フィレンツェ あなたの知らないルネサンスの栄華|地球ドラマチック

今日、フィレンツェは芸術や建築、そして名物のジェラートで観光客を魅了しています。しかし、フィレンツェの魅力はメディチ家という一族の財力と権力がなかったらありえなかったでしょう。

 

華麗なる一族 メディチ家

メディチ家が栄え始めたのは12世紀末頃から。13世紀に入ると羊毛の加工貿易によって富を得ました。しかし、真の大富豪となったのが銀行を立ち上げて成功してからです。

 

その後、メディチ家はフィレンツェを影で操るようになり、16世紀には完全に街を支配しました。彼らは莫大な富を単に酒や賭け事などには使いませんでした。フィレンツェを美しい記念碑のような存在へと作り替えることに費やしたのです。

 

メディチ家は世界最高の芸術家たちのパトロンでした。フィレンツェの黄金時代は大聖堂のドーム建設から始まったと言えます。

 

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂が完成したのは1436年。何よりも驚くべきは今日に至るまでドームがどのように建設されたのかを誰も知らないということです。

 

巨大ドーム 建設の謎

ドームの直径は45メートル。内側には「最後の審判」の光景が描かれ天国と地獄を同時に見ることができます。大聖堂は成長するフィレンツェの力を誇示する目的で1296年から建造が始まりました。

 

しかし、誰も巨大なドームを作ることができませんでした。そのような技術はローマ帝国の滅亡と共に失われていたのです。

 

建物の大半は1418年までに完成しましたが、大聖堂にはドームがなく、聖堂内は風雨にさらされていました。メディチ家を含む有力者たちはこの問題を解決できる人物を見つけるためコンペを開きました。

 

フィリッポ・ブルネレスキが名乗り出ました。しかし、ブルネレスキはドームの具体的な建造方法を教えようとはせず「とにかく自分を信用して任せてほしい」とだけ言いました。

 

建築家としてのキャリアがなかったブルネレスキがドームの建造を手掛けることになりました。しかし、彼は具体的な設計案を決して他人に明かしませんでした。そのため、ドームがどのようにして作られたのかは今も謎に包まれたままなのです。

 

15世紀にはメディチ家は大富豪となり、フィレンツェはイタリアの金融の中心地となり、人々はそれにふさわしい大聖堂を求めました。1436年、フィレンツェのドームは完成しました。

 

メディチ家 光と影

ブルネレスキのドームはフィレンツェを有名にし、創造性と革新性のうねりを巻き起こしました。メディチ家の野心と権力もさらに増大し、大聖堂以外にも様々な建物をフィレンツェに建設していきました。

 

ヨーロッパ中世の王家と違い、メディチ家の富や権力には絶対的な正当性がありません。そのため彼らは様々な策をこうじて、自分たちの地位を誇示しようとしました。

 

メディチ・リッカルディ宮殿コジモ・デ・メディチによって建てられました。メディチ家の政治的基盤を築き上げた人物です。その頃、メディチ家の人間はまだ政治権力の座にはついていませんでしたが、銀行取引を通じて権力を欲しいままにしていました。

 

1478年、メディチ家の人間が命を狙われる事件が起きました。一人は暗殺されましたが、もう一人は建物に逃げ帰り報復の準備を始めました。この事件はライバルのパッツィ家の人間の陰謀でしたが、彼らの味方をしてメディチ家に盾突く者はいませんでした。

 

その後、80人が捕らえられ即座に処刑されました。庁舎の一番上の窓から首を吊るされ、見せしめのため遺体はしばらく放置されました。

 

ルネサンスの美の影には暗く残酷な面や卑劣な競争がありました。

 

美の影の裏社会

 

フィレンツェには居酒屋を中心とした独特のカルチャーがありました。街には血気盛んな男たちの集団がいくつもあって、彼らはいつも居酒屋にたむろしていたんです。今でいうギャング団ですね。そうした男たちは特定の祝日になるとできる限り華やかな服で着飾ります。そして絶えず競い合います。例えば自分たちの縄張りの大きさについて、あるいは自分の地位について。

(社会歴史学者デヴィッド・ローゼンタール)

 

過去にはカルチョ・ストーリコのような激烈な競争が、有力な家同士の間で繰り広げられていました。それぞれの家は政治権力だけでなく、芸術や建築についても互いに競い合っていたのです。

