「芸術は爆発だ」の名言で日本に衝撃を与えた岡本太郎(おかもとたろう)は、大阪万博のシンボル「太陽の塔」から渋谷駅の大壁画、プロ野球チームのマークまで昭和をエネルギッシュに駆け抜けた芸術界の巨匠です。
生まれながらの天才に見える岡本太郎ですが、その人生は迷いと逆境の連続でした。
芸術一家に育った岡本太郎の苦悩
明治44年(1911年)2月26日、岡本太郎は現在の神奈川県川崎市に生まれました。父・岡本一平は当時新聞漫画で日本中に知られた漫画家。母・岡本かの子も歌人で小説家という芸術一家の一人っ子でした。
酒好きの父は毎晩のように飲み歩き家に帰らず、母も創作に熱中すると周りが見えなくなり幼い岡本太郎を放置。泣きわめく岡本太郎が邪魔だと、帯でタンスに縛り付けることすらあったと言います。
さらに、仰天すべきは母・かの子の愛人も同居していたことでした。好きな男性ができたことをかの子が正直に告白したところ「好きになったら仕方がない」と一平が認めたためでした。普通ではとても考えられませんが、自分に正直に生きることが岡本家の信条だったのです。
そんな環境で育てられた岡本太郎も、自分に正直であるよう求められました。そのため両親が芸術論を闘わせていると幼い岡本太郎も「それは違う」と批判することもしばしば。両親は怒るどころか真剣に意見を交わし合いました。岡本太郎も納得できれば「もちろんもちろん」と頷くことから「もちろんちゃん」というあだ名がつきました。
自由すぎる家庭に育った岡本太郎は、小学校に入ると大問題に。先生や規則に合わせて行動することができず、ことあるごとに周囲と衝突。トラブルを繰り返し成績もビリ。一年で3回も転校しなくてはならなくなりました。
なぜ自分だけ周りと馴染めないのか、幼い岡本太郎は絶望し自殺を考えるほどだったと言います。小・中・高と苦しい学校生活を強いられた岡本太郎のもとに、18歳の時幸運が舞い込みました。両親が仕事で海外に行くことになり、幼い頃から絵が好きだった岡本太郎にパリで勉強するよう勧めたのです。
いったん全てを捨ててみよ
1930年代のパリはピカソ、マティスが活躍する芸術の都の全盛期でした。そんなパリには日本からも西洋画の技法を学ぼうと多くの芸術家が来ていました。
しかし、彼らがやってきたのは日本人だけでかたまり群れること。実際にフランスの芸術家たちと交流することはほとんどありませんでした。彼らにとって必要なのはただフランス留学という肩書だけ。それがあれば日本で絵が高く売れるため、パリで流行っている画風を真似て帰国する者が多かったのです。
絵描きとはそんな仕事だったのかと激しく失望した岡本太郎は、怒りのあまり思い切った決断をしました。それは幼い頃から目指していた絵描きになる夢を捨て筆を折ってしまうということでした。
岡本太郎はフランス語の語学学校に通ったり、大学の聴講生として哲学の勉強をしたりと美術とは距離を置いた生活を開始。フランス人の友人もでき、地元カフェの常連になるなどフランス社会に溶け込んでいきました。
しかし、岡本太郎の心の中は将来に対する焦りと不安で一杯でした。岡本太郎はその頃の気持ちをこう回想しています。
疑惑と焦慮に錯乱し夢遊病者のような彷徨がつづいた。当時のことをいま思い出してもゾッとする。
光を見出せないままひたすらさすらった岡本太郎。そんな時たまたま入ったのが映画館でした。暗闇の中で思い悩んでいた時、突然心の奥底から浮かび上がってきた考えがありました。
自分を認めさせようとか世の中で自分はどんな役割を果たせるのだろうかとか、そんなことを思い悩むのは無意味だ。生きるとは本来無目的で非合理なものだ。だから瞬間瞬間無目的に無償で生命力と情熱のありったけを使い全存在で爆発すればいいんだ。
