放射能 マリー・キュリーが愛した光線|フランケンシュタインの誘惑

世界で最も有名な女性科学者

マリア・スクウォドフスカ(後のマリー・キュリー)は1867年、ポーランド・ワルシャワで生まれました。幼い頃から科学への関心と才能を発揮し、24歳でパリのソルボンヌ大学に入学。研究者としての道を歩み始めました。

 

1895年、物理学者ピエール・キュリーと結婚。女性と進学が珍しかった当時、大学を卒業しても研究者としての働き口はありませんでした。ピエールが勤めていた専門学校の物置小屋を実験室代わりにして研究テーマを探していました。マリー・キュリーが目をつけたのは当時発見されたばかりの不思議な光線でした。

 

1895年、ヴィルヘルム・レントゲンが見つけたX線。目に見えないX線は人体の内部まで見ることができます。レントゲンはこれを「新種の光線」と題した論文で発表。不思議な光線に世界が熱狂しました。

 

1896年、フランスの物理学者アンリ・ベクレルがX線に似た線質の別の光線がウランから放出されているのを発見。目に見えない光線の研究に世界中の科学者が取り組み始めました。20代だったマリー・キュリーもこの光線の研究に没頭していきました。

 

ウランは目に見えない光線を自ら発し続けています。そのためのエネルギーはどこから得られているのか?マリー・キュリーはエネルギーが生まれる原因を突き止めようとウランに熱を加えたり、湿り気を与えたりするなど、あらゆる条件のもとで光線の強さを計測しました。

 

この光線の強さの計測にはピエールの知識と技術が不可欠でした。ピエールが発明した測定器が使われました。徹底した実験と緻密な計測、どんな条件でも光線の強さは変わりませんでした。

 

そこからマリー・キュリーが導き出した結論は科学界に衝撃を与えました。全ての物質を構成する原子の概念を根底から覆してしまったからです。

 

原子は古代ギリシャ以来、物質の最小単位であり決して変化しないと考えられていました。しかし、マリー・キュリーは「光線の源になるエネルギーが他に存在しない。これはウランそのもの、つまり原子そのものが変化して光線を発していることを意味する。」と断言しました。

 

マリーの発見は「原子」とは何かに迫りました。全ての物質は原子で構成されています。原子そのものが変化するとすれば物質もこの世界そのものも一定不変ではありえないことになります。これは全く新しい考えでした。

(キュリー博物館ロナウド・ウィン館長)

 

マリー・キュリーはこの光線を自然発生する性質を「ラジオアクティビテ(放射能)」と名付けました。目に見えない不思議な光線は「放射線」と呼ばれました。

 

さらに、マリー・キュリーはある鉱石の中からウランより強い光線が出ていることを発見しました。当時、存在が明らかになっていた80以上の元素すべてについて放射線の強さを測ったマリー・キュリーは、それらとは違う未知の放射性元素が存在するはずだと考えました。

 

そこで、鉱石を一つずつ細かく砕き蒸留して成分を分離。4年の歳月をかけ調べた鉱石は8トン。その中に0.1gだけ含まれていた未知の放射性元素を取り出すことに成功しました。マリー・キュリーはこの元素をラジウムと命名しました。

 

1903年、放射能の研究が評価されマリーとピエールは2人でノーベル賞物理学賞を受賞。マリー・キュリーは世界初となる女性のノーベル賞受賞者として歴史に名を刻みました。

 

マリーと夫 放射能への愛

マリー・キュリーとピエールは自分たちが発見した放射性元素ラジウムの性質について様々な実験を試みています。例えばピエールはラジウムを自分の腕にはり経過を観察。ピエールの腕は火傷のように赤くただれました。これはラジウムから発せられる放射線によって細胞がダメージを受けた状態。いわゆる放射線障害です。

 

この結果に対する二人の反応は意外なものでした。

 

やけどができてうれしい。妻も私と同様に喜んでいる。

(知人に宛てたピエールの手紙)

 

