「ぞうさん」「やぎさんゆうびん」など日本中で愛される童謡の生みの親であるまど・みちおは、2014年に104歳で亡くなるまで、世界を子供のような目で眺めその発見を瑞々しい言葉で詩にしてきました。
そんなまど・みちおには、もう一つ創作にうちこんだものがありました。絵です。特に50代の頃に盛んに描きました。3年半で100点以上。そのどれもが何を描いたのかハッキリしない不思議な作品ばかりです。
まど・みちおは絵を押し入れにしまいこみ、それは長い間秘密のままになっていました。
まど・みちおの不思議な絵が世に知られるようになったのは20年程前。児童文学を研究する谷悦子さんが見つけたのがきっかけでした。まど・みちおの聞き書きを重ねていた谷悦子さんは、長く眠る絵があることを知ったのです。
まど・みちおが絵に熱中したのは童謡「ぞうさん」で人気を博した10年後、50代をむかえた頃でした。一体なぜ絵に没頭したのでしょうか?
なぜ絵を描くようになったのか?
まど・みちおが童謡を作り始めたのは1930年代。建築の仕事をしていた時でした。詩を作ることが大好きだった20代のまど・みちおは童謡を募集していた絵本雑誌に5つの作品を投稿。そのうちの2品が童謡の第一人者・北原白秋によって特選に選ばれました。
童謡の道に本格的に進みたいと考えるようになり、その願いが叶ったのは終戦後の1948年。童謡を載せる児童雑誌の編集者となり、自らも創作にはげみました。
そして一晩で書き上げた「ぞうさん」が瞬く間に日本中に広まりました。42歳でのヒット曲でした。さらに「やぎさんゆうびん」「ふしぎなポケット」などユーモアにあふれる童謡を次々と生み出しました。
しかし、まど・みちおは行き詰まりました。舞い込む童謡の依頼をこなすので手一杯になり、自分は本当は何が作りたいのか分からなくなっていったのです。
そして、50歳で心置きなく理想の童謡を追及しようと雑誌の仕事を辞め独立。しかし、時代は大きく変わろうとしていました。テレビを通して新しいものが家庭に届けられるようになったのです。
子供の歌にも流行り廃りが出始めました。流行のリズムやポップス調の歌が人気を集め、詩の言葉に重きをおいた童謡は次第に求められなくなっていったのです。まど・みちおが不思議な絵を描いたのはこの時期です。
まど・みちおが不思議な絵を描き始めたのは51歳の春。半年で60枚以上を描きました。絵を学んだことがないまど・みちおの描き方は全くの自己流でしたが、思いを吐き出すうち色々な表現ができる絵の面白さにのめりこんでいきました。
兄の死
絵に熱中して1年が過ぎた頃、2つ離れた兄・守槌が亡くなりました。幼い頃から活発で優等生だった守槌はまど・みちおにとって自慢の兄でした。このことにより残りの時間を強く意識したと言います。そして自分が本当に作りたいものは自分の中から生み出す美だと気づきました。
不思議な絵を描き始めて3年、まど・みちおは一枚の絵を「墓標」と名付けました。それまでの自分に別れを告げ、新しい道に進む日々はすぐそこまで来ていました。
美の原点
まど・みちおが求めた美の原点は幼少期までさかのぼります。まど・みちおは幼い頃に台湾に渡った両親や兄弟と離れて暮らしました。4年間、祖父と二人で過ごしたのです。
両親のぬくもりの代わりに幼いまど・みちおを包んだのは豊かな自然。草花や小さな生き物たちでした。小さいかすかなものの中に遥か宇宙にまで繋がる力を感じ、その感覚こそ自分だけの切なる美であることに気づいたのです。
そして、まど・みちおはその思いを詩に託しました。58歳で初の詩集を発表。詩人まど・みちおの再出発でした。不思議な絵の果てに、瑞々しい言葉の宇宙を見つけたのです。
「日曜美術館」
まど・みちおの秘密の絵
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