産婦人科医の東野利夫さん(89歳)は、自らの償いきれない過ちに70年間向き合ってきました。それは昭和20年、九州帝国大学医学部で起きた事件です。アメリカ人の捕虜8人が解剖実習室で生きたまま手術の実験台となりました。
肺を片方取り去っても人は生きられるのか、血液の代わりとして海水の輸液を使ったらどうなるのか、捕虜たちの命と引き換えに様々なことが試されました。東野さんはその現場にいました。
終戦後、手術を指揮した教授は獄中で自殺。有罪となった大学関係者14人は今はもうこの世にはいません。現場を知る唯一の証人となった東野利夫さんは、事件を風化させてはならないと当時の資料と関係者の証言を集めてきました。
東野さんは昭和35年に福岡市内で開院。産婦人科の最前線に立ち続け5年前に現役から退きました。これまで1万3000人もの命の誕生に関わってきた東野さんですが、医師としての原点は戦時中に巻き込まれたあの事件にありました。
それは昭和20年の春、日本の戦況は悪化の一途をたどりアメリカ軍が沖縄に上陸。本土ではB29による無差別爆撃が激しくなっていました。東京大空襲では100万人が被災し、10万人が命を落としました。
その年の4月、19歳だった東野さんは九州帝国大学医学専門部に入学しました。不足していた医師を早急に育てるためのコースでした。九大医学部は軍への積極的な協力を求められていました。
軍との関わりが特に深かったのは第一外科を率いる石山福二郎教授。石山教授は海水を使った代用血液の研究を進めていました。本土決戦が始まれば大量の負傷者が出て輸血用の血液が足りなくなると懸念されていたからです。
昭和20年5月5日、一機のB29が日本軍戦闘機の体当たりをうけ大分県の山中に墜落。生き残ったアメリカ兵は捕えられ福岡へと連行されました。B29の機長は情報価値があるとして東京へ送られました。
軍の内部では残りの捕虜の扱いを巡って議論が交わされ、最終的にもちあがったのは捕虜の体を使った人体実験でした。
計画の中心にいたのは九大医学部出身の小森拓軍医でした。小森軍医は第一外科の石山教授と相談。軍の嘱託医でもあった石山教授は計画を受け入れました。手術を行う場所は解剖学教室でした。人目につきにくい場所だったからです。
昭和20年5月17日、生体実験手術が行われました。
生体実験手術
その日、東野さんは一人で論文の整理をしていました。用を足しに席を立った時、中庭で2人のアメリカ兵が連れてこられるのを見ました。東野さんは小森軍医に聞かれ教室の入り口を教えました。
尋常ではない雰囲気に東野さんは後を追いました。張り詰めた空気の中、将校はこれから始まる手術の正当性を伝えました。捕虜は名古屋を無差別爆撃したと言います。
エーテル麻酔で眠らされていたアメリカ兵は、右肩には銃弾をうけたような傷跡がありました。しかし、教授がメスを入れたのは右肩ではなく胸でした。東野さんの目の前で捕虜の右肺が摘出されました。石山教授は「人間は片肺だけで生きられるぞ」と言いました。
続けて行われたのは代用血液の実験でした。手術で出血した分、代わりに海水を使った輸液を血管に注入していきました。東野さんは輸液の瓶を持つように命じられました。実験の末、この日は2人のアメリカ兵が死亡しました。
生体実験は4日に渡って行われました。実験されたのは肺だけでなく心臓、脳、代用血液。合計8人の捕虜の命が奪われました。
終戦後
8月15日に終戦をむかえ、GHQはアメリカ兵捕虜の行方に重大な関心を寄せていました。九州を管轄していた軍幹部はただちに隠ぺい工作を始めました。
実験手術の中心となった小森拓軍医は、福岡での空襲で死亡していました。実験手術で亡くなった捕虜8人は、終戦間際に広島に送られ原爆で死亡したことにされました。
しかし、GHQは隠ぺい工作を見破り九州大学医学部への調査を始めました。そして昭和21年7月、捕虜虐殺の容疑で石山教授に逮捕命令が下されました。事件の核心を知る石山教授に対して厳しい尋問が続きました。
逮捕から4日、石山教授は拘置所内で自ら命を絶ちました。独房には遺書が残されていました。
石山教授の死によって事件の真相追及は困難に直面しました。手術に関わった医師たちに次々と出頭命令が下りました。東野さんにも追及の手が及びましたが、事件当時医学生だった東野さんは起訴を免れました。
裁判
昭和23年3月11日、手術に関わった九大の医師・看護婦14人と軍人16人が法廷に立たされました。
事件は戦後の社会に大きな衝撃を与えました。生体実験を行った上、捕虜の肝臓を食べたのではないかという疑いがかけられたのです。後に事実無根と判明しますが、世間は好奇のまなざしを向けました。医師たちはなぜあの手術に加わったのか追及されました。
裁判の結果、医師と看護婦14人全員が有罪に。絞首刑3人、終身刑2人、それ以外は3年~25年の重労働の刑が言い渡されました。
裁判が終わると九大医学部は医師や看護婦、学生を集め「反省と決議の会」を開きました。九州大学はこの決議文をもって事件に一区切りをつけました。
その後、九大生体解剖事件は人々の記憶から徐々に消えていきました。
産婦人科医の道へ
東野さんは大学卒業後、医師になるべきかならざるべきか葛藤の日々が続きました。よみがえってくるのは、ぬくもりの残る捕虜の体から臓器を取り出す手伝いをした時のことばかりでした。
迷ったあげく東野さんが選んだのは、命の誕生を助けることができる産婦人科医への道でした。35歳で福岡市内に医院を開業。ところが、事件で受けた心の傷は想像以上に深く開業から7年、心療内科に2か月入院しました。
事件後、東野さんがずっと気にかけていたのは9年半の服役の後、医療現場に復帰した恩師・平光吾一さんのことでした。
事件に関わった九大の医師たちは戦後、苦しみの中にいました。終戦から5年、GHQによる占領が終わりに近づくと戦犯に対する恩赦、減刑が行われ九大の医師・看護師14人は釈放されました。しかし、その後も自ら積極的に事件を語ることはありませんでした。
14人全員が今はもうこの世にはいません。
「ETV特集」
医師の罪を背負いて
~九大生体解剖事件~
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