島津義久 戦国奇跡の生き残り術|知恵泉

NHK・Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」で戦国 奇跡の生き残り術 島津義久が放送されました。戦国乱世、数多の武将の中で比類なき強さを誇ったのが九州の島津家です。その主力は猛将・島津義弘(しまづよしひろ)です。関ヶ原の戦いでは劣勢になっても退かず、わずかな兵で大軍に突撃。敵中突破するという豪快な戦いぶりを見せました。しかし、島津の強さは義弘一人によるものではありません。義弘が「自分の手柄は兄がいればこそ」と語り指揮を委ねていたのが長男の島津義久(しまづよしひさ)です。義久は肖像画も残されていませんが、義久がいなければ島津家は滅びていたと言われるほどの名将です。天下人の豊臣秀吉や徳川家康が九州に迫った時も巧みな駆け引きを駆使。一辺の領土も減らされることなく国を守り抜きました。

 

戦国最強 島津兄弟

室町幕府の弱体化により各地で領土争いが激化し始めた16世紀前半。南九州の有力大名・島津家に4人の子どもが誕生しました。義久、義弘、歳久、家久です。島津家は鎌倉時代以来、守護大名をつとめる名門。しかし戦国期には新興勢力や豪族の反乱が多発し、もともと持っていた三国の領土のうち大隅と日向の2国を奪われた危機的な状況にありました。家中から領土奪還の悲願を託され成長していった島津兄弟。父・貴久のもと若き指揮官となり豪族との戦闘に加わっていきました。

兄弟の仲でずば抜けた奮闘を見せたのが次男の義弘でした。義弘は命を顧みず敵陣に突っ込む勇猛な性格。大量の矢を受けて重症となってもひるまず、敵将の首をとりました。三男、四男もそれぞれ巧みな指揮をみせました。祖父・忠良は「義弘は武勇英略に傑出し、歳久は知略に並ぶ者はなく、家久は軍法戦術の天才である」と言っています。やがて跡取りとなる長男・義久の戦での目だった活躍の記録はあまり残っていません。おっとりとした性格で戦より和歌や茶道を好んだと言われています。当主としては頼りなく思えてしまいますが祖父・忠良は意外な言葉を残しています。

「義久は三国の総大将たり資質を持つ」

何と島津の本来の領土を回復し、その全てをまとめる大きな器を持っていると予言したのです。元亀2年(1571年)、父・島津貴久が急死。39歳の島津義久が16代当主に就任することになりました。

 

知恵①リーダーは動くな

当主となった島津義久は奪われていた領土の奪還に本格的に乗り出しました。そのやり方は独特なものでした。自らはほとんど動かず、指揮は極力前線の弟たちに任せたのです。弟たちは持ち味を存分に発揮できました。特に次男・義弘は十倍の数の敵に突撃する無謀ともいえる奇襲をし、見事成功させました。その後も現場判断によるスピード感が功を奏し、瞬く間に九州のほとんどを手中におさめるという快挙をなしとげました。この島津の快進撃を快く思わなかったのが天下統一を目指す豊臣秀吉。秀吉は島津の動きをとどめようと37か国の武将を集結させ、20万もの連合軍で九州に侵攻してきました。島津軍は5万で、兵力では圧倒的に劣る状況。軍議が開かれましたが、これまで奇襲を成功させてきた次男・義弘たちは秀吉など恐るるに足らずと交戦を主張。この時も当主・義久は次男たちの意見を尊重し一任しました。しかし、結果は敗北。せっかく広げた領土を大きく減らし、島津の領国自体も存亡の危機に陥りました。それでも再戦すれば勝てると主張する弟たち。ここに至って初めて動きを見せたのが島津義久でした。