細胞を破壊してしまうラジウムの放射線は病気の治療に利用できると考えたのです。ラジウムを使えば、がん細胞を殺すことができるかもしれない。マイナスをプラスに変える逆転の発想でした。

 

2人は生体への影響をさらに調べるためマウスをラジウムと一緒に容器に入れて観察。すると、全てのマウスが9時間以内に死亡しました。マウスの肺からは非常に強い放射線が検出され、白血球の多くは破壊されていました。

 

それでも2人はラジウムは何かの役に立つはずだと研究を続けました。

 

科学者のこのような態度にはある種の感動をおぼえます。科学的な好奇心にかられ人類に役立つ結果を導き出すためには自分の体を使ってでも実験しています。ラジウムが病気の治療に使えるかもしれないという光の面だけしか目に入らなかったのです。科学は人類の幸福に貢献するためにあると二人は信じていました。

(キュリー博物館ロナウド・ウィン館長)

 

人生には恐れなければならないものは何もありません。理解しなければならないものがあるだけです。

(マリー・キュリー)

 

 

科学は彼女にとってキリスト教でいう聖杯のような、この上なく神聖なものだったのです。マリーは科学に執着し愛していました。常に科学に身をささげていたのです。

(作家ジャーナリスト バーバラ・ゴールドスミス)

 

二人は特許を取らずラジウムを取り出す技術を全面的に公開しました。

 

自分たちのラジウムに関する情報を公開し研究が進むように他の研究室にサンプルを提供しました。放射能の研究を人類の幸福のために社会のためにもっともっと発展させるのだという信念があったのです。

(キュリー博物館ロナウド・ウィン館長)

 

2人は放射能とラジウムの研究にますますのめり込んでいきました。ラジウムは暗闇で青白く光る性質があります。

 

暗闇を打ち消そうとするかのようなその光はいつも私たちをうっとりさせました。

(マリー・キュリー著「自伝的ノート」より)

 

愛が壊れるとき

1906年、マリーは一度の流産を経て、2人目の娘を出産。子供の世話に追われていました。

 

4月19日、ピエールはマリー・キュリーに実験室にもう少し顔を出すように言いました。しかし、マリーは「行けるかどうか分からない。無理を言って困らせないで欲しい」と言いました。ピエールは一人仕事に向かいました。

 

放射能の研究を続ける中で、数年前から体調不良に悩まされていたピエール。この頃、足取りがおぼつかなくなっていました。ピエールは馬車に轢かれ亡くなりました。

 

マリーは身じろぎもしなかった。誰かの腕の中に倒れこみもしなければうめきもせず泣きもしない。まるで人形のようになってしまっていた。

(次女エーヴ・キュリー著「キュリー夫人伝」より)

 

愛する夫、何より科学に身を捧げる同志の喪失でした。マリー・キュリーはピエールが死んだ時に身に着けていた服をずっととっておきました。そこにはピエールの脳の欠片がこびりついていました。その腐った残骸を瞬きもせず見つめ、触り、我を忘れてキスをしたと言います。

 

マリー・キュリーは再び研究漬けの日々に戻りました。ピエールと共に進めていた放射能の研究を一人黙々と続けました。

 

あなたとの思い出に心を浸し、あなたの誇りとなることだけが私の生きる支えです。

(マリーの日記より)

 

 

マリーの娘たちはピエールが死んだその日から母の人格がガラッと変わったのを目の当たりにしました。マリーは研究に身をささげ「放射能」だけに執着したのです。

(作家ジャーナリスト バーバラ・ゴールドスミス)

 

母との時間を失った娘たち。長女イレーヌはマリーにこんな手紙を送っています。

 

私の優しいお母さん。いつ私たちのところに戻ってくるのですか。お母さんが戻ってくれば、とても幸せです。私はとても抱きつきたいからです。

(イレーヌの手紙より)

 

しかし、マリー・キュリーが見ていたのは科学だけでした。この頃、マリーは子供たちについて日記にこう綴っています。

 

