鉄道の父・井上勝 プロジェクト成功の知恵|知恵泉

幕末 長州 技術者への道

天保14(1843)年、井上勝(いのうえまさる)は中級武士の家に生まれました。11歳の時、黒船が来航。西洋の進んだ技術に興味を抱いた井上勝は、長崎や江戸、函館など外国の知識が手に入る地を駆け巡り、新たな軍事技術を学んでいきました。

やがて、長州藩の軍艦の艦長を任されるまでに成長。藩にとって重要な近代的な軍事技術の専門家になっていきました。

井上勝

21歳の時、長州藩は5人の若き藩士をイギリスへ留学させました。伊藤博文や井上馨らと共に井上勝も選ばれました。最年少ながら最も英語や西洋の技術に詳しい井上勝は、長州藩の未来への期待を一身に背負っていました。

壮大な夢との出会い

ロンドンに到着した井上勝たち。日本とは大違いの近代的な大都会に衝撃を受けました。

街には3階や5階建ての高層建築が並び、工場から昇る黒い煙は空にたなびき、人々の往来は織物を織るようだった。

(井上馨の日記より)

この発展した産業社会の秘密を日本に持ち帰りたい、井上勝は秘密のカギに気づきました。鉄道です。当時、イギリスでは蒸気機関車鉄道網の建設によって人やモノの交流が一気に盛んになっていました。

近代化を促し国力をつけ国を一新できるのは鉄道をおいて他にない。交通が便利になれば肥沃な土地も山も開け人々は仕事につくことができる。そうなれば国がもし富みたくないといっても富まざるをえないわけである。

留学期間は5年。井上勝はロンドン大学に入学し、地質学や鉱物学など鉄道の土木工事に必要な知識を学んでいきました。さらに、実際の工事現場にも出向いた井上勝は、山を削りトンネルを掘りレールを延ばしていく技術を自分の体に刻み込んでいきました。

どうする?現場vs.上司

留学を始めて4年が経った1867年、井上勝のもとに長州藩を取り仕切る木戸孝允から藩主の帰国命令を伝える手紙が届きました。

当時、長州藩は強大な江戸幕府との対決を前に急速に軍備の充実をはかっていました。長州藩の幹部たちは、井上勝のような最新の西洋技術に詳しい人材を欲していたのです。

この頃、井上勝はあと10か月でロンドン大学を卒業し鉄道技術もマスターできるというタイミング。上司の帰国命令に従うか、あと10カ月現場での勉強を全うするか…

知恵その一
現場で鍛えた自分を信じろ!

井上勝は木戸孝允への手紙にこう記しています。

恐れ入りますがさらに10か月ここにいさせていただきたい。たった10か月帰国を早くすることで、これまでの苦心の功績を十分に得られないのは私の願いが遂げられないだけでなく、国のためにもならないと考えます。

藩主の帰国命令を拒絶したのです。

その後、10か月のロンドン大学での勉強を全うした井上勝は明治元年11月に帰国しました。この時、すでに長州藩の戦争は終結に向かい、世の関心は新しい国作りへ移りつつありました。井上勝が習熟した鉄道建設の技術は、新政府からも期待されました。

明治4年、新政府の鉄道部門、鉄道寮鉄道頭に就任しました。井上勝の鉄道に捧げる人生が走り出しました。

開通!問題だらけの舞台裏

明治5年9月12日、日本で初めての鉄道が新橋・横浜間で開通しました。しかし、井上勝の心は一人晴れませんでした。華やかな開通騒ぎの裏で、今後の鉄道建設は課題が山積みだったからです。

当時、日本では安定した品質で鉄が作れなかったためネジ1本でさえ輸入せざるおえませんでした。

ある日、横浜港にレールなどの資材が大量に陸揚げされた時のこと。部下が「これでもう東京・横浜間はできたようなものですね」と言うと、井上勝は憤りました。

「ばかやろう。外国でできたものを高い値段で買って喜んでいるようではダメだ。」

こうした外国への依存は資材だけでなく人材にも及んでいました。鉄道建設の現場では指示を出す技術者は、専門知識を持ったお雇い外国人に頼りきり。多い時で120人近くにまで及びました。