 

このような果てしない競争が無限の創造性に繋がっていきました。

 

ミケランジェロ vs.メディチ家

メディチ家は新しい霊廟を作るためミケランジェロを雇いました。コジモは1464年に亡くなりましたが、孫のロレンツォ・デ・メディチがミケランジェロの才能を見いだしました。まだ14歳のミケランジェロを引き取り、自分の息子たちと一緒に教育を受けさせたのです。ミケランジェロはメディチ家の一員になりました。

 

しかし、ミケランジェロとメディチ家の関係は長続きしませんでした。1527年、フィレンツェの人々はメディチ家に反旗を翻し、メディチ家は街から追放されました。その際、ミケランジェロは反乱者側につきました。

 

しかし、メディチ家は権力の座に返り咲きました。ミケランジェロは身の危険を感じ3カ月間、教会の地下室で隠れて暮らしました。ミケランジェロは書き残しています。

 

霊廟にいるメディチ家の死者と同じく葬られたような気分だった。恐怖を忘れるため壁いっぱいに絵を描いた。

 

400年以上の間、隠れ家がどこにあるのか分かりませんでした。隠れ家が発見されたのは1975年。描かれている絵がミケランジェロの作品かどうかには議論もありますが、本物だと考える研究者もいます。

 

ミケランジェロが隠れていた教会の地下室からメディチ家の邸宅まで数百メートルしか離れていません。これには危険と共に利点もありました。すぐ近くにいることでメディチ家の動きを探り、必要な時にはすぐ逃げることができたからです。

 

ミケランジェロには別の隠れ家を提供してくれる友人がいました。友人は教会で何年も働いていたため秘密の抜け道の存在を知っていました。秘密の抜け道のゴールは友人の家の中庭に通じる戸口でした。

 

ルネサンスの栄華

1532年にメディチ家は権力の座に復帰しました。彼らは街を取り戻すために武力をもちい、目的を果たした後も反乱者を厳しく弾圧しました。ミケランジェロとの間には取引が成立。礼拝堂を完成させるという条件で全てが許されたのです。

 

ヴェッキオ宮殿はメディチ家の新たな拠点となった場所です。コジモ1世はベッキオ宮殿から街を支配しましたが、メディチ家の体質は変わりませんでした。

 

人々の目から隠されたいくつもの部屋は、メディチ家が秘密を好んだことを表しています。建物の中央にあるのはフィレンツェの議会が開かれた大広間。その周りには様々な迷宮が存在しています。

 

メディチ家の人々は警戒心が強かったので、気軽に群衆の中を歩くような真似はしませんでした。彼らは混みあった道の上に専用の回廊を作りました。その基点となるウフィッツィは、今では世界的な美術館です。

 

秘密の回廊

メディチ家専用の回廊の名前は設計者の名前からヴァザーリの回廊と呼ばれています。回廊は街を横切り川の南にある宮殿まで続いていました。外からは存在を気づかれることなくフィレンツェの道の上に延々と続いています。

 

ヴァザーリの回廊を作った公式の理由は、コジモ1世の息子の結婚です。花婿、花嫁には婚礼衣装を汚さずに歩ける道が必要だということです。しかし、明らかにそれだけが理由ではありませんでした。

 

メディチ家は度々暗殺などの深刻なトラブルに見舞われました。コジモ1世は彼ら専用の秘密の回廊を作ることで身を守ろうとしたのです。秘密の回廊は、メディチ家がフィレンツェの人々からどう思われているのかを理解していたことを象徴しています。

 

秘密の回廊はフィレンツェ最古の橋ヴェッキオ橋の上も通っています。約1キロ歩くとピッティ宮殿の庭に到着します。メディチ家が新たな住まいとした場所です。庭の一番上からは街全体を見下ろすことができます。

 

メディチ家は18世紀まで権力の座にとどまりましたが、やがて家系が途絶えました。最後、メディチ家は所有した芸術品や建築物などをフィレンツェの街の公共財産として寄贈する約束をしました。

 

ITALY’S INVISIBLE CITIES FLORENCE
(イギリス 2017年)

「地球ドラマチック」
あなたの知らないフィレンツェ
~3Dで再現!ルネサンスの栄華~

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