岡本太郎が気づいたのは、芸術家として認められたいという野心に自分が縛られていたことでした。重要なのは目的や利益ではない、自分の情熱をただ純粋に爆発させる、それこそが本当の芸術なのだと発見したのです。
再び絵筆を持つようになった岡本太郎が描き上げたものは、これまでのものとは全く異なる彼にしか描けないものでした。その作品はパリの芸術界に衝撃を与え、芸術家としての第一歩を踏み出すことになりました。
一度全てを捨ててみたとき沸きあがってくる思いこそ本当の情熱。岡本太郎は表現者として大きく飛躍していくことになったのです。
あえて危険な道を選び闘志を引き出せ
1940年、フランスにナチスドイツが侵攻。パリ陥落が迫るなか岡本太郎はパリを離れ日本に帰国しました。しかし帰国後、日本も戦争に突入。31歳の岡本太郎にも召集令状が届き、中国へ送られることになりました。
入隊した陸軍の部隊では、毎晩のように古参兵の鉄拳による教育的制裁が行われました。理不尽な暴力に耐える岡本太郎でしたが、ふとあることに気づきました。
それは兵を殴っていくさい最初の一人目、二人目はまだ調子がでず一番力が入るのは四人目あたりで、七人目あたりになると疲れから殴り方が弱くなることでした。それが分かれば四番目を避けたくなるのが人情。しかし、岡本太郎はあえて四番目を買って出ていました。
一番おもしろい人生とは苦しい人生に挑み闘い、そして素晴らしく耐えること。逆境にあればあるほどおもしろい人生なんだ。
岡本太郎が見出したのは、あえてツライ道に挑むことでなにクソという闘志を引き出すこと。怒りのパワーで自らを鼓舞するという過激な方法で、岡本太郎は過酷な軍隊生活を生き抜いていきました。
昭和20年に終戦。岡本太郎は兵役をとかれた後、収容所生活を経て大陸から帰国しました。
復興が始まっていた日本で念願の芸術活動を始めますが、ここでも進んで危険な道を選ぶという生き方が変わることはありませんでした。
駆け出しの画家だったにも関わらず新聞に「絵画の石器時代は終わった」と宣言。旧態依然とした日本美術界を全否定し、挑戦状を叩きつけたのです。
その岡本太郎の名刺代わりの作品が「電撃」です。赤、青、緑という原色を大胆に使った絵です。戦後の日本画壇でもてはやされていたわび・さび・しぶみという作風に真っ向から異議をとなえるものでした。
これに対し既存の芸術家たちは激怒。岡本太郎の絵に対し「色彩感覚がゼロ」「岡本太郎が10年後に残っていたら首をやる」など画壇で徒党を組んだバッシングが始まりました。しかし、人々の非難こそ岡本太郎にとっては闘志を引き出すエネルギーそのもの。批判されればされるほど、その絵は活力を増していきました。
1949年に発表した「重工業」では真っ赤な巨大歯車とスパークに翻弄される塵のような人間を描き、機械を動かすはずの人間が機械の奴隷になっている様子を抽象的に表現しました。それまでと全く違うタッチに若い芸術家たちが注目し始めました。
1950年に発表した「森の掟」に登場したのは巨大なチャックをつけた怪物と、それに喰われる生き物たち。現代社会の根底にある漠然とした恐怖を表現したこの作品によって一般の人々も岡本太郎の描写力の高さを理解するようになりました。
圧倒的なオリジナリティを持つ芸術家として不動の地位を確立していく岡本太郎。しかし、その活動が安住の地にとどまることはありませんでした。芸術の分野にとどまらずテレビ、雑誌などに進出。岡本太郎の発する力強い言葉は人々を刺激し、日本に元気と活力を与える存在となっていきました。
「先人たちの底力 知恵泉」
逆境を乗り越えるには?
~岡本太郎”爆発”への道~
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