黒田清輝の「智・感・情」|美の巨人たち

黒田清輝作「智・感・情」は、縦180cm、横100cmの大きなキャンパスに描かれた3枚の裸婦像です。

右側が「智」、額に手を当て何か思いつめたような様子です。中央は「感」、どこか冷たく無機質な表情。左側は「情」、恥じらうような表情と仕草。どの裸婦も謎めいた姿で見るものの見る者の想像をかきたてます。

肌は陰影がつけられ写実的ですが、標本のようでリアリティが感じられません。そこにはレオナルド・ダ・ヴィンチにも通じる黒田清輝の挑戦が隠されていたのです。

「智・感・情」は発表当時、大論争を巻き起こした問題作でもありました。ヌードが芸術として認められなかった時代に挑戦状を叩きつけるように発表されたのです。黒田清輝はなぜ裸婦を描かなければならなかったのでしょうか?

日本洋画の原点 謎の裸婦像

黒田清輝は慶応2年、鹿児島県で生まれました。幼い頃、伯父である黒田清綱の養子になりました。清綱は西郷隆盛とも親交があった維新の志士。薩摩の名門華族でした。

黒田清輝はこの家で上流階級の嗜みとして絵を習い始めました。そして18歳の時に、フランスへ留学。しかし、留学の目的は絵の勉強ではありませんでした。

君が法律を学ぶよりも画を学びたる方が日本の為メニモ余程益ならん。などゝ迄申候故、少しく画学を始めかとも思ヒ居候。

法律をやめて絵を勉強すると宣言したのです。

絵の修行を始めると宣言した翌日、黒田清輝はアカデミーの重鎮ラファエル・コランに弟子入り。めきめきと力をつけ25歳でサロンで入選。そして2年後、「朝妝(ちょうしょう)」と題した裸体画で再びサロン入選を果たしました。

パリの画壇で実力を認められた黒田清輝は、「朝妝」を携え日本に帰国しました。これが大論争を引き起こしました。

大批判!裸体画論争勃発

明治28年、第四回内国勧業博覧会に「朝妝」を出品。すると、大批判の嵐に。それまで日本で裸体画といえば、春画のように隠れて見るべきものだったのです。

ところが、黒田清輝は批判を受けても一歩も引きませんでした。

どう考えても裸体画を春画と見なす理屈がどこにある。日本の美術の将来にとっても裸体画の悪いということは決して無い。悪いどころか必要なのだ。道理上、オレが勝だよ。

(友人に宛てた手紙より)

裸体画論争の2年後、さらなる問題作「智・感・情」を発表しました。この謎めいたタイトルについて黒田清輝は…

「智」が理想主義
「感」が印象主義
「情」が写実主義

を意味していると語っています。

裸婦に隠された真の狙い

黒田清輝はフランス留学で裸体画が思想を伝える表現手段の一つということを学び、「智・感・情」を描きました。ところが、当時の日本人には「何を描いているのかわからない」という拒絶反応を植え付けてしまったのです。

古くからヨーロッパでは裸婦は重要なモチーフであり美の象徴でした。ルネサンス期、ボッティチェリは優美な裸婦で幻想的な神話の世界を表現。19世紀半ばにはマネには現実世界を背景に女性のヌードを描き、新たな裸体表現として注目を浴びました。

ところが、20世紀を目前にして裸体画を春画として目をふさぐ日本。黒田清輝は危機感を感じていました。裸体画を芸術だと証明することは、西洋に遅れをとる日本の洋画界の発展のために不可欠な闘いだったのです。

果敢な挑戦

黒田清輝が挑戦の舞台としたのは東京美術学校。明治29年、黒田清輝は教師としてむかえられました。

実は、石膏やヌードをデッサンする教育法は黒田清輝が西洋から持ち帰ったものでした。それまで、絵を学ぶ基本はお手本となる作品の模写でしたが、黒田清輝は実際に観察して描くことを重視したのです。

「智・感・情」もこの教育法によって生まれたものだと言います。

ありえない体型の秘密

絵のモデルとなったのは日本人の女性でした。ところが、体型は少しおかしいのです。明治時代の日本人女性は平均6頭身。しかし、「智・感・情」の女性たちは7.5頭身で描かれています。

石膏やヌードデッサンに励んだ黒田清輝が、なぜ見たままでない裸婦を描いたのでしょうか?

黒田はフランス留学中にコランの下で沢山のヌードデッサンをこなしてきた。かなりポーズが智・感・情に近いものもあったりしますので、目の前のモデルをそのまま描いたのではなく、そういったものも参考にしながら西洋の美術の目線で理想的な裸体像を描いた。(東京文化財研究所 塩谷純さん)

「ウィトルウィウス的人体図」は、レオナルド・ダ・ヴィンチが理想的な人体の比率を描いた一枚です。そこに、「感」の女性を重ねてみると体のバランスがほぼ一致します。

さらに、平成14年の赤外線調査で黒田清輝の執念が明らかになりました。「智」では左胸の位置を上げバランスを調整。「情」では足を太くしています。黒田清輝は理想のフォルムを作り上げるため、発表後も何度も手を加え続けていたのです。

赤い輪郭線と金地の秘密

「智・感・情」は写実的な裸婦なのに、なぜか赤い輪郭線で縁取られています。さらに、何も描かれない背景。今はだいぶ剥落していますが、かつて全体は金箔がほどこされ、金色に輝いていました。

金の背景は、総金地といって古くから日本の絵画で使われる表現です。そして、赤い輪郭線は仏画に由来しているという説があります。西洋的な体型の裸婦を描きながら、日本の伝統的な金地や赤い輪郭線を用いたのです。

発表から3年後の明治33年、「智・感・情」は再び人々の前に姿を現しました。パリ万国博覧会に「湖畔」と共に日本の洋画の代表として出品されたのです。「智・感・情」を描いた最大の目的はそこにありました。日本の洋画の水準を世界に認めさせることだったのです。

金地の背景や赤い輪郭線など和の伝統を取り入れた裸体画は、日本の洋画初の銀牌を受賞しました。

「美の巨人たち」
黒田清輝の「智・感・情」

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