ニキ・ド・サンファルは1930年、フランス貴族の血を引く父とアメリカ人の母との間にうまれました。22歳になるまでアメリカで暮らしました。
サンファル家は裕福な上流階級の家柄で、傍目には円満な家庭そのものでした。しかし、内実は違っていました。父は浮気を繰り返し、母を顧みることはほとんどなかったのです。母はそんな夫に不満を募らせながらも付き従うしかありませんでした。
ニキ・ド・サンファルは、女性として生きることのやるせなさを目の当たりにして育ちました。母は「裕福で地位のある男と結婚しなさい」とニキ・ド・サンファルに教え込みました。自らの不満に蓋をして、娘に同じ道を歩ませようとする母に強く反発。当時はまだ女性は家事と育児に専念すべきというのが一般的な考え方でした。
ニキ・ド・サンファルは11歳の時、父から性的虐待を受けたと後に告白しています。男性の絶対的な力の前で、女はいかに無力であるか幼いニキ・ド・サンファルが身をもって知った現実でした。
結婚
傷ついた心を胸の奥にしまいこみ、ニキ・ド・サンファルは18歳で結婚。やがてパリに移り住みました。子供にも恵まれ、しばらくは平穏な結婚生活が続きました。
しかし、父から受けた虐待の傷は癒えることはなくニキ・ド・サンファルを蝕み続けていました。そしてまた、自分の心を封印し妻として母として生きる自分は結局母と同じだという事に気づいていました。次第に精神のバランスを崩し、病院で治療を受けるまでになりました。
アートとの出会い
ニキ・ド・サンファルがアートと出会ったきっかけは治療のためでした。絵を描くことで妻でも母でもない自分自身と向き合うことができました。ニキ・ド・サンファルはこう語っています。
私は自分の解放のためにアートにすがりついた。それが絶対的に必要だった。
(ニキ・ド・サンファル)
アーティストとして生きたいと、ニキ・ド・サンファルは夫と子供を置いて家を出ました。
射撃絵画
翌年の1961年、ニキ・ド・サンファルは衝撃的な作品で人々の注目を集めました。それは銃で作品を撃ち抜くという前代未聞のパフォーマンス「射撃絵画」です。自らの魂を解放し生まれ変わるため、ニキ・ド・サンファルは2年間にわたり銃を撃ち続けました。
怒りや葛藤を撃ち尽くした後、ニキ・ド・サンファルの胸の奥底には「女ってなに?私は何者なの?」という問いが残りました。
「赤い魔女」は全てをむき出しにした女性の姿です。裂けた胸からのぞくのは聖母マリア。足には赤ん坊がいます。左手は性器にむけられ、まるで男を誘惑しているようです。
ニキ・ド・サンファルが描き出したのは、それまで誰も表現したことのない清らかさも醜さも併せ持つ生身の女性像でした。
「ナナ」
ニキ・ド・サンファルは名だたる芸術家と交流を重ね、数少ない女性の前衛芸術家として注目を集めていました。仲間の妻クラリスが妊娠したのはそんなおりでした。日々お腹が膨らんでいく彼女の姿が生き生きと輝いてみえました。ニキ・ド・サンファルの中で女であることを肯定できた瞬間でした。
そして生まれたのがニキ・ド・サンファルを代表する「ナナ」のシリーズです。ナナとはフランス語で「女子」を意味する俗語です。長い闘いの末、ニキ・ド・サンファルが見いだしたのはパワフルな女性像でした。
このころ世界はウーマンリブの時代に突入。世界中で女性たちが権利を求めて立ち上がりました。ナナという新しい女性像は時代を象徴するイメージになりました。
1966年、ニキ・ド・サンファルはストックホルムで一大プロジェクトに取り組みました。それはとてつもなく巨大なスケールのナナです。それは中に入ることもできました。こうした取り組みを支えたのはジャン・ティンゲリーです。
ニキ・ド・サンファルがティンゲリーと出会ったのは20代半ばの頃で、やがて二人は共に暮らし始め生涯を通して堅い絆を結びました。しかし、二人の関係は嵐のように激しいものでした。時にティンゲリーが他に恋人を作り家を飛び出すことも。その後、二人はお互い別の恋人を持ったり同居と別居を繰り返したりしながらもパートナーの関係を続けました。恋愛においては複雑な二人でしたが、芸術においてはかけがえのない存在であり続けました。
40歳をむかえる頃からニキ・ド・サンファルは公共の場におく作品を多くてがけるようになりました。幼い頃、女性であることに壁を感じていた少女は、アートを武器に自らの世界を築き上げました。
「日曜美術館」
カラフルな闘い ニキ・ド・サンファル
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