妻が見た二・二六事件
昭和11年2月26日未明に起きた二・二六事件は、陸軍青年将校に率いられた1500人の兵士が首相ら政府要人を襲撃し9人が殺害された事件です。首相官邸や警視庁など東京の中枢をわずか数時間で占拠。天皇親政を目指し国家改造を実現しようとしたこの行動は、近代日本史上最大のクーデター事件と言われています。
鈴木貫太郎
当時、鈴木貫太郎は昭和天皇の側近の侍従長でした。毅然とした態度の鈴木貫太郎に銃弾4発が打ち込まれました。
もともと鈴木貫太郎は生粋の海軍軍人でした。日露戦争では、ロシアのバルチック艦隊と砲火を交え日本軍の勝利に貢献。その後、鈴木貫太郎は連合艦隊司令長官そして海軍軍令部長を歴任。海軍トップにまでのぼりつめました。
40年に及ぶ軍人としての人生の中で、彼には「軍人は政治には関与せざるべし」という揺るがない信念がありました。
ところが昭和4年、思いがけなく天皇との縁が生まれました。宮中の重要な役職である侍従長に推挙されたのです。見込まれたのは君側の忠、私利私欲なく天皇に仕えるであろう誠実な人柄でした。
侍従長とは天皇の身の回りの世話をするのが役目です。しかし、それにとどまらず公私両面で天皇の相談相手になったり、首相や大臣が拝謁する場に同席したりするなど重要な職務をにないました。
しかし、二・二六事件の首謀者たちは「君側の奸」天皇の側で悪政を行う者とみなしました。鈴木貫太郎は、国家体制を破壊する重臣の一人として標的とされたのです。
妻・たかは、鈴木貫太郎の胸や頭に手を当て無我夢中で止血にあたりました。しかし、鈴木貫太郎は血の海につかっているようで、駆けつけた医者が流れ出た血で滑って転ぶほどで一時は脈も絶えたと言います。
一方で、たかは宮中に鈴木貫太郎の大事を告げました。昭和天皇はこれらの部隊を反乱軍とみなし断固鎮圧を命じました。二・二六事件は4日で収束しました。鈴木貫太郎は妻たかの素早い処置のおかげもあってか奇跡的に一命をとりとめました。しかし、長くつとめた侍従長を退くことになりました。
昭和20年8月15日、アメリカなど連合国を相手に太平洋戦争を戦った日本は、ポツダム宣言を受諾し終戦をむかえました。この終戦にいたる大変な時期に総理大臣となったのが鈴木貫太郎。でも、鈴木貫太郎自身は首相就任の要請があった当初、再三固辞しました。すでに77歳という高齢で耳も遠いこと、そして「軍人は政治に関与せざるべし」という信念が理由でした。
その鈴木貫太郎に対し直々に懇願したのが昭和天皇でした。天皇に頼むとまで言われた鈴木貫太郎はついに承諾。昭和20年4月、首相に就任しました。
その頃、もはや日本の敗北は決定的。しかし、戦争を継続し本土決戦に望むべきだという動きもありました。そうした中、戦争をどう終わらせるかということは非常に重く難しい問題でした。
まことに異例ではございますが・・・
昭和20年8月9日の朝、鈴木貫太郎は皇居の地下防空壕で開かれた緊急の会議にのぞんでいました。議題は2週間前に連合国側から突きつけられたポツダム宣言を受け入れるか否か。
ポツダム宣言は日本に対する降伏勧告でした。連合国側による日本占領や軍隊の武装解除、戦争犯罪人の処罰などを強く求めていました。日本はこの会議の3日前、広島に原爆を落とされ一瞬にして多くの人の命を失いました。さらに、会議の日の未明にはソ連が満州に攻め込んでいました。日本はポツダム宣言受諾を具体的に検討しなければいけない状況に追い込まれていたのです。
鈴木貫太郎を含め会議の出席者は、ポツダム宣言を受諾するしかないという点では一致していました。ただ問題は受け入れるにあたって日本側から条件をつけるかどうかでした。
外務大臣の東郷茂徳から出されたのが、条件を1つだけに絞るべきだという意見。その1つとは国体護持。国体とは、大日本帝国憲法の下で天皇を統治者と定めた国のあり方のこと。これに反対した中心人物が陸軍大臣の阿南惟幾でした。
阿南は国体護持は当然のこと、それに加えて占領は短期間かつ小範囲。そして、武装解除と戦争犯罪人の処罰は日本側が行うという条件を主張しました。こうした条件をつけてこそ国体を守ることが可能だという考えでした。
会議の最中、2発目の原爆が長崎に投下されました。しかし、その情報が入っても議論は延々と続きました。鈴木貫太郎は、会議で結論を導くことは出来ませんでした。
そこで、臨時閣議を開き、そこに議論の場を移しました。しかし、ここでもポツダム宣言受諾の条件をめぐって東郷外務大臣と阿南陸軍大臣が対立する構造は同じ。他の閣僚の意見も割れました。
閣議が始まって6時間以上経っても合意には至らず、頼みの綱は昭和天皇でした。膠着した事態を打開するため、鈴木貫太郎は御前会議を開き天皇臨席のもとで方針を決定しようとしました。
日付が変わった8月10日、午前0時過ぎ、異例の時刻に御前会議が始まりました。しかし、2時間経っても結論は出せません。ついに、鈴木貫太郎は天皇に決断を仰ぎました。本来、天皇は大日本帝国憲法体制のもとでは、政府の決定事項に対して裁可を行う存在でした。決定された事柄の責任は政府がおうと定められ、天皇は無答責、つまり責任をおわないとされていたのです。天皇に判断を委ねることはまさに異例でした。
沈黙を守り議論を聞いていた天皇は鈴木貫太郎に促される形で「わたしの意見は先ほどから外務大臣の申しているところに同意である」と発言しました。天皇による聖断により、日本側から出す条件は国体護持の一点にする方針が決まりました。
それを受け日本政府は連合国側に対し国体護持の一条件が守られるという了解の下にポツダム宣言を受諾すると通告。その確認を求めました。
8月12日、連合国側から回答がありました。しかし、それは国体護持について具体的に答えず判断に迷う文章を含んでいました。異議を唱えたのが陸軍大臣の阿南。陸軍は不満をあらわにしました。
畏れ多いことながら再度の御聖断を!
