水俣病 魂の声を聞く ~公式確認から60年~|ETV特集

NHK・Eテレの「ETV特集」で水俣病 魂の声を聞く ~公式確認から60年~ が放送されました。これまで表立って話すことのなかった水俣病患者の貴重な証言が、膨大な数の録音テープに残されていました。2016年5月1日、水俣病の公式確認から60年経ちました。昭和31年5月1日、水俣病の保健所に医師から届け出がありました。「原因不明の小児奇病が発生している」と。この日が水俣病を公式に確認した日としています。このとき報告された患者が当時5歳だった田中静子さんと、2歳11ヶ月の妹・実子さんでした。田中実子さんは63歳になりました。最初に発病したのは静子さんでした。静子さんは発病から2年10カ月後に亡くなりました。静子さんに続いて実子さんも発病しました。姉妹が相次いで発病した時のことを語った母・アサヲさんの録音テープが残されています。

「静子は晩に皿を落としたら二度落としたもんなその皿ば。朝起きてみたら目もとろんとして口もかなわんじゃった。こりゃしもうた。今はやりの病気にひっかかった。どげんしようかいと思うて胸がびっしゃげた。そしたら実子も具合が悪かばいて来たで。ああ、どげんしゅうかねっち。静子ひとりでも困っとに困ったもんじゃと思ってな泣いたっじゃっど」(母アサヲさん)

 

岡本達明さん(81歳)は500人以上に聞き取り録音してきました。岡本さんは水俣病の加害企業チッソの社員でした。東京大学法学部を卒業して入社。労働組合で活動しながら聞き書きを始めました。患者や家族など一人一人と向き合い水俣病の現実に迫り続けてきました。岡本さんは今、東京都清瀬市で暮らしています。昭和32年、チッソの社員として最初に水俣に赴任した岡本さんは労働組合の活動を通して水俣病と深く関わるようになりました。そして住民の家を一軒一軒訪ね歩き、これまでに録音したテープは約800本にも及びます。岡本さんは2015年秋、仲間と共に集めた膨大な民衆の証言を全6巻の「水俣病の民衆史」にまとめました。そこには患者の心の叫びが記録されています。

 

水俣病はチッソ水俣工場の廃水に含まれていた有機水銀に魚介類が汚染され、その魚介類を食べた人が脳などの中枢神経をおかされる有機水銀中毒です。初期の劇症患者は激しい痙攣を起こしたり、硬直するなどして次々に亡くなっていきました。

 

水俣市月浦は水俣病が最初に多発した地域です。水俣病発症の初期、12戸19人の患者が確認されました。水俣病公式確認のきっかけとなった田中実子さんは今も同じ場所で暮らしています。実子さんは話すことができません。周囲を認識しているのかどうかも分かりません。実子さんは発病すると伝染病の隔離施設「避病院」に入れられました。病気の原因は不明で、緊急避難的な措置でしたが周りの人たちからは移る病気だと思われました。家や家族も消毒されたため、村の中で恐れられるようになりました。

「誰も家には寄り付かんじゃった。じいさんたちも隣に居らいたばってん寄りついてくれられんでな。父ちゃんと(家族)5人でほら村八分にされて学校でも苦しめられてな。あん子(綾子)も6年に上がったばっかりやったんじゃが、だいぶ差しつけ(働かされ)とらっとやもんな」(母アサヲさんの録音)

妹たちが発病した時、綾子さんは小学6年生になったばかりでした。病院で看病する両親に代わって家に残された3人の兄弟の面倒をみなければならなくなりました。

 

水俣病患者などが暮らすケアホーム「おるげ・のあ」

渡辺栄一さん(63歳)は昭和31年、4歳の時に発病しました。祖母と畑に行っている時に急に歩けなくなり、手足の自由がきかなくなりました。左の耳は聞こえず右目はよく見えません。年々口もかなわなくなってきています。渡辺さんは家族7人全員が水俣病です。家族は次々に亡くなり6年前に弟が急死してから栄一さんはたった一人になりました。極貧の生活を余儀なくされた時の両親の録音テープが残されています。

