ジョルジュ・ルオー 「聖顔」に込めた魂の救済|日曜美術館

ジョルジュ・ルオーが生まれたのは1871年。パリで家具職人をしていた敬虔なカトリック教徒の家で育ちました。

 

やがてジョルジュ・ルオーは絵に関わる仕事がしたいとステンドグラスの職人を目指します。光によって鮮やかに浮かび上がる色彩に強く魅せられたのです。

 

ステンドグラスや聖画像「イコン」と呼ばれる絵画は、民衆に聖書の教えを伝えるための重要な手段でした。中世の時代、聖書の逸話をモチーフにした宗教画が盛んに描かれました。ルネサンス以降にもレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロといった名だたる画家たちが宗教画に取り組みました。

 

ギュスターヴ・モローとの出会い

ジョルジュ・ルオーもそうした画家になることを目指して19歳の時に美術学校に入学。パリ国立高等美術学校で運命的な出会いをしました。油絵の教授としてやってきた画家ギュスターヴ・モローとの出会いです。

 

ギュスターヴ・モローはギリシャ神話や聖書を題材に幻想的な作品を描いたことで広く知られ19世紀、画家や文学者に大きな影響を与える存在でもありました。

 

ジョルジュ・ルオーはギュスターヴ・モローの作品に感銘を受け、彼に教わりながら絵の技術を磨いていきました。

 

モローはルオーを自分の息子のように思い高く評価していた。ルオーへの手紙の中で「あなたの芸術は素朴ながら力があり宗教的だ」と書いている。

(ジョルジュ・ルオー財団理事長ジャン=イヴ・ルオー)

 

モローから自分の後継者として期待されていたジョルジュ・ルオー。しかし、悲しい運命に直面しました。師・モローが病気で亡くなったのです。ジョルジュ・ルオーが27歳の時でした。

 

絵を描けなくなったジョルジュ・ルオー

ジョルジュ・ルオーはショックのあまり美術学校を辞め、さらには絵も描けなくなってしまいました。

 

ルオー自身もモローを父親のように考えていた。モローが死んだときにルオーは非常に強いショックを受け心身ともに影響がおよぶ危機を迎えた。

(ジャン=イヴ・ルオー)

 

ジョルジュ・ルオーが絵を描けなくなったのには、もう一つ大きな理由があると言います。

 

19世紀末のヨーロッパでは産業の発達と共に人々は娯楽や快楽に価値を見いだすようになっていました。また、政治や教育の場から宗教が切り離され、それと共に宗教心が薄れていきました。

 

美術の世界でも印象派と呼ばれる新しい流派が台頭。市民社会の情景を色彩の視覚効果を中心に描写しました。宗教画は以前のようには求められなくなったのです。

 

はたして自分は宗教的な画題を書き続けていいのだろうか。美術学校でそれなりの評価を得ていたが満足できない。自分が生きている時代の生活の中で宗教画がどういう意味をもつのか。はたして今後描いていけるかどうか、そこで描けなくなったのではないか。

(西南学院大学教授 後藤新治)

 

ジョルジュ・ルオーは30歳の時に、フランス西部の修道院に通い救いを求めました。自分にとって信仰とは何か、キリストとは何か、ジョルジュ・ルオーは悩み続けました。

 

ユイスマンスとの出会い

作家のジョリス=カルル・ユイスマンスは荒廃した人々の信仰心を芸術の力によって蘇らせる運動を提唱していました。修道院に通う生活の中で、ジョルジュ・ルオーはその理想に励まされました。そして、再び絵を描き始めました。

 

修道院にこもって、ちょうどその時ユイスマンスがそこにいた。「芸術的な感動というものが宗教的な感情の第一の源泉である。だから何よりも芸術的な美こそが宗教の根幹にないといけない。」と言った。

(西南学院大学教授 後藤新治)

 

