バルテュス 5つのアトリエ|日曜美術館

バルテュスは92歳で亡くなる間際まで絵筆をとり続け、その生涯は常に賞賛とそれと同等の誤解に満ちていました。彼の評価を二分してきたのが少女をモデルにした官能的な作品の数々。

 

少女に対するフェティシズムを賛美したキワモノなのか、はたまた移ろいゆく一瞬の美をとらえた崇高な芸術か。死後13年経つ今も、バルテュスをめぐるこの手の論議は絶えません。

 

今なお刺激的な魅力を放つ作品をよりミステリアスにしているのは、彼のボヘミアンのような生涯です。旅するようにアトリエを移しながら、自らが信じる美を追求し続けました。

 

パリ2つのアトリエ 挑戦と反抗と

 

バルテュスは1908年にパリで生まれ、両親が共に芸術家という画家を目指すには理想的な環境に生まれました。その後、第一次世界大戦の混乱や両親の離婚で恵まれた環境を失いますが、画家になる夢は捨てませんでした。

 

美術学校に通わず一人で学ぼうとしたバルテュスは、18歳の時イタリアへ画家修業の旅に出ました。皿洗いのアルバイトを続けながらルネサンス時代の宗教画やフレスコ画を精力的に模写。古典的な構図や柔らかな色彩、時を止めたような静けさなど後のバルテュスの原点が培われました。

 

独自の画風を手に入れたバルテュスは24歳でパリへ。記念すべき最初のアトリエを構えました。それはパリ6区フェルスタンベール通り4番地の最上階の狭い屋根裏部屋。この10畳ほどの小さなアトリエで次々と問題作が生み出されました。

 

バルテュスはシュルレアリストや抽象画がもてはやされるパリの画壇で、自分のやり方にこだわって名をあげようとしました。それはいわば過激な具象画ともいうべきスタイル。

 

「キャシーの化粧」は当時の片思いの相手で後の妻になるアントワネットをモデルに描いた25歳の意欲作です。椅子に座る男は若きバルテュス自身です。

 

「鏡の中のアリス」は女性が身支度する様を鏡の側から描いた刺激的な作品。瞳が描かれていない表情が、見る者の心を不安定にさせます。「街路」は初期の傑作です。パリの街角でフリーズする9人の通行人が醸し出す不穏な空気。深読みしたシュルレアリストたちにバルテュスは同士だと勘違いさせるのに十分なインパクトがありました。

 

しかし、その挑発的な作風があだとなり、バルテュスが嫌ったシュルレアリストたちと同類視され、一般には見向きもされなかったのです。

 

いきなりデビュー戦で躓いたバルテュスは、望まぬ賞賛にも誹謗中傷にも嫌気がさしアトリエを引越しました。

 

2つの目のアトリエはクール・ド・ロアン小路のアパート。この頃、すっかり人間不信になっていたバルテュスはアトリエに引きこもり、創作に没頭しました。初めての個展の失敗から2年、バルテュスはこのアトリエで生涯のテーマと出会いました。

 

「夢見るテレーズ」のモデルになった隣に住む失業者の娘テレーズ・ブランシャール。出会った当時はまだ14歳。少女の中に潜む無防備な美にバルテュスは惹かれました。少女の中に同居する無邪気さと物憂げな表情。大人の女性に変化する前の一瞬の美しさにバルテュスは執着しました。テレーズをモデルに少女の美しさを描き、画家として成熟していきました。

 

しかし、彼を評価するのは一部の目利きだけで、相変わらず無名で貧乏なままでした。生計を立てるために多くの肖像画を描いたのもこの頃。行きつけのシーフードレストランのオーナーに頼まれて、店の看板を描いたりもしました。

 

バルテュスはこの時代に後世に評価される作品を多く残しましたが、貧しさから抜け出すことは出来ず創作活動は行き詰っていきました。

 

そして1953年、バルテュスは突如クール・ド・ロアンのアトリエから姿を消しました。

 

シャシーのアトリエ 愛と芸術の理想郷

1953年、45歳のバルテュスは田舎への移住を決めました。フランス・ブルゴーニュ地方シャシー村で農園つきのアトリエを手に入れたのです。シャシー城です。

 

シャシーへの移住は、画家としての大きな転機でした。彼の才能を認める画商たちが彼を援助。彼らは金を出し合い、バルテュスが創作に没頭できる新たなアトリエを与えたのです。ただし土地と建物を購入するお金はバルテュスがここで描くであろう絵で返すという条件でした。

 

バルテュスにとっては、ようやく持てた理想的なアトリエ。広い空間と誰にも邪魔されない環境。この城館に降り注ぐ柔らかな光が新たな画風をもたらしました。

 