「足かせ鎖のついとる重りのついとるで歩くとに自由はきかんとばってんか。おっどんは働きもならん。どげんして食っていけばよかっじゃろか。鎖のついた奴隷と同じ。奴隷よか悪かばい。そんとき思ったな。そんときに死んでやろうかねって俺も思うたこつのあるとばい。(妻)から何十回て心中しようかって言われたことのあっとたい」(父・保さん)

「そっとも生活の苦しかと、きゃん苦しかて何しに生きとらんばんとかって思うときもあるしですね。何べんかそげん父ちゃんに相談したばってん。父ちゃんが死ぬって思いすれば何でんできるがんね。生きてればどげんかなる。子供がくらしか。どげんして殺すか。俺はでけんぞて言うでしょうが。そぎゃん思えばそげんですたいね。ならどげんかして育てないかんたいな」(母マツさん)

 

公式確認の翌年、厚生省の研究班が原因は水俣湾の魚介類を摂取することによる中毒であると報告しました。昭和34年7月には熊本大学の研究班が有機水銀説を発表し、その発生源としてチッソ水俣工場が疑わしいと主張しました。しかし、チッソはそれを認めず昭和43年まで有機水銀を含んだ工場廃水を流し続け、水俣病の被害を拡大させたのです。昭和44年6月、29世帯112人の患者と家族が裁判にふみきりました。水俣病第一次訴訟です。チッソの企業城下町・水俣で訴訟を起こしたことで患者たちの孤立は深まっていきました。岡本さんは当時、チッソの労働組合の教宣部長でした。孤立する患者を支援するために「恥宣言」を起草しました。岡本さんはさらに第一次訴訟の時、水俣病研究会を結成。法学者や医師、ジャーナリストたちとともに裁判を理論的に支えました。またチッソの労働者に工場の実態を裁判で証言してもらうなど、患者の支援に奔走しました。昭和48年3月20日、患者側が勝訴。その直後、患者たちはチッソ東京本社に向かいました。判決で認められた賠償金だけでなく、今後生きていくための年金や療養費を求めるためです。そして昭和48年7月、患者とチッソは補償協定を結びました。患者たちは命と身体の代償として補償金を得たのです。しかし、補償金で全てが解決したわけではありませんでした。

 

渡辺栄一さんは若い頃から一人前の人間として働きたいと思ってきました。中学卒業後、一度はコンクリートブロックの製造会社に入りましたが、手に力が入らずブロックを落としてばかりで1年程で辞めざるおえなくなりました。渡辺さんが19歳の時、同じように行き場のない若い患者たちが集まる「若衆宿」ができました。胎児性水俣病患者など、同じ年頃の人たちが集まってきました。渡辺さんも若衆宿に来ては今後のことを語り合いました。補償金をもらっても病気が治るわけではなく、みんなこれからどう生きていけば良いのか悩んでいました。栄一さんはカメラや音楽に夢中になりましたが、それが人間としての生きがいに繋がることはありませんでした。補償金を使い果たし、家族もみな亡くし一人だけになったのです。

 

坂本美代子さん(81歳)はモノが二重に見えたり、頭をハンマーで殴られるほどの激しい頭痛に悩まされてきました。坂本さんは昭和33年、23歳のとき水俣から大阪に移り住みました。美容師として働き結婚もしました。しかし、やがて水俣病の症状があらわれました。ハサミやカミソリを持つ手に力が入らず、感覚もなくなっていきました。坂本さんの6歳上の姉キヨ子さんは水俣病で亡くなりました。キヨ子さんは昭和28年、23歳の時に発病しました。劇症の水俣病で体は骨と皮だけに痩せ細っていました。下半身はねじれて硬直し寝たきりでした。寝たきりになって床ずれができ骨までえぐれていました。いつもうめき声を上げていたと言います。キヨ子さんは28歳で亡くなりました。水俣病は自ら申請し認定審査会で認定されないと患者とは認められません。美代子さんは42歳の時、認定の申請をしましたが認められませんでした。美代子さんは関西に移住した人たちとともに被害を拡大させた行政の責任を問う関西訴訟を起こしました。そして平成16年、最高裁で国と県の責任が認められました。美代子さん自身も水俣病と認めるという判決でした。




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