南アフリカ大統領ネルソン・マンデラの人生|世界まる見え!

1918年7月18日、ネルソン・マンデラは南アフリカの田舎の村で誕生しました。貧しい村ではありましたが、父親が部族の長だったため比較的裕福な生活を送り大学にも通うことができました。

ネルソン・マンデラ

しかしその後、鉱山の警備員として働き始めたネルソン・マンデラは厳しい現実に直面しました。悪名高いアパルトヘイトです。

アパルトヘイトとは南アフリカが行った白人を有利にし黒人らを差別する政策

アパルトヘイトは1940年代後半から本格化。人口の8割を占める黒人は国土の2割にも満たない狭い居住区に閉じ込められました。彼らは奴隷のように扱われ食事も制限。同じ工場労働者でも賃金は白人の6分の1ほどの賃金しか得られませんでした。

あらゆるものが白人用と黒人用に分けられ、列車やバスなどの交通機関や学校やレストラン、ビーチ、公園のベンチまで区別されました。また、黒人が居住区から出る場合には身分証明書を持つことが義務付けられました。

弁護士に

このままではいけないと考えたネルソン・マンデラは、弁護士の資格を取得。南アフリカで黒人初の法律事務所を設立しました。

そして、ネルソン・マンデラは政治団体に参加。若手のリーダーとしてデモなどの抗議活動を指揮するようになりました。

そんな中1960年3月、デモのため集まった黒人たちに警察が発砲。女性や子供を含む69人が亡くなるという事件が起こりました。

ネルソン・マンデラは、武力で政府に立ち向かうことを決めました。犠牲者をなるべく出さないよう誰もいない政府の建物や送電線などを破壊。また、アフリカ諸国やヨーロッパなどでアパルトヘイトの撤廃を訴えてまわりました。

逮捕

こうしたことにより1962年、ネルソン・マンデラは逮捕されてしまいました。当初、死刑が求刑されましたが国際的な暴動が激化するのではないかという懸念からネルソン・マンデラは終身刑を言い渡され、島全体が監獄になっているロベン島に収監されました。ここでの生活は悲惨なものでした。

わずか2メートル四方の独房にごくわずかな食料、面会は半年に1回で家族のみ。手紙も半年に1通しか出せませんでした。さらに、毎日採石場で働かされました。

こんな状況でも、ネルソン・マンデラの心は決して折れることはありませんでした。空き時間は本を読んで法律を学び続け、面会に来る家族や出所する受刑者を通じて、塀の中から抗議活動を指揮。一方、時には看守に父親のように接し尊敬される存在にもなっていきました。

1980年代になると、ネルソン・マンデラはアパルトヘイト撤廃の象徴になっていました。黒人たちの抗議活動はエスカレート。その先頭にたっていたのはネルソン・マンデラの妻であるウィニー・マンデラでした。

アパルトヘイトは国外にも広く知られるようになり、多くの国が南アフリカに対し経済制裁を強めていきました。

1985年、抗議活動をおさめたい南アフリカ政府は、ネルソン・マンデラに自由に与えると釈放の話を持ちかけました。しかし、これには政治活動の制限などの条件がついていました。ネルソン・マンデラは一貫して無条件での釈放を要求。

結局5年にわたり行われた交渉の末、南アフリカ政府はネルソン・マンデラの要求を飲み彼は釈放されました。この時ネルソン・マンデラは71歳でした。

そして1991年、南アフリカはアパルトヘイトの撤廃を決定。ネルソン・マンデラが理想とする白人と黒人の差別のない社会へ、大いなる一歩を踏み出しました。

大統領就任

その後、ネルソン・マンデラはアフリカ民族会議(ANC)の議長に就任。1994年には南アフリカで初めての全人種による歴史的な選挙が行われ、ネルソン・マンデラ率いるANCが圧勝。大統領に就任することが決まりました。

政治犯として27年も投獄されながら大統領までのぼりつめ、国を一つにしたネルソン・マンデラ。あらゆる人種差別をなくしたいというネルソン・マンデラの思いは、国境を越え世界が差別撤廃へと動きました。それは多くの人の人生を変えました。

1999年に政界から引退。数々の困難を乗り越え夢を実現させたネルソン・マンデラ。これが永遠に続くと信じて、彼は今静かな眠りについています。

「世界まる見え!テレビ特捜部」
ネルソン・マンデラの人生

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