そして、何より彼の創作意欲を掻き立てるモデルがやってきたのです。それは義理の姪のフレデリック・ティゾン(15歳)です。バルテュスの兄の結婚相手の連れ子でした。彼女の中にテレーズ以上に絵心を刺激される何かを感じたバルテュスは2人きりで共同生活を始めました。

 

16歳のフレデリックを描いた「白い部屋着の少女」は穏やかなタッチです。大人の女性へと変わっていく瑞々しい肉体が繊細な陰影をおびて浮かびあがります。フレデリックは、移ろいゆく少女の美を描こうとするバルテュスにとって理想的なモデルでした。やがて2人は男と女としても愛し合うように。

 

シャシー時代のバルテュスは、フレデリックをモデルにした絵と風景画の2種類の絵しか描いていません。シャシーの美しい自然と光がバルテュスのもう一つの魅力、風景画の世界を確立させたのです。

 

バルテュスとフレデリックは足掛け8年、この城館で2人だけの生活を送りました。しかし1961年、幸福なシャシーの時代は突然終わりを迎えることになりました。

 

ヴィラ・メディチと古城のアトリエ 新たなる情熱

1961年、当時フランスの文化大臣をつとめていたアントレ・マルローから、ローマにあるフランスアカデミーの館長就任の要請が来ました。ルネサンス以来の個展芸術の殿堂ヴィラ・メディチを拠点に、フランスの若き芸術家の支援をするのがフランスアカデミーの活動です。その館長にバルテュスが推薦されたのです。

 

若い頃、イタリア・ルネサンスの巨匠たちに影響を受けたバルテュスはローマ行きを快諾。館長に着任早々、自分にふさわしい仕事を見つけ、やがてそれに没頭するように。それは、ルネサンス時代に建てられたヴィラ・メディチの修復という大仕事。様々な時代にその場しのぎの改装を繰り返してきたヴィラ・メディチの本来の美しさを取り戻したいと考えたのです。修復作業は足掛け16年にも及びました。

 

修復に多くの時間を費やしたせいか、ローマ時代のバルテュスは驚くほど寡作です。それでも「読書するカティア」など大作を描いています。

 

そして、ある時期からまだ若い日本の女性を描いた作品が目立つように。彼女は出田節子といって、後に妻になる女性です。

 

2人の出会いは京都。バルテュスはフランスで開く日本美術展の出品作品を選ぶために訪れていました。出田節子さんは上智大学でフランス語を勉強する20歳の学生でした。54歳のバルテュスは節子さんに心を奪われ、もう一度会って肖像画を描きたいと申し出ました。

 

記念すべき最初のデッサンが「日本の少女の肖像」です。以来40年、節子さんはバルテュスが息を引き取るまで側にいてモデルとして妻として支えることになりました。バルテュスの幼い頃からの東洋への憧れが節子さんとの出会いで形になりました。

 

バルテュスのヴィラ・メディチの館や庭の修復のめども立ったころ、残された人生を絵に捧げるための新しいアトリエを探し始めました。そしてラツィオ州ヴィテルボ県モンテカルヴェッロ村のモンテカルヴェッロ城に強く惹かれ、アトリエにしました。

 

しかし、この城での暮らしは長くは続きませんでした。バルテュスと節子さんは再び新しい創作の場を求めてスイスへ旅立つことになりました。

 

バルテュス 最後のアトリエ

69歳になったバルテュスは健康上の理由と、残された人生を絵に捧げたいという思いからイタリアを去ることに決めました。2人は最後のアトリエとなる場所を探しにスイスへ。

 

そして、スイスのヴォー州ロシニエール村でスイス最古の木造建築グラン・シャレと出合いました。かつてヴィクトル・ユーゴーやゲーテも滞在したのことのある古い宿です。一目で気に入った2人は親しい画商に頼んで、数点の絵を描く約束をしてここを手にいれました。

 

柔らかな光が注ぐ静かな山の館には、今も節子さんが彼の残した作品や思い出と共に暮らしています。グラン・シャレと通りを隔てて建つアトリエは、馬小屋だった場所を改装したものです。

 

生前、節子さんさえ滅多に立ち入ることを許されなかったアトリエは、亡くなった今も節子さんの意向で当時のままにしてあります。バルテュスはこの静かな空間で死の間際まで筆をとり続けました。

 

視力や体力が衰え、長時間のデッサンに耐えられなくなってからはポラロイドカメラを使うようになりました。顔や脚の角度の微妙な違いにこだわって膨大な数のポラロイドを写しました。

 

被写体になったのは隣の家に住んでいたアンナ・ワーリーです。彼女がモデルをつとめたバルテュスの遺作が「マンドリンと少女」です。未完の作品をアトリエでしみじみと眺め、バルテュスは2001年2月18日に息を引き取りました。

 

「日曜美術館」
バルテュス 5つのアトリエ

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