彼らの多くは日本人の水準をはるかに超える高級取り。しかも、通訳をつけるため人件費もかさみました。こうした外国人が井上勝と工夫の間で大勢いたため、井上勝の指導や狙いはなかなか現場の日本人には伝わりませんでした。

これでは到底日本全国に鉄道網を敷くような長期間の建設には耐えられない。

「日本帝国鉄道創業談」より

日本を現場から変えよう!

明治3年から、政府は新たな計画を勧めました。関西・北陸地方の鉄道建設です。まず、貿易港の神戸と大阪、京都を結ぶ路線が完成。さらに、路線を延長し琵琶湖の水運を経由して敦賀まで延長。瀬戸内海と日本海を繋ごうという壮大な計画でした。

この工事を機に、井上勝は鉄道工事の現場で大改革に挑みました。お雇い外国人を排除し、日本人だけで鉄道工事ができるよう作りかえることを目指したのです。

明治10年、大阪駅の中に工技生養成所を開きました。学問優秀なエリートを集めて、数学・土木学・測量術など鉄道工事の現場で求められる幅広い知識を叩きこみました。自分のような日本人技術者を育て、外国人にかわる現場監督として派遣したのです。

こうした派遣現場の中で、最も工事が難しいと予想されたのが逢坂山トンネルです。日本人だけで山岳地帯に鉄道用のトンネルを掘るのは初めての挑戦でした。

井上勝はこの現場監督にトンネル工事の授業で抜群の成績をおさめた國澤能長(くにさわよしなが)を派遣。しかし、國澤を現場で待ち受けていたのは江戸の世の気風を残す工夫たちでした。

いわゆる命知らずのならず者やずいぶんいかがわしい条件付きの連中ばかりなので、これを使いこなすのは並大抵ではなかた。

「鉄道時報」記事より

こうしたバラバラな現場を変えるべく、井上勝は駆け付けました。

知恵その二
現場を変えるのは大人げない本気!

井上勝は現場で度々叫びました。

「俺に勝ったら1円やるぞ!(現在の約3000円)」

ある時は屈強な工夫たちとつるはしで穴を掘る競争を。またある時は現場へ出る速さの競争を。お金を賭けて勝負を挑み現場のやる気を出させる一方、作業が終わった後の打ち上げでは相撲で現場の一体感を高めました。

ところが、部下の現場監督に投げ飛ばされた時には…

「謝れ!謝らんのなら今日届いた昇給辞令を渡さんぞ!それでもいいのか!」

と大人げない発言も。井上勝の情熱は、現場の空気を徐々に変えていきました。

井上さんは朝も晩も現場に来て我々と寝食を共にし少しも休まなかった。国家を憂い我々を奮い立たせて導く切実なものだと皆よくわかっていたので頑張ってついていった。

「子爵井上勝君小伝」より

國澤も井上勝にならい現場に染まろうと努力しました。落盤事故が起きれば青ざめる工夫をかきわけ真っ先に梯子にのぼり、夜になれば工夫たちと酒を酌み交わし、慣れない花札賭博にも付き合いました。

着工から2年が経った明治13年6月、逢坂山トンネルが完成しました。これを祝い、トンネルの出口には井上勝が記した額が掲げられました。

日本の険しく厳しい山を削り鉄道のレールを敷いた。工事を指揮したのは國澤能長といい工部省の六等技手である。

現場を愛し、現場と共に生き、現場から日本を変えていこう。井上勝の鉄道を通した近代化への改革はこうして進んでいったのです。

日本を変える!運命の決断

日本初の鉄道開通から11年、井上勝は日本の物流や人の移動を飛躍的に発展させる大事業を指揮していました。関東と関西を結ぶ幹線鉄道の建設です。

候補は2つ。中山道ルート東海道ルート。江戸時代から使われてきた海道のどちらかに沿って線路を延ばすものでした。

東海道ルートは天竜川、大井川、富士川など大きい川が何本も横切っていました。江戸時代、これらの川は度々氾濫していたため、鉄道用の橋をかけてもすぐに流されるのではないかと指摘されました。