どちらも優しくかわいくいい子です。ですが、娘たちでは私の生命力を呼び覚ますことはできないのです。

(マリーの日記より)

 

ラジウム狂想曲

マリー・キュリーが発見したラジウムは、特許を取らなかったことも後押しし、その利用が広がっていきました。ラジウムががん治療に役立つというキュリー夫妻の発表をきっかけに1910年代には多くの病院でラジウム治療が実践されるようになっていました。

 

ラジウムは「生命の万能薬」「魔法の力」ともてはやされ、様々な商品にラジウムが配合されました。美しい肌を作るとうたわれたラジウム入りの化粧品。強壮剤になるというふれこみのラジウムウォーターを作るポット。パンや入浴剤などラジウム商品が続々登場しました。

 

そうしたラジウム商品の中から恐ろしい事件が発生しました。ラジウム時計です。文字盤をラジウム入りの塗料で塗り暗闇で見えるようにしたものです。特にアメリカで大量に生産されました。1920年には400万個のラジウム時計を生産。文字盤を塗る工員だけで2000人以上が働きました。その多くが若い女性でした。彼女たちは細かい塗装を施すため、ラジウムがついた筆を舐めてとがらせました。

 

女性たちは次々に病に倒れました。顎にできた腫瘍、細胞の腐敗が起こり激しい痛みの中で死んでいったと言います。彼女たちは後に「ラジウムガール」と呼ばれることになりました。

 

ラジウムは体に取り込むと骨に沈着し、長期間にわたり絶えず放射線を出し続けます。そして、あごが崩壊し壊死します。さらに、崩壊が進むと下あごが完全に取れてしまいました。

(イリノイ大学公衆衛生学ロス・ミュルナー教授)

 

ニュージャージー州にあるラジウム時計の工場跡地は、かつては高い放射線が検出されていました。除染作業には10年の歳月を要したと言います。

 

ロナルド・ウィリアムスさんの母親はイリノイ州にあったラジウム時計の工場で3年間働きました。筆先を舐めずに仕事をしていたため、幸いにも被害を免れと言います。

 

女性たちはみんな健康的で若々しくおしゃれをしたり高収入を得たいと思っていました。より多くの文字盤を塗って少しでも稼ごうとして筆の先を舐めたのです。会社側は何度も繰り返しラジウムは危険じゃないと言っていたそうです。母たちは騙されていたのです。

(ロナルド・ウィリアムス)

 

1925年、ラジウムガールの被害が初めて小さな記事で報じられました。24歳の工員マーガレット・カーロウが会社を相手どり訴訟を起こしたのです。これをきっかけに病気の原因の調査が本格的に始まりました。亡くなった被害者を解剖したところ、肺などの気管や骨から高い放射線が検出されました。

 

ラジウム時計に使われていたラジウムが非常に少量であったため、当初科学者たちはそれが人間を死に至らしめるなどと考えもしていませんでした。しかし、調査の結果ほとんどの科学者がラジウムが原因だと認めました。さらに、報告書の発表後にも女性たちが次々と亡くなっていきラジウムの危険性は一層明白になりました。

(イリノイ大学公衆衛生学ロス・ミュルナー教授)

 

マリー・キュリーはラジウムガールの被害についてアメリカの新聞が行ったインタビューにこう答えています。

 

体内に入ってしまったラジウムを除去する方法はありません。最適な方法は仕事を辞め雇われていた工場から限りなく離れた場所に住むことです。

 

その頃、マリー・キュリーはパリのラジウム研究所の初代所長として放射能の研究に邁進していました。しかし、マリー自身もいくつもの体調不良に襲われていました。貧血や慢性的な疲労感、指先はただれひび割れていました。研究所ではラジウムによる指先の火傷は科学の戦場で勝ち取った勲章でした。

 

マリーと一緒に研究をした学生や研究者たちは放射線のやけどの跡のある手を見せ自慢していました。それは貴重な物質を取り扱っている誇り、最先端の科学者である証明だったのです。

(キュリー博物館ロナウド・ウィン館長)

