太平洋戦争末期の昭和20年、沖縄で日本軍とアメリカ軍が激しい戦いを繰り広げました。死者は軍民合わせて20万人。沖縄県民だけで少なくとも12万人にのぼります。住民の犠牲は地上戦としては国内最大のものとなりました。しかし、一家全滅も相次ぎ被害が甚大だったため正確な全体像は分かっていません。
アメリカ軍が沖縄本島への上陸作戦を開始したのは4月1日。開発されたばかりの最新の兵器も投入されました。アメリカ軍は総勢54万。
太平洋戦争の当初、広大な地域に進出した日本軍でしたが、アメリカを中心とする連合国軍はアジア太平洋の島を次々に制圧。日本の絶対国防圏を突破し、日本本土に迫りました。
日本軍は沖縄に10万の兵を集め、本土への侵攻を食い止めようとしました。大本営は沖縄を本土防衛の最前線と位置づけ、現地の第32軍に1日でも長く時間を稼ぐ持久戦を求めました。
4月1日、午前8時30分、アメリカ軍は沖縄本島に上陸。北飛行場と中飛行場を制圧。日本軍の司令部がある首里を目掛けて南下しました。上陸地点で亡くなった住民は292人。疎開計画は思うように進んでおらず戦場に住民の多くが残っていました。
日本軍はこの周辺にはほとんど兵力を展開していませんでした。沖縄の32軍は大本営から持久戦を求められたため、限られた兵力を司令部周辺に固めるしかなかったのです。
4月20日、伊江島で死者数が突出。わずか1日で島の全犠牲者の半数を占める781人が亡くなっていました。アメリカ軍の狙いは伊江島にある巨大な飛行場。日本本土への攻撃拠点の一つにしようとしていました。第32軍は飛行場を自ら破壊し、伊江島を守る十分な兵力はありませんでした。32軍の長勇参謀長は戦争の直前、県民にこう呼びかけていました。
全県民が兵隊になることだ。即ち一人十殺の闘魂をもって敵を撃砕するのだ。
斬り込みとは、手製の爆弾などを抱えて敵に突っ込む捨て身の攻撃です。日本軍の残留部隊が最後の攻撃をかけた4月20日、島の女性たちも斬り込みを行っていました。戦争末期、一億玉砕を掲げた日本は天皇を中心とした国家を守るため、軍人だけでなく一般の国民も命を顧みないという考えが広まっていました。伊江島ではいわゆる集団自決も起きていました。
大城安信さん(79歳)はアメリカ軍の攻撃で家を失い、ガマに両親と共に逃れました。周りには親戚や近所の人たち26人がいました。軍に召集されていた親戚の一人が「今から死ぬ」と叫び爆弾を爆発させました。生き残ったのは4人だけだったと言います。伊江島では残っていた住民3000人のうち1500人が命を落としました。
4月終わりから5月にかけて、本島では沖縄戦最大の攻防が繰り広げられていました。日本軍の司令部があった首里をめぐる戦いです。アメリカ軍は100m先まで焼き尽くすことができる火炎放射器を搭載した装甲車で攻撃。アメリカ軍は戦場に残った住民の被害を極力抑える方針だったと言います。
しかし、4月下旬までで1万3800人の住民が亡くなり、首里をめぐる攻防の1ヶ月間では2万1600人が犠牲となっていました。その多くが沖縄戦の直前に軍に動員されていました。防衛召集という制度で集められた沖縄の人たちです。
沖縄では2万2000人以上が防衛召集されました。
日本軍はアメリカ軍の圧倒的な火力を避けるため、地下壕に隠れ敵を待ち伏せる作戦をとりました。こうした地下壕で軍民が混在する状況が生まれ住民の犠牲がさらに膨らんでいったのです。
5月14日、アメリカ軍が日本軍の司令部目前に迫りました。シュガーローフと呼ばれる丘をめぐっては11回も攻守が入れ替わる激しい戦いが繰り広げられました。アメリカ軍の報告書によれば、海兵隊の死傷者は4000人にのぼりました。
アメリカ軍は地下壕を見つけ出しては逃げ道を断ち、火炎放射器で中を焼き尽くす攻撃を繰り返しました。しかし、その中には住民たちもいました。
5月31日、首里の日本軍司令部が陥落。日米の激しい戦いは事実上の決着がつきました。
しかし首里が陥落した後、6月以降も4万6042人の住民が犠牲となっています。事実上の決着がついていたにも関わらず全体の6割近くが命を落としていたのです。なぜ戦闘は継続したのでしょうか?
32軍では首里で最後の決戦にのぞむか、南部に撤退し持久戦を継続するか意見が分かれていました。司令官の牛島満は少しでも時間を稼ぐため、南部で戦いを続ける決断を下しました。沖縄本島最南端に司令部を移した第32軍。防衛召集などで動員された人たちや、行き場を失った住民たちも南部に殺到。ひしめき合う状態が生まれていました。
6月、アメリカ軍は南部で掃討戦を開始。海からも南部を包囲し、艦砲射撃を浴びせました。6月23日、「最後まで戦え」という命令を残し牛島満司令官が自決。日本軍の組織的戦闘は終わりました。
「NHKスペシャル」
沖縄戦 全記録
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