島津義久はわずかな従者を連れて秀吉と面会。頭を丸め、殺される危険を覚悟で和睦を申し入れたのです。秀吉は当主自らが出頭したことに免じ、島津の取り潰しを見送り、薩摩一国のみの統治を認めました。しかし、この条件に納得しなかったのが弟たちでした。山城に立て籠もり、兵が尽きるまで戦を続けるかまえをみせました。秀吉にとって戦の長期化は大きな危険をはらんでいました。遠征で兵が疲弊している上、本州では小田原の北条や東北の伊達などが抵抗を続けていたからです。その思惑を読み取り、島津義久は迅速に行動。弟たちの陣に飛び込み、島津の現実を伝え説き伏せたのです。この義久の手腕に秀吉は感服。秀吉は島津を敵に回すのは得策ではないと考え、一度は奪った大隅、日向も島津に戻すことを許可しました。波に乗っている間は動かず、現場に任せ、いざという時にはリーダーとして素早くおさめる、それが島津義久の経営術でした。

秀吉政権下で生き延びる道を選んだ島津家。文禄元年(1592年)、秀吉は朝鮮出兵のための動員を各大名に命じました。前線を任された次男・義弘は秀吉にアピールする絶好の機会と考え、本国に大軍勢を要請。ところが、義久は兵どころか一隻の船も送りませんでした。義弘は手紙に「手元に人数がなく船が来ないため日本一の遅陣となり面目を失い無念千万。みじめさに涙も止まりません。国元の仕打ちを恨みます」と記しています。なぜ義久は兵を送らなかったのでしょうか?そこには秀吉政権にむやみに接近しすぎるべきではないというシビアな判断がありました。

結局、秀吉の朝鮮出兵は失敗。参加した大名の多くは大量の犠牲者を出し国力を大きく減らすこととなりました。無意味な犠牲を避けることが出来た義久。戦国最大の転換期、関ヶ原の戦いを万全の体勢で迎えることができたのです。

 

知恵②部下の失敗はチームで背負え

慶長5年(1600年)天下分け目の戦いを前に多くの大名が究極の選択を迫られていました。それは天下人を目指す徳川家康の東軍につくか、家康に反対する石田三成の西軍につくかです。島津義久はどちらの支持も明らかにせず戦後にそなえ、兵は極力温存する方針でした。9月15日、関ヶ原でついに東西両軍が衝突。戦は家康の勝利で終わりました。数日後、義久のもとにとんでもない情報が届きました。現地での混乱の中、島津軍を率いた義弘は西軍に参加、敗戦のなか義弘は敵中を突破し命からがら鹿児島に向かっているというのです。家康は西軍側で反抗した大名家を処罰し、次々と取り潰しを開始していました。義弘が西軍として戦ったことで島津家は存亡の危機に立たされました。島津家存続のためには義弘が勝手にやったこととして身柄を差し出すこともやむおえない局面でした。しかし義久が行ったのは弟・義弘を桜島に隠し守り通すことでした。義久は家康に手紙で「義弘はやむおえず西軍に加わっただけで当家は今後とも家康様に敵対する考えなどありません。義弘も深く反省して謹慎の日々を送っております。なのとぞ寛大な処置をお願い致します」と伝えました。義弘の失敗はあくまで一族全体で背負うと伝えたのです。家康はこの謝罪を認めず、軍勢を送り義久に出頭することを命じました。義久をとらえて人質にし、それをたてに家臣の抵抗を封じて領土の削減を迫るのが家康の作戦でした。それを察した義久は理由をつけ出頭の引き延ばしを続けました。そして国境の守りを固めて、ことあらば島津一丸となって抵抗するという覚悟も示しました。これが家康に大きな圧力となりました。というのも島津にはまだ豊富な兵力があり、開戦すれば泥沼化し天下を失う恐れがあったのです。じりじりとしたにらみ合いが続いた後、ついに家康が出した結論は島津家の本領安堵。西軍についた毛利家や上杉家が大きく石高を減らされる中、異例の措置でした。戦国最大の転換期を見事のりきり、全国屈指の大名として島津家を存続させた義久。ある時、義久は家康に「多くの合戦で島津が勝利を収められたのは弟・義弘や家臣のおかげです。私の手柄などひとつもありません」と語っています。この言葉を聞いた家康は「義久殿こそ源頼朝公に並ぶ誠の大将である」と言ったそうです。失敗も手柄も全てチーム全体のもの。この強い団結力により島津家は明治維新まで260年以上にわたり繁栄を続けることができました。




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