 

体調を崩した職員には短い休暇を与え、山の新鮮な空気を吸ってくるよう勧めました。

 

モーリス・ドムニトローは20年間ラジウムを扱い続け、突然激しい疲労感と手足の痛みに襲われて入院。1ヶ月持たず悪性貧血で死亡しました。死の間際「放射線のガスに殺された」と漏らしたと言います。

 

彼の死因について報告書を作らせたマリー・キュリーはこう書き添えました。

 

「彼は新鮮な空気を充分にとることができなかった」

 

放射能の危険性を認識していたにも関わらず、マリー・キュリーはなぜそこに科学者の目を向けことがなかったのでしょうか?

 

放射能も私が生んだ子供なの。その子の教育のため自分の力の全て自分の研究生活の全てをささげようと思っているわ。

(マリー・キュリーが友人に語った言葉)

 

マリーが切り開いた核の時代

年を重ねるごとにマリー・キュリーの体は蝕まれていきました。肝臓と腎臓の障害、極度の貧血、絶え間ない耳鳴り、視力も衰え両目とも白内障の恐れがありました。日に日に弱っていく中で親しい友人にだけ漏らした告白があります。

 

私の白内障の本当の原因はラジウムかもしれない。ふらついて歩くのに苦労するのもラジウムのせいかもしれないの。

 

1934年7月4日、マリー・キュリーは66歳で亡くなりました。死因は放射線被ばくによる再生不良性貧血とされます。

 

母の愛を渇望していた長女イレーヌは、母の背中を追って科学の道に進んでいました。科学者の夫フレデリック・ジョリオ=キュリーと共に、母が切り開いた放射能の研究を進め夫妻でノーベル賞を受賞しました。しかし、イレーヌ夫妻もまた放射線障害で亡くなりました。

 

マリー・キュリーが開いた放射線研究の扉。原子が変化するというマリーの発見は、世界中の科学者を原子そのものの研究へと向かわせました。それはその後の世界の有り様を変えてしまう禁断の扉でもありました。

 

原子は原子核を持ち、その原子核が分裂するさいに大きなエネルギーを発します。これが原子力です。1945年8月6日、人類は原子力を大量破壊兵器として利用する原子爆弾を完成させ、初めて実戦で使用。広島に投下された原子爆弾は爆心地から2キロの範囲の建物ほとんどすべてを吹き飛ばし、一瞬にして人々の命を奪いました。さらに、大量に放出された放射線の影響が生き延びた人々にも後々までつきまといました。その後も、核兵器の開発・拡散は続きました。

 

マリーは自分が愛した発見は、必ず世界をよい方向に導くと信じていました。まさか悪い方向に行くなんて、そんな可能性を考えていたでしょうか?それはキノコ雲となってしまいました。彼女が知ったら後悔したでしょう。自分がその扉を開いてしまったことを。

(作家ジャーナリスト バーバラ・ゴールドスミス)

 

核分裂のエネルギーを利用した原子力発電が1950年代以降、各国で実用化されました。放射性物質の燃料に巨大な電力を生み出しますが、一度制御不能になれば大惨事を引き起こします。

 

放たれてしまった馬を納屋に戻すのが難しいように、起こったことを元に戻すのは難しいのです。我々は今後何世代にもわたって、この恐ろしい力と付き合っていかなければなりません。

(作家ジャーナリスト バーバラ・ゴールドスミス)

 

人類は放射能の恐怖と切り離せない核の時代へと突き進んでいったのです。

 

 

パリの国立図書館にマリー・キュリーの研究ノートが保管されています。しかし、マイクロフィルムでの閲覧しか許されていません。今なお放射性物質の影響が残っているのだと言います。

 

ラジウム被害が続出している渦中にあった晩年のマリー。慣れ親しんだラジウムの光をじっと見つめこうつぶやいたと言います。

 

「何て美しいんでしょう。」

 

「フランケンシュタインの誘惑E+」
第二話「放射能 マリーが愛した光線」

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