ボッティチェリは生涯、聖母や女神を描き続けましたが女神たちはどこか物憂げです。それは、ルネサンスという美の革命に挑んだボッティチェリの挑戦でした。
ルネサンスの時代
フィレンツェは14世紀以降、貿易と金融業で栄え市民社会が花開きました。そうした中、新たな芸術運動ルネサンスが幕を開けたのです。
ボッティチェリが画家になったのは、そんな時代でした。
画家を目指す
ボッティチェリは1445年頃、革なめし職人の四男としてフィレンツェで生まれました。子供の頃から絵を描くことが大好きで、15歳で画家フィリッポ・リッピの工房に弟子入り。デッサンの巧みさは別格だったと言います。
ボッティチェリは人間性豊かな表現を師匠リッピから学び、線の美しさ、リアルな表情の描き方を自分のものにしていきました。
ルネサンス以前の宗教画
ルネサンス以前の中世の時代、宗教画は人間性を持たせずに描くのが常識でした。キリスト教の禁欲的な価値観のもと、人間は穢れた存在とされ聖母の姿は神々しく荘厳でなければなりませんでした。
絵の人物は祈りの対象であり、個性や感情はむしろ排除されるべきものでした。ボッティチェリは聖母を描きながら、新しい時代の絵画を模索していたのです。
知識人たちの集まりに参加
やがて師匠のもとを離れ、20代半ばでフィレンツェに自分の工房をかまえました。そして有力なパトロンとなったのがメディチ家の当主ロレンツォ・イル・マニフィコです。
ロレンツォは、郊外の別荘で知識人たちの集まりを主催していました。メンバーは哲学者や詩人、芸術家たち。古代ギリシャ・ローマの思想を復興し、人間の本質に立ち返ろうという対話がされました。
ボッティチェリはロレンツォを通じてこの集まりに参加。そして人間への洞察を深めていきました。そうした探求を続ける中で絵にも変化が表れ「ヴィーナスの誕生」が生まれました。
苦難に満ちた後半生
ボッティチェリの後半生は、苦難に満ちたものでした。それを物語る作品が「パラスとケンタウロス」です。
サンドロ・ボッティチェリ「パラスとケンタウロス」
学問の女神パラスが、暴力と欲望の象徴ケンタウロスをおさえ付ける場面です。勝ち誇っているはずの女神の表情は、なぜか深い悲しみに満ちています。
「パラスとケンタウロス」が描かれた頃、フィレンツェはメディチ家の黄金時代を迎えていました。しかし、反対勢力との対立を抱え、ボッティチェリのパトロンのロレンツォの権力は盤石ではありませんでした。
そんな中フィレンツェ大聖堂で事件が起こりました。反メディチ勢力がローマ教皇と結託。大聖堂でロレンツォと弟のジュリアーノを暗殺しようと企てたのです。
幸いロレンツォは難を逃れますが、弟ジュリアーノは惨殺されてしまいました。報復に出たロレンツォは、暗殺に関わった者たちを捕え処刑しました。
ボッティチェリは、その様子を壁画に描くよう命じられました。この過酷な体験をした後に描いたのが「パラスとケンタウロス」でした。
その後、ロレンツォが亡くなりメディチ家は衰退。フィレンツェの街から追放されました。
ルネサンスの終焉
ボッティチェリは大きな支えを失いましたが、画風を変え絵を描き続けました。影響を与えたのは、メディチ家の後にフィレンツェの政治の実権を握った修道士サヴォナローラです。
サヴォナローラはメディチ家の時代の芸術を退廃的だと非難し、書物や絵画などを焼き払いました。それはルネサンスの一つの終焉でした。
サンドロ・ボッティチェリ「誹謗」
虚飾を廃するというサヴォナローラの思想のもと描いたのが「誹謗」です。そこには優美さも官能もなく、刺々しいほどの緊張感が張り詰めています。
「人間とは何か?」激動の時代の中、最後までその答えを探し求め、ボッティチェリは65年の生涯を閉じました。
「日曜美術館」
女神の瞳に秘められた謎
~ルネサンスの巨人・ボッティチェリ~
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