芸術を通じて信仰を追い求める、そのためにジョルジュ・ルオーが描いた題材はサーカスのピエロ道化師でした。

 

当時、娯楽の一つとして人気を集めていたサーカス。しかし、移動を続けながらの生活は過酷で、社会的地位も決して高くありませんでした。

道化師は私、われわれ…ほとんどわれわれみなだということがはっきりわかりました。

(ジョルジュ・ルオー著「芸術と人生」より)

 

ジョルジュ・ルオーは道化師たちを生きることの悩みや苦しみを抱える自分と同じ存在としてとらえたのです。

 

「ミセレーレ」

1914年、ジョルジュ・ルオーの作品に大きな影響を与える出来事が起きました。第一次世界大戦です。2年前に父親を亡くしたジョルジュ・ルオーは、ドイツ軍に侵攻される北部フランスの惨劇を目の当たりにするにおよび、新たな作品の制作を思い立ちました。モノクロの銅版画の連作「ミセレーレ」です。

 

「ミセレーレ」には様々な苦難の中で神への愛と信仰心を持ち続けたジョルジュ・ルオーの思いが強いメッセージと共に表現されています。

 

「聖顔」

聖顔はキリストにまつわる逸話がもとになっています。ヴェロニカは十字架を背負わされ丘をのぼるキリストの姿を哀れに思い額の汗をぬぐったとされる女性です。逸話では、彼女が拭いたその布にキリストの顔が浮かび上がったとされています。

 

ジョルジュ・ルオーは生涯にわたってこの聖顔のモチーフを描き続け、その数は60点以上にものぼります。

 

なぜジョルジュ・ルオーはキリストの正面からの顔を何枚も描いたのでしょうか?ジョルジュ・ルオーが持っていた資料の中に手掛かりの一端がありました。それは「トリノの聖骸布」という不思議な布に関する書籍です。

 

その中にあるのはイエス・キリストの遺体を包んでいたとされる布にキリストの姿が浮かび上がったかのような写真です。20世紀になって発表されたこの写真は、大きなセンセーションを巻き起こし真贋論争にまで発展。その写真はジョルジュ・ルオーに大きな衝撃を与え、キリストのイメージが具体的な姿として迫ってきたと考えられます。

 

芸術にあってはあなたが信じられぬような、奇跡があります。宗教心が突如として開花することがあると、この私は信じます。

(ルオーの手紙 ルオー=シェアレス往復書簡」より)

 

新しい表現に挑み続けたルオー

ジョルジュ・ルオーは60代以降、その作風が大きく変化していきました。特に色彩。銅版画の連作「ミセレーレ」と違い、明るく鮮やかな色を多く使うようになりました。そして「聖書の風景」と称される宗教的な風景画も多く描くようになりました。

 

ジョルジュ・ルオーは信仰による神の愛や安らぎを感じさせる理想の世界を風景の中に見ていたのかもしれません。

 

さらに、晩年になると色を何層にも塗り重ねるようになりました。その技法にもジョルジュ・ルオーの狙いがありました。

 

最晩年の傑作が「サラ」です。旧約聖書に出てくる預言者アブラハムの妻です。「サラ」では様々な色の絵の具が幾重にも塗り重ねられ画面が盛り上がっています。さらに、いったん塗った絵の具を削っていたことも分かっています。ジョルジュ・ルオーが若い頃ステンドグラスの職人を目指していたことと関係しているのではないかと考えられています。

 

1953年、82歳になったジョルジュ・ルオーはローマ法王から勲章をおくられました。受難のキリストをモチーフにした長年の創作活動が認められたのです。86歳で生涯を終えたジョルジュ・ルオー。娘・イザベルはバチカンに父の作品を寄贈しました。

 

絵を通じて神との対話を続けたジョルジュ・ルオーの作品は、死後もその輝きを放っています。

 

「日曜美術館」
ジョルジュ・ルオー 聖顔に込めた魂の救済

 

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