ミュシャ 未来を見つめる超大作|日曜美術館

アルフォンス・ミュシャがパリで活躍した時代、アール・ヌーヴォーと呼ばれる新しい装飾芸術が花開きました。草花をモチーフにした曲線的なデザインを特徴とします。ミュシャはアール・ヌーヴォーを広めた立役者でした。

アルフォンス・ミュシャ

ミュシャの人気の秘密は斬新な発想にありました。代表作の一つであるシャンパンの広告ポスターは、ゴージャスな宝石を身に着けた女性がさりげなくグラスを片手に微笑みかけています。

当時は一目でなんの広告か分かるのが常識でした。しかし、ミュシャはその真逆。過剰とも言える華やかな装飾で人々の目を釘付けにしました。ミュシャの広告は当時としては画期的だったのです。

ミュシャのスタイルの確立

ミュシャの華やかな画風は、一人の女優との偶然の出会いがきっかけで生まれました。毎晩、棺桶で眠るなど自ら伝説を作り上げた女優サラ・ベルナールです。演劇界の女王でした。サラ・ベルナールは自分の舞台公演のポスターを描いてくれる画家を探していました。

サラ・ベルナール

当時、ミュシャは34歳、チェコから出てきたものの芽が出ずにいました。そんな時、たまたまベルナールからの依頼を受けることになったのです。

ミュシャが描き上げたポスター「ジスモンダ」はパリ中で大評判になりました。

「ジスモンダ」

頭をアイリスの花で飾り、草花をモチーフにした装飾を施してベルナールの圧倒的な華やかさを強調しました。この時、過剰で可憐なミュシャのスタイルが誕生しました。実は、その陰にはミュシャの知られざる努力と探求がありました。

大量のデッサン

ミュシャ自身がまとめた図版集がエチエンヌデザイン学校の図書館に残されています。出てきたのは大量の草花のデッサン。装飾に用いる草花のリアルさを徹底的に追及していました。華麗な装飾はリアルな花のデッサンから生み出されていたのです。

花は単なるパターンの繰り返しではなく、よく見ると一つ一つ形や色が微妙に違います。デザインに秘められた徹底したリアリティ。それがやがて超大作に結びついて行くのです。

故郷チェコへ

パリで大成功をおさめたミュシャですが、突然パリを離れました。1910年、50歳の時に故郷チェコに戻ったのです。チェコのために作品を描きたいと思うようになったのです。

当時、チェコはハプスブルク家の強大な帝国から抑圧を受けていました。プラハの中心部にある広場には27の十字架が刻まれています。ここは17世紀、帝国に反乱を起こした首謀者たちが公開処刑された場所です。この反乱の後、公用語はチェコ語ではなくドイツ語とされました。ミュシャの祖国チェコは、長年独自の文化が否定されていたのです。

ミュシャがチェコで最初に手掛けた作品がプラハ市民会館の中にあります。部屋全体の装飾をミュシャは無償で手掛けたのです。天井の中心に描いたのは農園で働く人々の姿です。ミュシャが目を向けたのはチェコの名もなき人々でした。

「スラブ叙事詩」

そして、自ら資金を集め終生の大作に取り掛かりました。全部で20点からなる「スラヴ叙事詩」です。大きいもので幅8メートル。チェコの人々、スラヴ民族の歴史絵巻です。3世紀頃から20世紀まで、時代を象徴する出来事や人々の暮らしが描かれています。

最初の1枚が「原故郷のスラヴ民族」です。異民族の侵略を受けて苦しむスラヴ民族の祖先の姿を描いています。パリ時代に得意とした華やかな女性の面影は全くありません。スラヴ叙事詩で何枚も描かれたのが戦いの直後の場面です。

15世紀、チェコで宗教改革が起きるとハプスブルク家の軍隊が攻撃してきました。やがて内戦も起き、大勢の人々が犠牲になりました。最後の一枚は「スラヴ民族の賛歌」です。チェコの人々が独立を祝う作品です。自由と平和と団結。未来への希望を歌いました。

ミュシャはズビロフ村に16年こもって大作に打ち込みました。中世に建てられたズビロフ城の中をアトリエにしました。ミュシャは日中、絵に集中するため家族でも予約がないと会いませんでした。ミュシャは村人に衣装を着せポーズをとってもらい写真を撮影。それをもとに絵を描いていました。

「イヴァンチツェの兄弟団学校」は16世紀、人々が広場に集まり初めてチェコ語で作られた聖書を読んでいる場面です。向かって左下には目が見えないお年寄りに聖書を読み聞かせる若者の姿が描かれています。この2人はモデルになった写真があります。

ミュシャは歴史のうねりの中で名もなき人々が賢明に生きる姿を絵にしました。そこに命を吹き込むために村人をモデルにして描いたのです。パリでリアルな描写を追及したようにミュシャは村人の姿を事細かにリアルに描いています。

ミュシャは「スラヴ叙事詩」の大画面に登場する人物すべてにモデルを用いたとも言われています。人物一人一人にリアルな存在感と個性を与えるために16年間心血を注いだのです。スラヴ叙事詩20点の中でミュシャが繰り返し描いたのは戦争に巻き込まれた人々の姿です。ミュシャは勝敗に関わらず戦争がもたらす悲劇を描きました。

後半生のすべてを注ぎ込んで「スラヴ叙事詩」を描いたミュシャでしたが、その後自らも歴史の荒波に飲み込まれました。

1939年、ナチス・ドイツがチェコに侵攻。ミュシャは危険な愛国主義者としてナチスの秘密警察ゲシュタポに逮捕されました。逮捕から4か月後、ミュシャは体調を崩し78歳で亡くなりました。

「日曜美術館」
ミュシャ 未来を見つめる超大作

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