8月13日、再度最高戦争指導会議が開かれました。この日、鈴木貫太郎はそれまでになく明確に自らの意見を述べました。ポツダム宣言受諾に反対する意見を非常識とし、強い言葉で非難したのです。
実は会議に先立ち海外からの1通の緊急電報が鈴木貫太郎のもとに届いていました。それは連合国側からの回答文の作成過程を伝える内部情報でした。そこには、日本が人民主権に基づく西洋流の立憲君主制をとるべきことが記されていました。つまり、その制度ならば例え日本が降伏しても天皇と皇室は存続を認められると解釈することが出来たのです。電報の内容は昭和天皇にも伝えられたと考えられています。天皇は陸軍大臣の阿南を呼び出し「阿南、心配するな。自分には確証がある。」と述べたと伝えられています。
13日の午後、臨時閣議が開かれました。その席でも阿南はポツダム宣言の即時受諾には同意しませんでした。当時、陸軍内部には戦争の継続を唱える主戦派が多く、クーデターによる軍部主導の政権樹立もじさない構えでした。中堅将校たちは阿南のもとに押しかけ「もしもポツダム宣言受諾を阻止できなければ大臣は切腹すべきである」と言ったそうです。
8月14日、鈴木貫太郎は天皇に御前会議の開催を願い出ました。天皇は承諾し軍部によるクーデター計画を防ぐため、自ら御前会議の時間を繰り上げました。昭和天皇と鈴木貫太郎の考えは一致していました。
午前11時過ぎ、再び御前会議が開かれ、鈴木貫太郎は天皇に再度の聖断を仰ぎたい旨を述べました。
自分の先般の考えに変わりはない。国体に動揺を来すというがそうは考えない。戦争を継続することは結局国体の護持も出来ずただ玉砕に終わるのみ。どうか反対の者も自分の意見に同意してほしい。
そして、日本はポツダム宣言受諾の結論に辿り着きました。阿南もポツダム宣言の受け入れを認めました。陸軍将校たちの怒りは爆発しましたが、阿南の意思は揺らぐことはありませんでした。
実は阿南は鈴木内閣の一員として陸軍大臣となったあと、その胸中をこう語っていたと言います。
自分の立場は苦しいんだ。苦しいんであるけれども必ず鈴木総理と進退を共にするのだ。また日本を救い得るというのはどうも鈴木内閣以外にないように思う。
その夜、阿南は鈴木のもとを訪れました。そして翌朝、阿南は天皇のいる宮中に向かい割腹。自決しました。
昭和20年8月15日に終戦。鈴木貫太郎は閣僚の辞表をとりまとめ昭和天皇に奉呈。内閣総辞職しました。その鈴木貫太郎を天皇は「御苦労かけた」と労いました。昭和天皇は自らの聖断で戦争が終わったことに触れこう述べたと言います。
私と肝胆相照した鈴木であったからこそこのことが出来たのだ。
鈴木貫太郎は公職から退き、現在の千葉県野田市関宿で妻たかと余生を送りました。終戦から3年経った昭和23年、鈴木貫太郎は亡くなりました。鈴木貫太郎は死の床でたかに背中をさすられながら「永遠の平和 永遠の平和」とつぶやいたと言います。
今、鈴木貫太郎はたかと一つ小さな墓で眠っています。彼は生前に自らの戒名を決めていました。その中には「尽忠」の文字が。死してなお昭和天皇に誠心誠意を尽くすという意味が込められているかのようです。
「歴史秘話ヒストリア」
天皇のそばにいた男 鈴木貫太郎 太平洋戦争最後の首相
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