ジャン・フランソワ・ミレーは、19世紀のフランスを代表する画家です。生涯のテーマとしていたのが農村を描くこと。
実は代表作である「落穂拾い」や「晩鐘」と並ぶ傑作が「羊飼いの少女」です。ミレーをフランスの国民的画家へと押し上げたのは「羊飼いの少女」でした。
「羊飼いの少女」は縦81cm、幅1mの作品です。広い平原に羊の群れをしたがえた少女が一人。少女は編み物に熱中しています。右奥には黒い犬が。羊たちを束ねているのは少女ではなく犬のようです。雲間からもれる柔らかな金色の光が大地を照らしています。
この作品によって、ミレーはようやく画家として王道を歩むことになりました。
酷評
実は「落穂拾い」の発表当時の評判はさんざんなものでした。
ミレーの作品はフランス国内ではなかなか認められず「晩鐘」を注文したのもアメリカ人でした。その理由は描き方にありました。
当時、単独の人物像として描かれたのは身分の高い僧侶や貴族たちでした。しかし、ミレーが描いたのは農夫。あまりにも真に迫りすぎたのでしょう。詩人で批評家のシャルル・ボードレールはこう言っています。
ミレーの農民たちは陰鬱で宿命的な不幸を見せびらかしているので私は憎しみを覚える。
(シャルル・ボードレール)
そんな酷評を一気に称賛に変えたのが「羊飼いの少女」でした。
農民を描く
1814年、ミレーは農家の8人兄弟の長男として生まれました。21歳の時に父が他界。本来なら跡継ぎとして一家を養うのですが、ミレーは絵の修行のため故郷を離れパリへ。
しかし、虚飾に満ちた都会とは肌が合わず34歳の時に寒村だったバルビゾンに移住しました。そして描いたのが農民でした。
農民を描くことは故郷を捨てたミレーにとって懺悔に等しいものだったのかもしれません。いつもミレーはこう言っていました。
たとえ木靴一足分たりとも後ずさりすることなく大地に留まるつもりだ。
(ジャン・フランソワ・ミレー)
「羊飼いの少女」でミレーが描いたのは女性の過酷な労働ではありません。ミレーが描きたかったのはあくまでも農村に生きる人々の普遍的な美しさです。
しかし、ミレーの思いとは逆に作品は農村の貧困を告発する危険な思想だと解釈されてしまいました。そのため、ミレーは政府から行動を監視されていたと言います。結局、政治的意図はないと判断されたものの、作品はいっこうに売れず一家は追い込まれていました。
「優しさ」を加えた
そこでミレーは、絵の販売の仲介を頼んでいた親友アルフレッド・サンスィエに手紙を描きました。すると親友から絵を売るためのアドバイスが。それは「優しく描け」というものでした。
崖っぷちにいたミレーはアドバイスを受け入れ、50歳を目前にして大きく舵を切りました。そして描いたのが「羊飼いの少女」でした。
実はバルビゾンに移り住んだ頃からミレーが関心を寄せていたのが羊飼いでした。星の運行や天体に詳しい彼らは、ミレーの目に神秘的な存在として映ったのです。
羊飼いは伝統的に男性の仕事とされてきました。それをあえて少女に変えた理由がありました。「優しさ」という曖昧なものをミレーはどう描いたのでしょうか?
「羊飼いの少女」は、人も動物も小さくまとまって描かれています。それによって強調されたのが平原の広がりです。羊たちが夢中で草をはむ少女の足元には所々たんぽぽが。
決定的なのが表情の描き方。これまでは作品に普遍性をもたせるため、あえて曖昧にしていましたが、少女の顔は丁寧に描きこまれています。次女ルイーズがモデルだと言われています。
少女が編んでいる毛糸は羊が作り出すものです。羊の命を支えているのは草原です。ミレーが考える「優しさ」とは、ここに描かれた全ての生き物たちの循環であり、命の連鎖なのです。
「羊飼いの少女」は展覧会で1等賞を受賞。ミレーはついにフランスの国民的画家になったのです。ミレーは同じ展覧会に「仔牛の誕生」も出品していました。この作品の評価は最悪だったと言います。
「羊飼いの少女」のおかげでミレーのもとには次々と作品の注文が来るようになりました。ミレーの旺盛な制作意欲は最晩年まで変わることなく、生涯バルビゾンの地にとどまり、大地と結びつく人間の気高さを描き続けました。
「美の巨人たち」
ミレーの「羊飼いの少女」
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