の入学取り消し学籍末梢処分をくだしました。
「ザ!世界仰天ニュース」
早稲田大学入試問題漏洩事件
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