一方、中山道ルートは山岳地帯が多く谷間をぬうように街道がのびています。当時の蒸気機関車は力が弱いため、急勾配の坂は上れないのではないかとの不安の声がありました。

そこで井上勝が注目したのは経済効果です。当時すでに海運が盛んだった東海道に比べ、中山道は大量の物資を運べずにいました。中山道に鉄道を敷けば、山間部の産業振興が急速に進むと見込まれました。

明治16年、井上勝は幹線鉄道を中山道沿いに作ると決定。政府の承認を得て本格的に工事を開始しました。ところが1年後、まさかの事態が発生しました。

群馬の長野の境にある碓氷峠。山を越え群馬から長野へぬけるには550メートル以上の標高差を上らねばなりませんでした。過去の調査ではどうにか突破できると見込まれていたものの、丁寧に調べると当時の機関車がのぼれる限界をはるかに超える急勾配が続くと分かりました。

現場の調査が不十分なまま、中山道ルートの決定を下したことが原因でした。

まさか!?痛恨の失敗に…

すでに工事は碓氷峠の手前まで進み、その分の予算も消化していました。しかし、これ以上工事が長引けば事業自体が頓挫してしまいます。井上勝は苦渋の思いで政府に申し出ました。

このまま中山道の工事を進めれば損失があまりに大きくなるので、あえて哀しい気持ちを吐露し採決をお願いしたいのです。

政府は井上勝のこの判断を認めました。しかし、変更にあたり厳しい条件を突きつけました。完成期限はわずか4年3か月後、予算は中山道ルートの残金でまかなうこと。

知恵その三
失敗したら原点に戻れ!

中山道ルートでの失敗の原因は、現地調査が不十分なままルート決定の判断をしたこと。そこで井上勝は、自分の原点である現場重視の方針のもと現地の正確な測量を行い慎重にルートを決めようとしました。

その代表的な例が赤坂宿付近のルートです。測量をしてみると、蒸気機関車の走行に負担となる急勾配が続いていました。ここにレールを敷くには山肌を削り斜面を緩やかにする工事が必要で、お金と時間がかかります。別の工事方法や迂回できるルートはないか、井上勝たちは半年近く地元への聞き込みと測量を重ねたすえ意外なルートを見つけました。

それは赤坂宿から東京方面へ宿を一つ引き返し、そこから山を避けるように大きく南へ迂回。海沿いを走るルートです。東海道沿いに線路を延ばすという大原則を根本から覆す大胆な判断でした。これによって安く早く確実に工事を進めることができました。

さらに、東海道には大きな課題が残っていました。大雨のたびに氾濫を起こす何本もの大きな川。ここにどうやって流されない頑丈な橋をかけるか。

富士川橋の下り線の橋脚は130年前に井上勝たちが作ったものが今も使われています。この橋脚で使われている工法は、井上勝が5年間のイギリス留学中に学んだ技術。いわば井上勝の原点ともいえる技術が注ぎ込まれています。

明治22年7月、東海道線が開通。日本の東西を結ぶ巨大輸送路線が登場したのです。しかも、現場の技術を丁寧に駆使することによって井上勝は厳しい予算や期日を制限内に抑えていました。

現場を重んじ現場を愛することで日本の未来を切り開いた井上勝は、自らの生き方をこう語っています。

職掌は唯クロカネの道作に候
(私の仕事はただ鉄の道を作ることです)

「先人たちの底力 知恵泉」
事業は現場で起きている!
❝鉄道の父❞ 井上勝 プロジェクト成功の知恵

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