女だって活躍したい!明治の教育者 津田梅子|先人たちの底力 知恵泉

6歳でアメリカ留学 旧幕臣の娘 津田梅子

明治4年(1871年)津田梅子(つだうめこ)は6歳の時に政府による留学生としてアメリカに派遣されました。同時に4人の少女が親元を離れアメリカに渡っています。彼女たちに共通しているのが旧幕府側の家系だと言うこと。負け組の自分たちが新しい時代にキャリアを積むには外国に行って英語力を身に着ける他ない、そんな両親の思いを背負ってのアメリカ行きでした。

 

現地での生活をはじめて半年後の津田梅子の手紙には「英語の勉強をできることがとっても嬉しいです」と書かれています。国の期待にこたえようと寝る間も惜しんで勉強し、驚異的な速さで英語を身に着け、卒業時にはアメリカ人たちを凌駕するほどの豊富な語彙力と表現力を身に着けていました。

 

津田梅子

 

女性が働く場所はない?

17歳になった明治15年、津田梅子は帰国しました。ネイティブ顔負けの英語力は当時の日本ではトップクラス。さぞや引っ張りだこになるだろうと思われました。しかし、帰国した津田梅子に仕事はほとんど用意されていませんでした。

 

政府は実績として女子留学生を送り出すことには熱心でしたが、その女性たちの高い技能を社会にどういかすか具体的な計画を持っていなかったのです。役所や大学、どこからも声がかからず津田梅子は無職の日々が続きました。

 

それどころか留学経験は津田梅子にとってマイナスに働きました。何と幼くして留学したため日本語をすっかり忘れており、普通の日本人として暮らすこともままならなくなっていたのです。人力車で外出した時は行き先を伝えることが出来ず、近くを通りかかった外国人に日本語への通訳を頼むほどでした。

 

知人のつてを頼り、ようやく女学校の英語教師の職を得ますが、ここも津田梅子の考えた場所とは違っていました。生徒のほとんどはお稽古の一貫として学校に通うお嬢様。授業はきわめて初歩的なレベルに終始し、津田梅子のキャリアに見合う仕事ではありませんでした。

 

また、津田梅子には結婚問題という壁もありました。当時の日本では10代で結婚するのが一般的。帰国した17歳の津田梅子はすでに適齢期ギリギリでした。しかし、結婚すれば女性は家庭に入ることが求められキャリアをいかすことは出来ません。

 

二度と結婚のことは書いてこないでください。聞くのも話すのもうんざりです。

(梅子の手紙より)

 

知恵その一
自分の状況をひいて見ろ!

明治22年、津田梅子は友人のすすめもあり2度目のアメリカ留学に旅立ちました。津田梅子が学んだのはブリンマー大学。女性版ハーバード大学を目指してフィラデルフィアの近郊に創立されました。歴史や自然科学など高度な専門科目が豊富に用意された画期的な女子大学で、全米各地から女性たちが集まっていました。

 

 

一年目の夏休みのこと、津田梅子は友人であるアリス・ベーコンの研究を手伝いました。ベーコンは日本女性の文化に興味を持っており、これを1冊の本にまとめようとしていました。後に「日本の女性」と名付けられた書籍は、日本社会の中での女性の位置づけを世界で初めて書き出そうとしたものでした。執筆にあたり沸き起こってきた様々な疑問点を津田梅子に直に聞きたいと声をかけてきたのです。

 

聞かれるままに質問に答えていると、ふと津田梅子はあることに気づきました。それまでの津田梅子はキャリアがいかせないことを、あくまで個人的な悩みととらえていました。しかし、それは日本の社会的な構造に原因があるのではないかと思ったのです。

 

当時の日本では若い女性が将来を考えた時、その先にあるのはほぼ家庭に入るという選択肢だけ。自立して働きたいと考える女性もいましたが、その道筋はほとんどありませんでした。師範学校で教師になる道は、結局家庭に入る良妻賢母を育成する場でした。そして津田梅子は女性の高等教育機関が日本に必要だと考えました。

 

海外で日本社会を俯瞰することによって問題点に気づいた津田梅子は、日本初の本格的な女子大学設立の夢を抱き帰国することになったのです。

 

学校設立 たちはだかる壁

明治33年、津田梅子は念願を果たし女性に高等教育を行う学校を開きました。しかし、その道のりは決して生易しいものではなく苦難の連続でした。

 

まず津田梅子が教育の場として借りたのは、千代田区一番町にあった民家。自分が2階に住み1階で生徒を集め教えることにしました。しかし、当初集まった生徒は10人。

 

家賃は50円(現在の価格で50万円)その他に職員の給与なども入れると月に100円(100万円)は必要でした。授業料だけではまかないきれず津田梅子は終業後、家庭教師などのアルバイトをして補てん。運営状況は火の車でした。

 

多くの場合、学校をつくるさいにはスポンサーとなる企業を見つけます。しかし、津田梅子はスポンサーを募って男性主導となってしまうと理想とする女子教育が実現できなくなると恐れました。

 

一方、生徒たちの学習も目指すレベルには達しませんでした。多くの生徒にとって英語は未知の語学。津田梅子が行うハイレベルな授業についていくだけで精一杯だったのです。授業についていけず辞めてしまう生徒も一人や二人ではなかったと言います。

 

知恵その二
同じ志を持つ人々にアピールしろ!

津田梅子が行ったのは、自分と同じ夢を持つ人々に広く働きかけていくことでした。その一人がブリンマー大学時代の恩師ケアリ・トマスでした。彼女も若き日に津田梅子と同じ思いを抱いた人物。懸命な努力で本格的な博士課程のあるブリンマー女子大学を設立しました。

 

助けを求める手紙を受け取ったケアリ・トマスは、その苦境をアメリカ中の女性たちに伝えました。すると、津田梅子に協力したいという女性たちの寄付が全米から寄せられてきたのです。その額は現在の金額で4000万円。この援助により学校の経営は窮地を救われました。

 

また生徒のレベルが上がらないと悩む津田梅子を助けたのは、ブリンマー大学の同級生アナ・ハーツホンでした。ハーツホンは津田梅子の訴えを聞くと来日。その後38年に渡って教壇に立ち続け、高等教育の実現に貢献することになりました。

 

その他にも津田梅子の支援者となったのが、陸軍大将夫人の大山捨松(おおやますてまつ)実は捨松は津田梅子の最初の留学のさい、共にアメリカに渡った少女の一人。英語、フランス語、ドイツ語と3か国語を身に着けて帰国しましたが、キャリアをいかす方法がなく結婚の道を選んでいました。

 

津田梅子同様、女性の社会参加に熱い思いを持ち続けていた捨松。無償で学校の顧問を引き受け、資金繰りに奮闘し生涯に渡って津田梅子をサポートしました。

 

同士たちの支援に支えられ女子英学塾の運営は徐々に軌道に乗っていきました。最初10人だった生徒も5年後には120人に。その教育水準は男性にも匹敵する高いものであることが次第に知られるようになり、卒業生は資格試験なしで政府から教員になる許可を与えられました。

 

津田梅子の教えを受けた生徒たちは全国で教壇に立ち、社会で働きたいという女性たちに道を開いていったのです。

 

「先人たちの底力 知恵泉」
女だって活躍したい!明治の教育者 津田梅子

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